坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

親知らず3・泣く

2006年05月08日 | 坊主の家計簿
 5月8日

 食類   ちらし寿司      200円
      納豆3         78円
      発泡酒        175円
      ピーマン        88円
      ベーコン       245円
      キムチ         39円
 医療   歯医者       3910円
      ハッキリエース    648円

 合計     5383円
 5月累計  70999円

 また公文をサボる。。。しかしこの「サボる」と云う感覚も、公文に入っているからであり、入会せずに個人で筆ペンの練習をしているだけだったら「サボる」と云う感覚は出て来ない。入会しているからこそ「サボっている」わけであって、入会しない者にはサボるも何もない。
 これは念仏者にとっても同じ事であり、念仏者であるからこそ『排除している』事が問題に成って来るのであって、それは例えばどでかい寄付をしようが、立派な活動をしようが、どこまで行っても付きまとって来る問題である。それを例えば「私はどでかい寄付をした」だの、「これこれこういう活動をした」だのでもって『排除している』事実からの忘却に対する批判を受け入れる事が出来ない、つまりいいわけが出来る。社会に対しても、自分に対しても。「私はこんな事をやったのに、何故批判されなければならないのか?」と。そういう危険性がある。つまり「あなたは仏になったのか?」と云う事である。
 その辺を小難しく考えなくても、つまり『責められない立場』に居ようとしなくても、批判をくらいながら運動すればイイだけの話しジャン。出来る環境にあるのなら。真宗の運動論がいつのまにか『批判をくらわない為の運動論』に成って居る気がする。それは間違いだ。単なる『よゐこ』に成りたいが為、つまり『批判されなくても良い立場』に居たいが為の運動になってしまう。
 差別の大谷派運動坊主なら米田富氏の怒りをよく持ち出して来る。つまりそれは「その怒りを受ける私」としての立場を忘れない為だ、と感じる。

 って、何が言いたいねん?ってか?
 「殺して呉れ!!!」
 っちゅう程、歯が痛い!
 
 歯医者にて診療。この歯医者に行くのは2年振り。去年は違う歯医者に行った。ここの歯医者は腕はいいのだが、気さくに喋りかけて来るのでうっとうしいので去年は別の歯医者に行った。んが、やっぱしこっちの方が腕は良かったので復活。
 歯科医、口の中を見て開口一番「あっちゃ~。。。」不安になる私。「そ、そんなに酷い虫歯でっか。。。」
 虫歯は殆どない。気に成る虫歯なんてなかった。念のためにとレントゲン。やはり無い。
 「親知らずですね」
 まあ、そんな「あっちゃ~。。。」もあってもエエけどやなぁ。。。
 要するに歯科医曰く「泣きたく成る様な痛みが出る虫歯はない。考えられるのは親知らずだ」
 まあ、確かにオッさんは2年前に「この親知らずは泣きをみるで」と云ってたが。。。ホンマに泣くとは思ってなかったわ。横に生えているらしいんだな、私の下の親知らずは。抜くのも厄介らしい。まあ、その歯科医の専門の一つが口腔外科らしいので、そこで治療出来るらしいが。。。
 とりあえず今日は、「これもしみてる原因かも?」と云う部分をチャッチャと治してもらって(やっぱり上手いなぁ。。。)歯石を着色を取るのを下の歯だけやってみて「今晩じっくり考えてみてから決断下さい」との事。要するにこの痛みに耐えて「親知らずでも何でも抜いて呉れ!!!」と云う事か。。。

 昨日の『とんぷく』も余り効かず。新しい鎮痛剤を買う。
 薬局で鎮痛剤を諸々見てて気づいたのだが、鎮痛剤は『頭痛、歯痛』だけでは無いらしい。生理痛っちゅうのもデカデカと書いてある。鎮痛剤なんて殆ど買わないし、多分買ったのは18ぐらいの時に「死んだれ!」と云う理由で大量に買った時以来だと思うのだが。まあ、滅多に買わない。ので、生理痛なんて気づかなかった。そうか、女人は大変やねんなぁ。。。でもな、此処数日のおっちゃんも大変やねんぞ。慢性的に痛いのだが、その中でも非常に辛く成って耐えきれなくなるくらいの痛みがあって、それが読経中だったりしたら苦痛で読むのを辞めたろか!っちゅうくらいに痛いねんぞ。




 泣きじゃくる代わりにここで書きなぐっているのだが。
 『泣く』っちゅう事は、そういう事やったんか。

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 「あれをあなたはどう思いますか 。」
 指さす方を眺めると同時に、はっと胸を打って来る何ものかを尾田は強く感じた。彼の気づかぬうちに右端に寝ていた男が起き上って、じいっと端坐しているのだった。勿論全身に繃帯を巻いているのだったが、どんよりと曇った室内に浮き出た姿は、何故とはなく心打つ厳粛さがあった。男は暫く身動きもしなかったが、やがて静かにだがひどく嗄れた声で、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えるのであった。
 「あの人の咽喉をごらんなさい。 」
 見ると、二三歳の小児のような涎掛が頸部にぶら下って、男は片手をあげてそれを押えているのだった。
 「あの人の咽喉には穴があいているのですよ。その穴から呼吸をしているのです。咽喉癩と言いますか、あそこへ穴をあけて、それでもう五年も生き延びているのです 。」
 尾田はじっと眺めるのみだった。男は暫く題目を唱えていたが、やがてそれをやめると、二つ三つその穴で吐息をするらしかったが、ぐったりと全身の力を抜いて、
 「ああ、ああ、なんとかして死ねんものかなあー 。」
 すっかり嗄れた声で此の世の人とは思われず、それだけにまた真に迫る力が籠っていた。男は二十分ほども静かに坐っていたが、又以前のように横になった。
 「尾田さん、あなたは、あの人達を人間だと思いますか 。」
  佐柄木は静かに、だがひどく重大なものを含めた声で言った。尾田は佐柄木の意が解しかねて黙って考えた。
 「ね尾田さん。あの人達は、もう人間じゃあないんですよ 」。
  尾田は益々佐柄木の心が解らず彼の貌を眺めると、
 「人間じゃありません。尾田さん、決して人間じゃありません。 」
  佐柄木の思想の中核に近づいたためか、幾分の興奮すらも浮べて言うのだった。
 「人間ではありませんよ 生命です、生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人達の『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけが、ぴくぴくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕等は不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活、そう復活です。ぴくぴくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それが何処から来るか、考えて見て下さい。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしようか。 」(北条民雄『いのちの初夜』より)

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 ぼくの家庭の平安、ぼくの村の平安、ぼくの国の平安、その平安のどれにでも誰かがいつも泣いている。そんな涙を犠牲にしながらようやく成り立つような平安なんて一体何だろう。
    (中略)
 形ばかりの中身のない自分勝手な平安は本当は決して求めてはならないものであるに違いない。それなのに私たちはいつもそんな形ばかりの平安を求めてしまう。そんな私たちをまさしく問いただしてくるものは、悲しいけれど唯一「幼な児の涙」という名の被抑圧的な被支配的な被差別的な現実である。(尾畑文正『親鸞への旅』より )

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 子どもの頃、よく泣く子だった。一生分の涙を流したくらいに泣いた。そのせいか大きくなって余り泣かなく成った。泣いても誰も助けてくれやしない。それが子どもの頃に出た結論だった。
 でも、違う。「泣けた」のだ。「お母ちゃん~!」でも、「お婆ちゃん~!」でも、なんでもエエから泣けたのだ。一人で授業中に教室で泣いて事もあった。でも、それはみんなが居てる『教室』だったのだ。
 思い返せば一人で部屋で泣いた時も誰かを思い出して誰かに愚痴るように泣いた。尾畑さんの姪も『部屋の外に家族が居てるから泣いた』。
 ドストエフスキーなら「神ちゃま」と幼な児に云わしている。

 泣く事は「みっともない」よりも「頭が悪い事」だと思って居た。でもそれは間違って居た。
 「泣いて済むと思うなよ!」と追い打ちをかけさらに追い込んだ事は数知れず。。。倒れたのを蹴飛ばした事もあった。

 例えそれが演技であっても泣く事には理由がある。と、『演技』を持ち出して来る辺りが。。。まあ、それが私の人生だったのだろう。そう思わずには生きて来れなかった事実があるわけだし。
 変わらず人間不信は続くであろう。でも、それが例え演技であろうが、それも引っ括めて『泣いている』と云う表現か。泣かれている相手は私なんだし。

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