坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

熱中時代

2008年03月20日 | 坊主の家計簿
 3月20日

 雑費  タバコ         300円
 食類  湯葉          200円
     豆腐          100円

 合計              600円
 3月累計          72215円

 中日。
 福留が去り、阪神には新井が加入した。今年はイケルで。中日なんてクソ喰らえ!

 ん?彼岸の中日終了。中日は朝からの仕事の流れで昼の部の法要が始まり、夜の部もあるので忙しいのだ。よって彼岸の峠終了。明日もあるが、明日は朝からの仕事がそれ程忙しくないし、夜の部だけだし。昨日と明日は10~15分程度喋らして頂くのだが、まあ、それくらいの時間ならなんとななるし。喋りたい事も決めたし。
 よって、峠を越えて「お疲れさま!」っちゅう気分で、夜の部が終わって帰って来て22時前そこから晩飯喰いつつ酒飲んでます。ちなみに只今23時33分。だいたいの日はシラフ状態なんだが、今日は夕寝もしてないし、早寝したいし、「御彼岸、お疲れさま!」なのだ。

 今日はオウム真理教がいわゆる『地下鉄サリン事件』を起した日らしい。
 何度か書いたが、私はオウム真理教の大阪の幹部数人に会って数時間話した事がある。
 無茶苦茶真面目な人達。無茶苦茶こころ優しい人達。当然、仏教にも熱心であって、詳しい。
 修行も熱心にやっておられたらしい。私はオウムの道場には行ってないが、行った友人の話によると。
 ようするに私を筆頭に、日本の大半の仏教者、僧侶よりも大真面目に仏道を歩んで居られた方々。オウム真理教を『邪教』と云う人がいるが私はそうは思えない。あの人達は大真面目な仏教者だった。まあ、宗派は違うが。

 昼間に仕事の移動中にラジオを聞いてたら若松孝二がゲスト出演していた。何やら新作の映画『実録・連合赤軍』の映画上映会が京大・西部講堂であったらしく、それで関西に来られたらしい。
 連合赤軍って今もある。これも直接会って喋った事があるし。当然、非常に真面目な方。優しい方。
 まあ、映画をどういう風に撮影しておられるのか解らないが、移動中に聞いた話では『熱きよき時代』なのかな?若松孝二だし。当然、ああいう事件を起こしたわけだからその反省もあるのかも解らないが、これは観てからやな。

 最近、戦争中の大真面目な優しい人達に思いを馳せる事が多くある。欧米諸国からのアジアの解放を大真面目に考えていたのだと思える様になった。当然、今でもそう思われている方々も多くいるわけだし、今まで失礼であったなぁ。と。

 真面目に日本の事、社会の事、人類の事、地球環境の事を考える素晴らしい人達。
 真面目であるが故に、時代社会の正義、あるいはその集団内の正義であるが故に、疑えない。自分(達)がやっている事を疑えない。その事が差別(煩悩)であると疑えない。

 思想、宗教。それらは、あえて『所詮』という言葉を使うが、所詮『自分が好きでやっている』のではないのか?当然、私だって私なりに日本や、社会や、人類や、地球環境の事を考えて居る。でも、やはり私は、それは『所詮』、『私が選んだ真実』と『思おう』をしている。
 だって、選んだのは所詮、私なんだし。決めたのも私でしかない。だから、当然、違う思想や宗教の方々も多く居る。っちゅうか、そっちの方が大多数だし。所詮、私が選んだ事。

 真面目であればある程、他者が見えなくなる。当然、私だって、私の偏見でしか物事、他者を判断出来ていないのだろうし。

 『世間』。「世間という場合には必ず自分が含まれていない」とは恩師から教えて頂いた言葉。当然、その言葉を聞いて「おお!」と感じたのは私。
 世間で正しい、まあ、『世間』といっても重層的なんだが、それぞれの共同体での世間。そういう『世間』が先にあり、その世間に自分を合わそうとするのか、それとも自分が選んだ、つまり自分が先にあり、所詮自分が選んだ共同体内発想(思想・宗教)なのかとは、違うと思う。
 
 『世間』。その『世間』が、その共同体内発想(思想・宗教)が優れていれば居る程、その中で自分が救われたが故に、自分を忘却してしまいがちにならないだろうか?自分が選んだ、決定したのは自分でしかない、他の誰でもなく、つまり、他人は選ばず、自分が選んだ事を忘却しがちになる事が多くない?

 優れている、優れていないは別にして『常識』というのがある。『普通』というのもある。
 「常識で考えてみいや」
 「普通わやな」
 「あの人って常識外れ」
 「あの人って普通じゃない」
 という、差別(煩悩)。

 他者の発見は、「他者を見出す事が出来ない」という所にしかないと私は思う。

 恩師の1人がある機関誌にこんな事を書いていた。
 大谷派が揉めた時に、恩師達は抗議行動をした。でも、恩師の先生は動かなかった。そこで恩師は「先生はなぜ行動しないのですか?」みたいな事を聞いたらしい。そしたら先生は、「あなたは傲慢な人ですね」みたいな事を云われたらしい。ただ、今現在、非常に酔っぱらっているので、全然違う話かも知れんが。
 その恩師から私が指摘された事。「『許せない』、と、あなたが書いた事に対して深く考えて下さい」と。

 『許せない』のは、所詮『私』が許せなかっただけの話。相手は、相手の人生を生きて居られる。共に生きて居られるにも関わらず、私はその相手の事を『許せない』と斬り裁いていた。
 ネット上で私と揉めた人はよく知っているだろうし、リアル私をよく知っている人は解るだろうが、私は人を追い込むのが得意なのだ。もう、多分、一番の才能はそれだと思う。人を追い込む才能に満ちあふれている。人を斬り裁く才能に満ちあふれている。
 
 私が最初にやった店の名前は『聖カミソリ』。『聖(セイント)』で、『カミソリ』である。
 この名前をつけた時に、周囲の大人達が「お前にピッタリやの」と笑われた。完全無欠の美を求める兄ちゃんだったし。当然、「30以上の大人は信じるな!」だったし。まあ、よう裁いて来た。よう追いつめて来た。他人も自分も。他人を傷つけ、自分も傷つけ、甘美な世界に酔いしれる。
 まあ、今もなんだろうが。今は、それが差別(煩悩)である、という事だけは私にとって確かであると『思おうと』するようになった。
 私の人生だし。私の人生は私が決める。仏教を、恩師を選んだのも私である。他の誰でもなく、所詮私が選んだ事に過ぎない。
 当然、例えばオウム真理教の人達であるとか、連合赤軍の人達であるとか、前の戦争で聖戦を押し進めていた方々も同じだと思う。それぞれが、それぞれの人生の中で選ばれた事。だから、私には私が選んだ事があり、相互批判は大歓迎であるし、私も他人を決めつけているし、故に決めつけられる事もありだが、それはその人個人が選んで私という『他人』に伝えているという事実だけは確認して頂きたい。
 ポアだろうが、粛正だろうが、されるのはイヤだし。
 私だって生きているんですよ。他人と違う人生で。
 当然、私は、私の人生の中での価値判断である。

 
 私は私の人生の中で仏教徒に選んでなったので、ついでのオマケ。
 というか、結構長いのだが。
 下記の私なりのポイントは『一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。』
 当然、私には捨てれないので、『捨てれない』という所に立とうとしたい。偏見でしか見出せない、と云う所に立とうとしたい。

 


878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。
882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?
884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。
885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
 (岩波『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳より)

 
 

 私は真宗門徒なので、またまたオマケ。

  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし
  (親鸞)

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2 コメント

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旧オウム (れんじ)
2008-03-21 14:59:01
ぼくも、もとオウム、今「ひかりの輪」の人は知ってます。ごく真面目な人たちで、麻原氏と一線を画した以上、公安の警戒対象からはずしてもいいと思う。
赤軍派はどうかな。直接知らんから何とも言えんけど、当然自己批判はしてはるやろね。
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Unknown (エロ坊主)
2008-03-22 00:38:51
 >麻原氏と一線を画した以上、公安の警戒対象からはずしてもいいと思う。

 鈴木邦男氏の『公安警察の手口』を読んで知ったのですが、公安ってヒマみたいですから、無理だと思いますよ(笑)

 ただ、『純粋』って危ないですね。純粋が故に穢れを嫌う。その辺のムードが、まあ、昔からなんだろうけど、今、非常に気になります。
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