【 ―とすると、大仏さんの発想が、かなり強烈に投影したということですか。
大仏 それは、ぼくの発想じゃなくて、ここ(横塚晃一著『母よ!殺すな』すずさわ書店)に書いてありますことを読みますと、<このような強烈な自己主張は今までの障害者運動にも生活態度にもみられなかったことである。このような運動のバックボーンをなすものに、青い芝の行動綱領とも言うべき四原則がある。それを次に示そう。
一 我らは自らがCP者であることを自覚する。
我らは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、
そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。
一 我らは強烈な自己主張を行なう。
我らがCP者であることを自覚したとき、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。
我らは強烈な自己主張こそそれを成し得る唯一の路であると信じ、且つ行動する。
一 我らは愛と正義を否定する。
我らは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に
伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
一 我らは問題解決の路を選ばない。
我らは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって
知ってきた。
我らは、次々と問題提起を行なうことのみ我らの行い得る運動であると信じ、且つ行動する。
この思想は突如として障害者運動の中に現われ、今やそれが運動の中核になろうとしているが、この考えは一体どこから出てきたのであろうか。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるに世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、
いかにいわんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるに似たれども……」
これは、鎌倉時代にかかれた歎異抄の一節である。歎異抄は浄土真宗の開祖である親鸞上人の教えを弟子が書き記したものであるが、その真髄は悪人正機、つまり「悪人こそまず救われるべきである」というのである。親鸞のいう悪人――うみかはにあみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにしゝをかり、とりをとりていのちをつぐともがら――は自分が悪人だということを知っており、なおかつ悪業をしなければ生きていけない悲しみを知っている。それに対して善人は「善行」(心身も修行を行い勉学にいそしみ他人に施しなどをすること)ができる、いわば恵まれた人達なのである。親鸞は当時修行勉学する機会に恵まれた人達だけが救われるとする旧宗派を捨て、庶民―その時代の底辺をなす人々―の中で生きた人といえよう。
現代において、人は無意識のうちに善い行ないをすれば善いことがあり、幸せになれると思い、善い行ないとは究極のところよく働くことだと率直に信じこんでいる。「一生懸命働き、世界の役
に立ち、金を残し、自分の家を建て、良い家庭を築く、このようなことが善人の手本であり幸せの
見本とされているけれど、このようなことができない人達はどうなるのかね。それは"不幸な人〟すなわち悪とされる。しかし歎異抄の"悪人〟という言葉を障害者という言葉に置き換えてごらん」。
これはマハラバ村(サンスクリットで大きな叫びの意)のリーダーであった大仏空師の言葉であり、
私と大仏氏、歎異抄との出会いでもあった。父から常々働くことは人間としての資格なのだといい聞かされ、現実の自分と比べ肩身の狭い思いをしながら、それに反芻する論理的拠り所を知らなかった私にとって、この言葉は衝撃であった。そもそもマハラバ村とは昭和三九年茨城県石岡市郊外、小高い山の中腹に立つ閑居山願成寺という古寺を中心に作られた脳性マヒ者の共同体であり、この寺の住職が大仏師であった。
「人は誰でも罪深いものである。知らず知らずのうちに人に迷惑をかけている。いや迷惑をかけ
犯罪を犯さなければ生きていけないのが人間である。それを償おうとすればまた一つ二つと悪いこと
をしてしまう。そんな罪深い自分に気がついた時に『助けてくれ』と叫ばなければならないだろう。
その叫びを親鸞は念仏といったのだ。そして念仏を叫ばなければいられなくなった時、必ず阿弥陀様
が救って下さるというのだ。障害者は被差別者であり、すぐ被害者づらをするが、同時に自分も加害
者であることに少しも気づこうとはしない。つまり、皆もっと自己を凝視し、そこから自己を主張す
る必要がある。そうでないと自分達を差別しているものが何であるのかがわからずに過ぎてしまう」>
「障害者は被差別者であり……」からがポイントなんです。
<「障害者は一般社会へ溶け込もうという気持ちが強い。それは"健全者〟への憧れということだ、君達が考える程この社会も、健全者といわれるものもそんなに素晴らしいものではない。それが証拠に現に障害者を差別し、弾き出しているではないか。健全者の社会へ入ろうという姿勢をとればとるほど、差別され、弾きだされるのだ。だから今の社会を問い返し、変えていく為に敢えていまの社会
に背を向けていこうではないか」。このような話を数年間にわたって大仏師より聞かされ、また討論してきたのである。とはいっても有難い法話を聞き、経典の勉強などにいそしんだというのではない。
障害者特有の社会性のなさ、お互いのエゴのぶつけ合い、社会で差別され、こずき回されてきた故の
人間不信と妙な甘え、家に閉じ込められていたが為の気のきかなさ、男女関係のもつれ等が渦巻き、それは壮烈なまでの人間ドラマであった。だからこそ歎異抄の世界を地で行ったといえよう>】
http://homepage2.nifty.com/maharababunnko/kaihourironn/onore2.2.html
大仏 それは、ぼくの発想じゃなくて、ここ(横塚晃一著『母よ!殺すな』すずさわ書店)に書いてありますことを読みますと、<このような強烈な自己主張は今までの障害者運動にも生活態度にもみられなかったことである。このような運動のバックボーンをなすものに、青い芝の行動綱領とも言うべき四原則がある。それを次に示そう。
一 我らは自らがCP者であることを自覚する。
我らは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、
そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。
一 我らは強烈な自己主張を行なう。
我らがCP者であることを自覚したとき、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。
我らは強烈な自己主張こそそれを成し得る唯一の路であると信じ、且つ行動する。
一 我らは愛と正義を否定する。
我らは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に
伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
一 我らは問題解決の路を選ばない。
我らは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって
知ってきた。
我らは、次々と問題提起を行なうことのみ我らの行い得る運動であると信じ、且つ行動する。
この思想は突如として障害者運動の中に現われ、今やそれが運動の中核になろうとしているが、この考えは一体どこから出てきたのであろうか。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるに世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、
いかにいわんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるに似たれども……」
これは、鎌倉時代にかかれた歎異抄の一節である。歎異抄は浄土真宗の開祖である親鸞上人の教えを弟子が書き記したものであるが、その真髄は悪人正機、つまり「悪人こそまず救われるべきである」というのである。親鸞のいう悪人――うみかはにあみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにしゝをかり、とりをとりていのちをつぐともがら――は自分が悪人だということを知っており、なおかつ悪業をしなければ生きていけない悲しみを知っている。それに対して善人は「善行」(心身も修行を行い勉学にいそしみ他人に施しなどをすること)ができる、いわば恵まれた人達なのである。親鸞は当時修行勉学する機会に恵まれた人達だけが救われるとする旧宗派を捨て、庶民―その時代の底辺をなす人々―の中で生きた人といえよう。
現代において、人は無意識のうちに善い行ないをすれば善いことがあり、幸せになれると思い、善い行ないとは究極のところよく働くことだと率直に信じこんでいる。「一生懸命働き、世界の役
に立ち、金を残し、自分の家を建て、良い家庭を築く、このようなことが善人の手本であり幸せの
見本とされているけれど、このようなことができない人達はどうなるのかね。それは"不幸な人〟すなわち悪とされる。しかし歎異抄の"悪人〟という言葉を障害者という言葉に置き換えてごらん」。
これはマハラバ村(サンスクリットで大きな叫びの意)のリーダーであった大仏空師の言葉であり、
私と大仏氏、歎異抄との出会いでもあった。父から常々働くことは人間としての資格なのだといい聞かされ、現実の自分と比べ肩身の狭い思いをしながら、それに反芻する論理的拠り所を知らなかった私にとって、この言葉は衝撃であった。そもそもマハラバ村とは昭和三九年茨城県石岡市郊外、小高い山の中腹に立つ閑居山願成寺という古寺を中心に作られた脳性マヒ者の共同体であり、この寺の住職が大仏師であった。
「人は誰でも罪深いものである。知らず知らずのうちに人に迷惑をかけている。いや迷惑をかけ
犯罪を犯さなければ生きていけないのが人間である。それを償おうとすればまた一つ二つと悪いこと
をしてしまう。そんな罪深い自分に気がついた時に『助けてくれ』と叫ばなければならないだろう。
その叫びを親鸞は念仏といったのだ。そして念仏を叫ばなければいられなくなった時、必ず阿弥陀様
が救って下さるというのだ。障害者は被差別者であり、すぐ被害者づらをするが、同時に自分も加害
者であることに少しも気づこうとはしない。つまり、皆もっと自己を凝視し、そこから自己を主張す
る必要がある。そうでないと自分達を差別しているものが何であるのかがわからずに過ぎてしまう」>
「障害者は被差別者であり……」からがポイントなんです。
<「障害者は一般社会へ溶け込もうという気持ちが強い。それは"健全者〟への憧れということだ、君達が考える程この社会も、健全者といわれるものもそんなに素晴らしいものではない。それが証拠に現に障害者を差別し、弾き出しているではないか。健全者の社会へ入ろうという姿勢をとればとるほど、差別され、弾きだされるのだ。だから今の社会を問い返し、変えていく為に敢えていまの社会
に背を向けていこうではないか」。このような話を数年間にわたって大仏師より聞かされ、また討論してきたのである。とはいっても有難い法話を聞き、経典の勉強などにいそしんだというのではない。
障害者特有の社会性のなさ、お互いのエゴのぶつけ合い、社会で差別され、こずき回されてきた故の
人間不信と妙な甘え、家に閉じ込められていたが為の気のきかなさ、男女関係のもつれ等が渦巻き、それは壮烈なまでの人間ドラマであった。だからこそ歎異抄の世界を地で行ったといえよう>】
http://homepage2.nifty.com/maharababunnko/kaihourironn/onore2.2.html
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