坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

危険思想としての『凡夫』

2006年02月22日 | 坊主の家計簿
 2月22日

 雑費   缶コーヒー    120円
 振込   古本送料込み  3150円

 合計     3270円

 記入忘れ  国民年金   13580円

 2月累計  91920円

 プラスでアマゾンでの買い物が2500円ぐらいやから、95000ぐらいか。。。ちょっと気を付けなあかんなぁ。

 
 ♪ナンバーワンに成らなくてもイイ
  元々特別なオンリーワン

 は凡夫なんだろうか?
 『煩悩具足のわれら』と云う人間観に立ち返る事が出来るのだろうか?

 「私は私、あなたはあなた」で綺麗な自分で居ようとする。他との比較をする心を切り捨て観ようとせずに『楽』な世界に引き蘢る。『煩悩具足の凡夫』を否定する。
 そして批判をきらう。きれいな私で居る為には批判は禁物。怒りを否定するが故に批判も出来ない。我が身を振り返る事がイヤなので批判を避ける。

 「私は私、あなたはあなたなのよ」
 それは決して『私』が私に成ったわけではない。自己満足の中の『私』であって、決して事実としての私ではない。そして批判される事のない『居心地のイイ居場所』を探し求める。
 
 「同じ」
 同じ趣味、同じ宗教、同じ目的。
 『同じ』でないと、自分を誤摩化せる、他者との比較なしでの煩悩など見つめずにすむ場を求める。

 自分(達)は『仏様』であり、煩悩を持って居るのは相手側である。他者である。間違っているのは他者である。自分(達)では決してない。
 そこに社会で認められた大義名分が付けば、あるいは自分達内での大義名分が付けばますます自分(達)を見つめる事が出来ないしようとしない。
 一部の偏見を持った男性が云う「女は。。。」
 一部の偏見を持った女性が云う「男は。。。」
 共に自分(達)が煩悩を抱えた存在である事を忘却する為の道具、自分(達)の正しさを証明する為の道具、自分(達)の差別意識を観ようとしないが為の道具としての『他者』、自我拡大の中の他者。
 仲間としての他者(自分達)も、敵としての他者も、所詮自我拡大の中の他者でしかない。

 それは『佛』を我が手に収めているから。煩悩具足の凡夫である事、存在の事実の忘却。

 「そういうもの」である。だからこそ他者からの批判は大事なのであるが、傷つく事の出来ない『よゐこ』は「私は私、あなたはあなた」と批判をかわす。『よゐこ』は、決して自分自身に成りえない。
 
 ♪ナンバーワンに成れなくてもイイ
  元々特別なオンリーワン

 と歌う事によって自分と見つめる事を避けようとする。「みんなと仲良し」でもって、「私は私、あなたはあなた」でもって、『違いを認める』事によって、煩悩具足の凡夫に成れない。煩悩具足の凡夫でないから『佛』の側に立つ。錯覚を起こす。
 同じ煩悩を抱えたもの同士としての『批判』でなく、他を斬り裁く。

 「私は私、あなたはあなた」には個人がない。自己がない。私がない。「私は私、あなたはあなた」と認められない比較の心を自分の事として観れない。
 「私は私、あなたはあなた」でも、「他人の個性を尊重しましょう」でも、それだけの思想の延長線には自我拡大しかあり得ない。
 
 「『私は私、あなたはあなた』と云うのは事実である。でも、私はそういう風に観ようと出来ないのだ。。。」
 「私は他人の個性を尊重出来ないのだ。。。」
 と云う所で『同じ』なのではないのか?嘆きの部分で同じなのではないのか?

 よゐこは決して自分自身になり得る事などあり得ない。他者を自我拡大で捉えようとする思想であり、道である。
 煩悩具足の凡夫とは差別者である自分の名乗りでもある。
 よゐこは差別者は自分ではない。常に相手である。そこに佛などない。

 よゐこが煩悩具足の凡夫でない『隙間』に何が詰め込まれるのだろうか?よゐこがよゐこで居る為に、自分が決して悪者でない事を証明する為の『隙間』に何を詰め込まれるのだろうか?何を詰め込もうとするのだろうか?
 流行。自己逃避の為の宗教。国家意識、民族意識。社会貢献。カルト的な運動(ある種の市民運動含む)。『善』。昔なら身分か。

 『煩悩具足の凡夫』とは、『よゐこが作り出す国家』をくつがえす思想である。

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