竹中先生は口癖のように「世間では」と言っていた。そして、その後に「しかし仏法では」と続く。
昨日、気張って外出したせいか、今日はスペシャル・ヘナヘナモード。さっきようやく自販機にコーラを買いに行っただけ。まあ、毎度の事だし「ま、いっか」と。
Facebookのコメ欄で訓覇信雄の話が少し出た。「真宗同朋会運動は純粋なる信仰運動である」とは、確か訓覇信雄の言葉。でも、それも世間の事。聞法会も世間の事。報恩講も世間の事。
仏法って、話でも物語でもない。私が生きている事。
今年は報恩講を自粛する所もあるのだろうか?でも、それは世間としての報恩講であって、報恩講って、そんな安っぽいものじゃないと思う。中止になったならば、コロナ禍での私の報恩講をすれば良いだけである。別に読経が必要でも、法話が必要でもない。教えに出会う事が報恩講。
昨日、近くの商店街で山本太郎を見た。自転車に乗ってゆっくり走っていたら前から派手な色をした数人が歩いていた。「山本太郎」という旗を持っていたけど、誰も近寄って行かなかったし、まさか本人だと思わなかったら、まさかの本人だった。意外と小さいのね。何を訴えていたのか知らないけど、目があったから、政治家らしく向こうが会釈をした。
一応、政治家になる前は年収1000万程度は稼いでいたであろう中堅の脇役俳優。恐らく当時だったら、関西が地元だという事もあって、「ファンなんです。握手して下さい」だったり、スマホで写真を撮られていたかも知れない。でも、私が見ていた間では誰も相手にして居なかった。色々と失敗が続いている事もあって、小さく見えたのかも知れない。でも、そんな事は本人にとってはどうでも良いのだろう。それこそ「世間では」という事なんだろう。彼が選んだ道を彼が歩いているだけ。
部屋から出ないと、私の部屋に詳しくなる。それは誰も評価してくれないだろう。部屋にあるアクリルのシーツがチクチクする事を、私はよく知っていて、多くを経験している。送風になっているエアコンが段々とタバコ臭くなっている事を私は良く知っている。私の頭が血が出そうなくらいに痛い事も私は良く知っている。私は私という時間を多く過ごしている。
そして、それが「嫌だ」と感じる事も数多く経験した。その経験は誰にも認められる事はない、ただ、私は他の誰よりもその事を経験している。
世間では、世間的価値がある人が人気がある。当たり前の話である。今の山本太郎は人気が無くなったのかも知れない。
私も、数多くのマスコミに取り上げられた事もある。アメリカのTIMEという雑誌にも名前が載った事がある。でも今は人気がない所か、部屋から出れずにいたりする。でも、仏法では、当たり前ながら対等である。
竹中先生は、私たち専修学院生に対して、卒業して先輩たちから難しい話をされて「そんな事も知らんのか?」などとバカにされた時には「それがどうした?』というと良いですよ」などと言っていた。それが「世間では」と「仏法では」という事。
今日も一日、私は私の時間を過ごした。それは世間では虚しく映るのかも知れない。私も充実した人を見たりすると「いいなぁ〜」と思ったりする。でも、それは煩悩。「思う心はみな自力」なんぞと言った人が居たが、自力から離れる事なんぞ出来っこないから煩悩が出て来る。愚痴が出て来る。愚痴、煩悩に流されずに、それは世間の事であり、「私は仏法に生きるのだ。南無阿弥陀佛するものだ」と。誰から見離されても、見捨てられても、仏法だけは確かに私に生きている。仏法は、ここに存在する。
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