坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

念仏の人

2014年04月18日 | 坊主の家計簿
【私は学生時代、京都大学仏教青年会の委員をしておりました。みんなよく仏法を喜んでおりました。しかし、その当時、京大の学生といったら、生意気ですから、先生を呼んで試験しておりました。講演に招く形で、「今度、あの先生をテストしてやろう」というようなことをしていたのです。そんなことをしますから、先生方はみなカンカンに怒って、講義が済んだら帰ってしまわれました。それを見て、「あの先生、怒ったな。あかんな」と言うわけです。若い学生といいますのは、「はい」と、聞く真似をしておりますが、ちゃんと先生を試験しております。今でもそうです。
 あるとき、
「西元くん、同朋舎という印刷屋の足利浄円という人、これは本物という噂があるから、いっぺん呼んでテストしようじゃないか」
ということになり、私が交渉役になり、お願いしました。京都大学の楽友会館で先生のお話を承りました。聞いたあとで座談会をいたします。この座談会がわれわれの目的なのです。それで座談会になったら、すぐ始めるのです。
「先生、ほんとうに御信心おありですか」と、こう問う。先生は、突然のことでしばし黙っておられました。するとまた、
「先生、ないんですか」
と言う。そしたら先生、ほんとうにまじめなお顔をされまして、恥ずかしそうに、
「なにもございません」
そして、こう言われた途端に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を申された。みなアッと息を飲むのです。
「なにもございません。おかげさまで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
そして、わたしの顔をじっと御覧になるのです。そのときは、ほんとうに汗がでました。あとでみな「あれは本物やったな」と言いました。若い人々は、ほんとうにはなにも知らないのですが、直感的に感ずるのです。】(西元宗助『念仏に生かされて』より)

 という文章を思い出すような出来事があった。

 ある学習会後の座談会での出来事。ある参加者が講師の先生に対して「むかつく」から始まる質問をした。質問内容は朝からリンゴ数切れしか食べてなくエネルギーが切れていたのでイマイチ憶えていない。だが、その参加者が私の隣に座っていた事や、その後の場の雰囲気が一変したので、そこからは何となく憶えている。講師の先生は戸惑いながら、動揺しながら、質問に応えておられた。途中、話されながら合掌しておられた。合掌しておられたのか、たまたま胸元で両手を合わされていたのかは解らないが、私には合掌して居られるように見えた。そして、愚者になられた。

【私は浄土に往く、浄土が何処かにあって往くというのではない。浄土を思想的に考えたり、観照的に捉えたりして、そこへ往くというのでは毛頭ない。私が浄土へ往くという理由は簡単だ。私は今夜、念仏して浄土に往く人を見て来たんだ。この眼ではっきり見て来たんだ。ただそれだけ。それでもう充分。私はこの人を信じる。だから、私も浄土に往く、とこういうことなんだ、さあ、君はどうするか? 君も私と一緒に往くか? どうするか? ……しかし、それは君自身の決定にすべき問題だ。とにかく私は浄土に往く】(信國淳「出会い」より)

 浄土往生なされた。凡夫になられた。
 そして、参加者の質問に丁寧に応えるだけでなく、「質問」というよりは「批判」に対して、本当に有難そうに応えられておられた。
 
 「自分の課題」とは優等生の『真宗よゐこ』が真宗ステレオタイプで使う言葉。ステレオタイプなので、その言葉自体が発言者自身のこれまた真宗ステレオタイプでよく使う「自分の言葉」になっていない場合が多い。
 でも、その講師の先生は、見事だった。自分の課題、というか、自分自身を取り戻すか。凡夫として、一人(いちにん)として、ただのひととして。故に、どんな批判でも引き受け、ちゃんと、「その人の言葉」として向き合う事ができ、尊敬出来る。いや、ええもんを見せていただいた。

 え?私?無理に決まってるやろ(笑)多分、瞬時にキレるだろうし、その時に疲れていたら、無視か。後になって色々と思い返すかも知れないけど。

 母校・大谷専修学院時代に恩師が「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と食事中だったか、なんの時だったかイマイチ憶えていないが(頭悪くてすまんの)、「先生、どうしたんですか?」と聞いたら、「やってられるか!」と(笑)色々とストレスが満腹だったらしい(笑)
 でも、そうやって、念仏申しながら、「ブラザーシステム」

【こうして我々のブラザー・システムは、教える者と教えられる者という、教えにおける人間の二者対立的な関係を絶対にゆるすことのない、仏の人間教育そのものに相応しようとするシステムであります。】(信国淳『呼応の教育』より)

というややこしい教育方針であるが故に、いわゆる「先生面」出来ない中で朝から晩まで私(たち)と共同生活をやってくれていたわけであって。そんな事も思い出す。

 念仏は念仏なので、本物も偽物も、スゲエもクソもないのだが、私の価値判断には当然ある。故に、いや、久々に本物のスゲエ念仏者の出会った。

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