坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

彼岸と此岸。

2013年09月24日 | 坊主の家計簿
彼岸と此岸。
これを混同してしまうと、この世の差別が問えなくなる。
彼岸の世界からの光に照らされて、この世の、我身の差別(心)が明らかになる。


彼岸と此岸。
これを混同してしまうと、我身の醜さが、いや、醜さを隠そうとしてしまう心に光が入らない。問題に、課題にならない。故に、「あっちにいっちゃった系」になってしまう。心地よい自我という繭に囲まれた世界を肯定してしまう。肯定してしまう事を課題か、問題化出来ない。心地よい言葉ばかりを吐いて、あるいは「見ようとして」醜悪な我身から逃れようとする。


四法印では一切皆苦が入る。これが何故「法の印」なのか?事実だからである。縁起の道理を引き受けられない我身が故に「一切皆苦」なのである。ここを抑えないと、何の為の、誰の為の仏教なのか全く解らなくなってしまう。


「ダメ人間の自己肯定」が何故悪い。その場合に問題があるとするならば、「ダメ人間であるが故に素晴らしい」と、娑婆の論理に戻してしまう事だ。それは「金持ちだから素晴らしい」と何等変わらない。そして、同じく、悲しく、情けなく、寂しい話でしかない。


易往而無人。往き易く人無し。
単純な話である。差別心が許さない。ダメ人間がダメ人間のままで救われる(一切平等)など認められないからだ。それだけの話である。


だから、差別化しようと、あくせくする。真宗仏教を使ってでもあくせくする。そんな、差別心バリバリのダメ人間すら救って下さるのが真宗仏教ではないのか?


ただ念仏。「念仏以外の一切の価値観を拒否する」
もっというなれば、(流転輪廻している)存在している事以外の一切の価値観を拒否する。
それが故に、同悲同苦ではないのか?「煩悩具足のわれら」ではないのか?


「人間は二度産まれる。一度は母から。二度目は如来より。苦悩は如来の陣痛なり」
という言葉があって、当然、誰の言葉なのか憶えていない。ひょっとして自分の中で変革されているかも知れない。しかしながら、大切にしたい言葉。


他人の苦悩は見えない。あくまでも「知っている情報」だけで判断しているだけだ。解らんのだ。解らんにも関わらず、知っている情報だけで他人を切り裁く。その働くは同時に(思っている)自分をも切り裁く。


切り裁くのはエロスだ。快感である。故に酔い痴れる事が出来る。「私ってなんて酷い人間なのかしら」と酔い痴れる。それが快感になる。それが、いや、それもエロスである。


そんな中毒患者である。中毒患者が健康なフリをして、「私、間違ってませんから」とはお笑いであるが、笑えない我身の事実がある。全く同じである。故に、笑えずに、共に泣く、悲しむしかない。


笑える権限を持った人間などこの世に誰一人として居ない。しかしながら、そんな立場であると勘違いしてしまう。それも宗教の危険性ではないのか?だから、信仰が、御本尊が必要ではないのか?


よふたし、寝る


最後。自己批判程、甘っちょろいものはない。単に酔い痴れているだけ。まあ、酔っぱらいが言っても何の説得力もないが、単に我身を立てるだけ。どれだけ血反吐を吐こうとも、我身を立てているだけ。


友達って、本当に有難い。
まあ、親子、結婚相手、恋人、どんな関係であっても構わないのだが。


最後の最後。「自分が出来る(出来た)から」といって、それを他人に当てはめるのは、アホでしかない。そして、私(たち)は、そんなアホでしかない。それが彼岸と此岸。

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