坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

宗祖が待ってる故郷

2011年07月28日 | 坊主の家計簿
 録画していたドキュメンタリー2本。

 1本目はMBSの『映像’11 大阪・宮城・福島~故郷を離れた家族たち 』

 http://www.mbs.jp/eizou/

 3月11日の大災害(原発事故含む)で故郷を離れた家族の物語。
 福島から来た家族も、宮城から来た家族の共に堺市。堺市って、うちから大和川を越えたらすぐ。
 特に宮城から来た家族が住んでいる所は、多分、むっちゃ近い。家族の子どもが転校で通い出した小学校までならば直線距離で2キロない。まあ、橋の都合でグルっと回らなければならないのだが、まあ、近い。電車で隣の駅だし。
 ここの子どもが震災のストレス、生活環境の急変のストレスで唇が割れていた。ちなみに福島から来た中学生の女の子の唇も同じように割れていた。キツかってんやろなぁ。。。

 福島・浪江町から来た家族は地震の被害はあったが、それでも家は無事で(中はぐちゃぐちゃだが)、福島原発事故からの避難。故郷に荷物を取りに帰る許可が出て、放射能から身を守る為の白装束をコーナンで買って来たみたいだ。見慣れたコーナン(ホームセンター)の袋から取り出してはったし。思わず「コーナンでそんなもん売ってたんけ!」と驚く。今度見に行こ。
 一時帰宅の時に、そこのお母さんが「帰りたくない」と言い出して、お婆ちゃん(実母っぽい)から叩かれていた。60ぐらいだと思うのだが、そら、やってられへんわな。3時間だけの滞在時間で、思い出が詰まった家から、故郷から、また離れなければならない。「もう二度と帰れないかも知れない」と。

 宮城・女川町からの家族は、子どもの元気がなくなったので、こちらも故郷に一旦帰る事に。帰ると言っても家は津波でない。土台ごとない。なので泊まるのは車の中。
 親が役所で手続きしている間に、子どもは本来であれば長女が今年の春から通うはずだった小学校で遊ぶ。小学校の休憩時間になったら、長女の友達が「○○ちゃん!」と言いながら駆け寄って来る。え~。。。冷血な私でさえ泣いてしまった。


 2本目はNHKの『源淳子が村にやって来た~女人禁制に生きる人たち』
 え~。。。ウソです。
 ETV特集の『鯨の町に生きる』

 http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0724.html

 少し前に放送してた『クジラと生きる』の再編集バージョン。
 以前の放送の時に書いたブログ

http://blog.goo.ne.jp/erovows/s/%A5%AF%A5%B8%A5%E9%A4%C8%C0%B8%A4%AD%A4%EB

 40分増えた今回の再編集バージョンでは、『三好さん』やったかな?その人が以前に鯨漁を辞めた事や、鯨を殺した日には写経をする事なども取り上げられていた。鯨を殺す時に鯨と目が合うらしい。それがたまらんらしい。だから「写経せずにはおれない」らしい。
 また、これも前回ではカットされていたのかな?「コーブの映画から教えられた」みたいな事を言ってはった。「あいつら(反捕鯨団体の人達)から教えられた」と。確か、放映では2人の方からそういう言葉があった。自分達が鯨を殺す場所を隠している事に対して。
 「死は荘厳なものだ」みたいな感じか。「何故隠さなければならないのだ?」という内部の批判に対しての言葉。殺しているシーンがYouTube等でアップされた事に対して。
 『殺す事』を問題視して「辞めさせよう」とする側は、殺すシーンを公開する事によって問題性を証明したいのだろうが、同じく『殺す事』を問題視しながらでも「それで生きていく」という側にとって、「鯨を殺す場面は決して動画投稿サイトでアップされる性質のものではない」みたいな感じなのだろう。今回の放映でもなかったし。つまり、言葉は悪いが「見せ物にしていい場面ではない」と。「もっと厳格で荘厳であるべきだ」と。

 
 3つの故郷。

 大地震と津波で家を失った家族の故郷。
 大地震と津波から生じた原発事故の影響で家はあるけど帰れない家族の故郷。
 反捕鯨団体の人達が町にやって来て今まで自分達が普通にしていた事を妨害される人達の故郷。

 今日、ツイッターでは「あるある話」で盛り上がってはった。『僧侶あるある』も面白かったのだが、それぞれの地域の『あるある話』が面白かった。眞鍋かをりも故郷・愛媛のあるある話にタルトネタで書き込んではった。懐かしいねんやろな、と思った。

 先に『源淳子が村にやって来た~女人禁制に生きる人たち』と書いたが、天川村の洞川に生きる人達の物語も撮影してもエエのでは?と思う。両者側からの視点でもって。
 一方的な視点であれば、当然、片側が悪になる。『悪』という言葉が適確でなければ『時代遅れ』であっても、『解放されなければならない人々』であっても何でもエエ。片側が間違っている話になってしまう。でも、それを逆の視点から撮影したならば、また違った視点が出て来る。当然だ、そこに生きている人が事実としているのだから。何かの思想、視点でもって「おかしい!」であっても、それは何かの視点でしか過ぎない。女人禁制も偏見ならば、『女性解放理論』も偏見にしか過ぎない。あくまでも、『自分側からの視点』にしか過ぎない。それぞれが、それぞれに偏見を持ちつつ生きざるを得ない、というのが事実ではないのか?それとも、なんだ、『女性解放の人達』は悟りでも開いたのか?女性解放『だけ』が真実なのか?そこに『事実、生きている人』を無視して。

 寺社会には女性差別が多い。特に真宗は『肉食妻帯』で寺に女性が居ているのが当然だったので、問題が明らかになり易い状況なのかも知れん。
 
【釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。】(親鸞聖人『唯信鈔文意』より)

 だって、親鸞の個人的信仰体験の表現なんだろうが、ステレオタイプの偏見である。
 私は親鸞聖人が偏見を捨て去る事が出来たとは到底思えない。その逆で「私には偏見しかない」という事を証らかにした人ではなかったのではないかと。それが故に『宗祖』であったのでは、と。

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2 コメント

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ほらっ、 (ドグマ)
2011-07-28 04:56:45
逆もまた真なり。
ってか?
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Unknown (エロ坊主)
2011-07-29 00:50:24
「見方を変えればなんとやら」とか。
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