2月6日
雑費 缶コーヒー 120円
野菜ジュース 110円
公文学費 4200円
道楽 温泉&マッサージ機 800円
焼肉中年 2573円
食類 豆腐 105円
山芋 112円
マーボーの素 168円
合計 8188円
2月累計 19898円
いざ温泉へ。
よう考えたら、今年初温泉か。正月旅行で高松のホテルには温泉があったらしいのだが、飲みまくって居て、せっかく「温泉がある」っちゅう事で選んだホテルで温泉に入らず、やったしなぁ。。。
温泉と焼肉はセットである。ので、温泉でボンヤリボンヤリボンヤリして、焼き肉屋でボンヤリボンヤリ、香山リカの『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』をビールがぶ飲みしながら読む。
当然、オウムとの関連話しも出て来るのだが、オウムの幹部達が高学歴であった事は単なる『優生思想』ではないのか?と私は思う。で、スピリチュアルはもっとか。
香山リカはさすがに精神病理学の人だけあって彼女なりの見方で本は書き綴られているのだが、やっぱし『差別』っちゅう概念を放り込むともっと整理が付くと思うのだが。
当然『ハマらない人』だって差別者だ。私は『元ハマってた人』であり、現在仏教徒になって『ハマらない人』、ん?香山リカ的には厳密に違うのだが、無霊魂だし。三世(過去、未来、現在)は信じるが、でも、無霊魂だし。
まあ、ええわ。『ハマらない人』だって差別者である。
んなもん、どれだけ「あれは迷信や!」と切り捨てているものか。
今のスピリチュアルブームは、そういう在り方の反動だと感じるのだが。当然復古主義にも繋がるし、三丁目の夕日でっせ。あ、全共闘にも繋がるな。
言語は当然『言語で区切る』が故に限界がある。例えば『私』といっても、んなもん当然関係存在としての『私』なんだし。
んでやな、『前世』とか、あるいは『親子の関係が悪かった』でもやな、んなもん言語の問題やんけ。
『オーラ』を感じるなんぞ共同幻想やろ。言語でっせ、言語。
そういう意味合いでは『スピリチュアル』とかいいながら、全然スピリチュアルでない感じを受けるのだが。
『不安に立つ』(安田理深)っちゅう言葉の方が、私にとっては余程『スピリチュアル』なんだが。
と、まあ、差別化するわけだな。それが『言語』であり、『私』であるわけだ。
私は仏教徒なので『執着する存在としての衆生』という言葉を非常に大事にする。何故『仏教徒』と云う言語を使うかというと、『日頃のこころ』では、んな事は一切考えていないからだ。帰依しようとするたんびに、要するに何度も何度も「念仏申さずには生きて行けない」っちゅう時に立ち返る原点みたいなものか。仏教徒が仏教徒の名告りをたった一度だけ『あげったきり』なら、要するに『お上人様の出来上がり』なら『執着する存在としての衆生』、要するに『煩悩具足の凡夫たる私』に立ち返る作業を怠っているだけなんだし。
そういうのがスピリチャルムーブには無い感じを受ける。
まあ、優生思想であって、日頃のこころの私そのものやな。宗教の危険性そのものやな。
香山リカなら精神病理学にハマり馬糞を掴み、スピリチュアルならスピリチュアルという馬糞を掴み、私なら仏教という馬糞を掴んでいるだけの話だな。
そんなもんだぜ。『執着する存在としての衆生』は。
で、今日の太田莉菜の写真は何にしよ。太田莉菜はエエで。あおいちゃん以来のヒットでっせ。よってこのブログはしばらく『太田莉菜画像ブログ』になります(笑)
写真決定。ついでにタイトルも代えよ。
雑費 缶コーヒー 120円
野菜ジュース 110円
公文学費 4200円
道楽 温泉&マッサージ機 800円
焼肉中年 2573円
食類 豆腐 105円
山芋 112円
マーボーの素 168円
合計 8188円
2月累計 19898円
いざ温泉へ。
よう考えたら、今年初温泉か。正月旅行で高松のホテルには温泉があったらしいのだが、飲みまくって居て、せっかく「温泉がある」っちゅう事で選んだホテルで温泉に入らず、やったしなぁ。。。
温泉と焼肉はセットである。ので、温泉でボンヤリボンヤリボンヤリして、焼き肉屋でボンヤリボンヤリ、香山リカの『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』をビールがぶ飲みしながら読む。
当然、オウムとの関連話しも出て来るのだが、オウムの幹部達が高学歴であった事は単なる『優生思想』ではないのか?と私は思う。で、スピリチュアルはもっとか。
香山リカはさすがに精神病理学の人だけあって彼女なりの見方で本は書き綴られているのだが、やっぱし『差別』っちゅう概念を放り込むともっと整理が付くと思うのだが。
当然『ハマらない人』だって差別者だ。私は『元ハマってた人』であり、現在仏教徒になって『ハマらない人』、ん?香山リカ的には厳密に違うのだが、無霊魂だし。三世(過去、未来、現在)は信じるが、でも、無霊魂だし。
まあ、ええわ。『ハマらない人』だって差別者である。
んなもん、どれだけ「あれは迷信や!」と切り捨てているものか。
今のスピリチュアルブームは、そういう在り方の反動だと感じるのだが。当然復古主義にも繋がるし、三丁目の夕日でっせ。あ、全共闘にも繋がるな。
言語は当然『言語で区切る』が故に限界がある。例えば『私』といっても、んなもん当然関係存在としての『私』なんだし。
んでやな、『前世』とか、あるいは『親子の関係が悪かった』でもやな、んなもん言語の問題やんけ。
『オーラ』を感じるなんぞ共同幻想やろ。言語でっせ、言語。
そういう意味合いでは『スピリチュアル』とかいいながら、全然スピリチュアルでない感じを受けるのだが。
『不安に立つ』(安田理深)っちゅう言葉の方が、私にとっては余程『スピリチュアル』なんだが。
と、まあ、差別化するわけだな。それが『言語』であり、『私』であるわけだ。
私は仏教徒なので『執着する存在としての衆生』という言葉を非常に大事にする。何故『仏教徒』と云う言語を使うかというと、『日頃のこころ』では、んな事は一切考えていないからだ。帰依しようとするたんびに、要するに何度も何度も「念仏申さずには生きて行けない」っちゅう時に立ち返る原点みたいなものか。仏教徒が仏教徒の名告りをたった一度だけ『あげったきり』なら、要するに『お上人様の出来上がり』なら『執着する存在としての衆生』、要するに『煩悩具足の凡夫たる私』に立ち返る作業を怠っているだけなんだし。
そういうのがスピリチャルムーブには無い感じを受ける。
まあ、優生思想であって、日頃のこころの私そのものやな。宗教の危険性そのものやな。
香山リカなら精神病理学にハマり馬糞を掴み、スピリチュアルならスピリチュアルという馬糞を掴み、私なら仏教という馬糞を掴んでいるだけの話だな。
そんなもんだぜ。『執着する存在としての衆生』は。
で、今日の太田莉菜の写真は何にしよ。太田莉菜はエエで。あおいちゃん以来のヒットでっせ。よってこのブログはしばらく『太田莉菜画像ブログ』になります(笑)
写真決定。ついでにタイトルも代えよ。
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