1月11日
1円も使ってません
1月累計 47003円
成人式なのか?うちの市では今日、晴着姿を見なかったのだが。まあ、連休やし、今日か、明日のどっちかでやっているのだろう。
テレビでは西本願寺での成人式の様子が流れて居た。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090111/trd0901111853016-n1.htm
素晴らしい。。。神社だけちゃいまんねんで、成人式は。
この成人式は『おかみそり』、まあ、仏弟子としての名告りの儀式を兼ねて居るようである。つまり、成人式=仏弟子の名告りの儀式でもあるらしい。法名を頂いての成人式。『人に成る儀式』でんな。
【あなた、本当の人になってください。本当の人になってくださるならば、その新しい人になったあなたのいのちのなかで、私たちは私たちの死を無駄にしないで、私たちはそこで成仏していきます。あなたのいのちのなかで、新しく私たちは成仏していきます。だから、あなたたちは、私たちを踏みにじっている限りにおいて、あなた方は何を負担としてもらうこともいらない。そうではなくて、人になってください。真の人間になって下さい。】(廣瀬杲『罪業深重』より)
日々の生活はの現場である。
新成人なら20年間、私なら40年間を繰り返し生きて来た。
『食べ物』と差別すれば問題ないかも知れないが、『食べ物』が『同じ生き物』なら、でしかない。
「この花はキレイでしょ」と、花を殺す事に全く無自覚である。そんな罪を『罪』とすら感じない。
【「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。】(真宗聖典257~258より)
成人式。
20年間なら、20年間、決して1人で生きて来れたわけではない。1人で生きれるわけがない。殺して喰わなければ死ぬのだ。喰っているものは生き物の死骸にしか過ぎない。
そんな多くの支え(犠牲)の上に生きているのが現実である。
にも関わらず
「こういう私はキライ」等と。
「こういう私は好き」「こういう私はキライ」等と、多くの支え(犠牲)を無視している。
それは『思い』にしか過ぎない。事実として我々は生きて行く為に多くの支え(犠牲)を必要としている。
「こういう私はキライ」と云えるのも、多くの支え(犠牲)があるが故に云えるのだ。それが事実である。それが事実でしかない。その上で「こういう私はキライ」と云っているに過ぎない。
「こういう私は好き」「こういう私はキライ」とは日常である。日常生活はそれしかない。都合によってしか生きていない。多くの支え(犠牲)を忘却しているにしか過ぎない。
【あなた、本当の人になってください。本当の人になってくださるならば、その新しい人になったあなたのいのちのなかで、私たちは私たちの死を無駄にしないで、私たちはそこで成仏していきます。あなたのいのちのなかで、新しく私たちは成仏していきます。だから、あなたたちは、私たちを踏みにじっている限りにおいて、あなた方は何を負担としてもらうこともいらない。そうではなくて、人になってください。真の人間になって下さい。】(廣瀬杲『罪業深重』より)
法名を名告る。
法名は『いただく』ものではない。自分自身が『名告る』ものである。
『いただく』のは自己責任がない。自己がない所に帰依はない。帰依せざる得ない所に自己がある。自己とは帰依せざる得ない所に初めて成り立つものである。
【世尊、我一心に、尽十方 無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。】(願生偈より)
が成り立たない。
罪を犯し、様々な支え(犠牲)の上に生きているのは自己でしかない。
成人式。
差別者の自覚に立ち返る儀式。
どんな人でも『人である』という事を忘却し続けている事に対する慚愧の儀式。
1円も使ってません
1月累計 47003円
成人式なのか?うちの市では今日、晴着姿を見なかったのだが。まあ、連休やし、今日か、明日のどっちかでやっているのだろう。
テレビでは西本願寺での成人式の様子が流れて居た。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/090111/trd0901111853016-n1.htm
素晴らしい。。。神社だけちゃいまんねんで、成人式は。
この成人式は『おかみそり』、まあ、仏弟子としての名告りの儀式を兼ねて居るようである。つまり、成人式=仏弟子の名告りの儀式でもあるらしい。法名を頂いての成人式。『人に成る儀式』でんな。
【あなた、本当の人になってください。本当の人になってくださるならば、その新しい人になったあなたのいのちのなかで、私たちは私たちの死を無駄にしないで、私たちはそこで成仏していきます。あなたのいのちのなかで、新しく私たちは成仏していきます。だから、あなたたちは、私たちを踏みにじっている限りにおいて、あなた方は何を負担としてもらうこともいらない。そうではなくて、人になってください。真の人間になって下さい。】(廣瀬杲『罪業深重』より)
日々の生活はの現場である。
新成人なら20年間、私なら40年間を繰り返し生きて来た。
『食べ物』と差別すれば問題ないかも知れないが、『食べ物』が『同じ生き物』なら、でしかない。
「この花はキレイでしょ」と、花を殺す事に全く無自覚である。そんな罪を『罪』とすら感じない。
【「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。】(真宗聖典257~258より)
成人式。
20年間なら、20年間、決して1人で生きて来れたわけではない。1人で生きれるわけがない。殺して喰わなければ死ぬのだ。喰っているものは生き物の死骸にしか過ぎない。
そんな多くの支え(犠牲)の上に生きているのが現実である。
にも関わらず
「こういう私はキライ」等と。
「こういう私は好き」「こういう私はキライ」等と、多くの支え(犠牲)を無視している。
それは『思い』にしか過ぎない。事実として我々は生きて行く為に多くの支え(犠牲)を必要としている。
「こういう私はキライ」と云えるのも、多くの支え(犠牲)があるが故に云えるのだ。それが事実である。それが事実でしかない。その上で「こういう私はキライ」と云っているに過ぎない。
「こういう私は好き」「こういう私はキライ」とは日常である。日常生活はそれしかない。都合によってしか生きていない。多くの支え(犠牲)を忘却しているにしか過ぎない。
【あなた、本当の人になってください。本当の人になってくださるならば、その新しい人になったあなたのいのちのなかで、私たちは私たちの死を無駄にしないで、私たちはそこで成仏していきます。あなたのいのちのなかで、新しく私たちは成仏していきます。だから、あなたたちは、私たちを踏みにじっている限りにおいて、あなた方は何を負担としてもらうこともいらない。そうではなくて、人になってください。真の人間になって下さい。】(廣瀬杲『罪業深重』より)
法名を名告る。
法名は『いただく』ものではない。自分自身が『名告る』ものである。
『いただく』のは自己責任がない。自己がない所に帰依はない。帰依せざる得ない所に自己がある。自己とは帰依せざる得ない所に初めて成り立つものである。
【世尊、我一心に、尽十方 無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。】(願生偈より)
が成り立たない。
罪を犯し、様々な支え(犠牲)の上に生きているのは自己でしかない。
成人式。
差別者の自覚に立ち返る儀式。
どんな人でも『人である』という事を忘却し続けている事に対する慚愧の儀式。
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