坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

奉る

2008年05月27日 | 坊主の家計簿
 5月27日

 雑費  タバコ         300円
     公文学費       2100円
 外食  回転寿司        504円
 食類  ペット水12      708円
     八重泉        2080円
     発泡酒6        780円
     ニラ           50円
     てっちゃん       179円
     牛すじ         165円
     ハンバーグ       140円
     たくわん        100円
     もずく          99円

 合計             7205円
 5月累計          95836円

 最近、無茶苦茶しんどくて、特に昨日、今日なんぞは背中パンパン、肩もパンパンで「堪忍してえやぁ。。。」状態。
 これは。。。
 1 御先祖の霊が祟ってる
 2 故に墓参りに行きなさい
 3 ちゅうか、うちは墓がないやんけ
 という祟りである。
 わけがなく、まあ、温泉マッサージに行けばエエだけの話なのだが、今日は『おせん』の放映日なのでテレビの前に正座して観なければならない。ので、温泉マッサージは後日にして珍しく湯船にお湯を張ってお湯に浸かる。
 あ~、エエ感じや。背中と肩も楽になったで。やっぱり湯船は湯船やのぉ。。。洗濯だけに使うのは勿体ないのぉ。。。

 霊感。私は幽霊に首を絞められた事がある。締められている途中で締めている相手が死んでいる事に気づいて「お前死んだんとちゃうんか!」と叫んだ(つもり)ら消えたが。
 なので、まあ、真宗坊主にしては珍しく(?)『幽霊』というもんに理解があるのかも知れん。あれは『共感覚』みたいなもんなんだろう。
 つまり、『存在する』『存在しない』の話ではなく、『見る』『見ない』だけの話である。どっちが正しいとかでなく、単に『見る』人は見るだけの事であって、事実として『存在する』『存在しない』の話ではない。それだけの話であって、別に特別視する事なく、「へ~」みたいなもんだ。
 それを特殊化して精神病扱いするのも変だし、あるいは特別視して「私たちに見えない世界を見ている」というのもおかしい。
 なのだが、「御先祖の霊が祟っている」みたいな話がいまだに通用しているのがよく解らん。まあ、それでエエ人はエエのだろうが。
 タマにおせっかいな人も居て、お水時代の個人的な体験なのだが、あるお客さんが突然「手を出して下さい」と云った。私はとりあえず手を出したら、手の上に真言宗で使う仏具を手の上に置いた。何をやるのか解ったので「いりません」と。何やら「悪い霊に取り憑かれそうになっている」との事だったが、そんなものは大きな御世話であって、仮にそれが本当であっても、それも私の人生である。お祓いされる事は「大きな御世話」以外の何ものでもない。

 この間食べた担々麺の店が煮タマゴの営業を辞めた。発売してしばらくは「御一緒に煮タマゴもどうですか?」と売り込みしてはったのだが、もう辞めたらしい。
 そういや、マクドナルドでも「御一緒にポテトは如何ですか?」と聞かれないのだが、あれも辞めたのかな?

 断る事。
 勧められると、断らなければならない。
 特に宗教関連なら、どうなのだろうか?断る事が出来ずに「あなたには悪霊が。。。」という事を真に受けてしまう人もいるのだろう。

 よく坊さん仲間と喋る時に「俺等、仏壇売ったらエエ金になるやろな」と笑い話でする。当然、そんな事をしている人はいないと思う。生活をする為にお金は必要だが、仏壇屋と手を組んで古い仏壇のある家に「そろそろ仏壇も古くなって来ましたね。そろそろ買い替えては如何ですか?」と云って、仏壇屋からバックマージンを貰って居る坊さんはいないと思う。それは仕事ではないし。

 私は元『占い師』でもあった。占い師を辞めた理由は多々あるが、その中でもある恋愛占いをしている時に相性を占っていた。出た結果は相性自体は悪かった。ここからが本番なのだが、その相手の人は「じゃ、辞めとこかな」と云った。
 私は21ぐらい。向こうも同じぐらい。心の中で「占いで相性が悪いからといって辞めるのなら最初から恋愛なんぞするなよな」とキレた記憶がある。

 僧侶もその中に当然入るのだろうが、何かそういうもの、そういう存在の相手から云われた事に反応してしまう。
 占い師だった経験からいうと、決して騙しているのではない。当たり前である。騙すつもりでいる占い師は皆無である。はずである。少なくとも私は知らない。
 多分、「あなたには悪霊がついてます」の人も同じであると思う。純粋に誠意なのだろう。その誠意を仕事として居る方々も居られるだけの話である。

 誠意だからややこしい。同時に危ない。
 オウム真理教の人達は、純粋に金剛乗という考え方によって「救おう」としたわけだし。あれは「殺そう」ではない。「救おう」としたのだ。
 ただ、『殺された人』には関係のない話である。
 日本によって『目覚めさせられた』朝鮮の人達と同じである。やられた側にとっては『大きな御世話』である。

 『御布施』という考え方の中に『金銭に対する執着心を解き放つ』というのがある。

 檀家「父の葬儀ですが、御布施はいか程包まして頂いたらよろしいでしょうか?」
 僧侶「60万円程が相応しいかと」
 檀家「少し高くないですか?」
 僧侶「あなたは金銭に執着をしていますね。布施は布施行と申しまして、そういう執着心を絶つ行なのです。」

 そういう時はこう言おう。
 「お前が5円で葬儀して金銭に対する執着から離れる行をしろ!」
 と(笑)

 とは云え、僧侶も食べて行かなければならない。当たり前の話である。だから『仕事』としてどれ程が妥当なのかを相談すればイイ。
 また、仮に高額な御布施を払って行をしたといっても、その時だけなら意味がないのではないのか?
 宗教者に対してだけ金銭に対する執着心をなくしても、仮に高額なお布施を払う事によって、他の部分で金銭にやたらと執着する結果になりかねないし。
 
 宗教者。聖なる存在。

 昨日、ヘロヘロだったので何度も同じ事を繰り返し書いてしまったのだが、『民主主義』は『民』よりも偉いらしい。
 『民』よりも偉くなってしまった『民主主義』は最早『民主主義』と呼んでいけないと思うのだが、それがまかり通っている。

 今日の『おせん』ではおせんちゃんが見合いをした。相手は小泉孝太郎である。小泉元総理の息子でもある。
 小泉元総理にとって自分の意見に反対する人は『抵抗勢力』であった。まあ、これは小泉氏自身の感覚なのだろう。
 当時のマスコミがその『抵抗勢力』という言葉をどう扱っていたのかは憶えていない。
 今、大阪府では橋下知事によっての改革が行われようとしている。
 それに対してあるマスコミが橋下氏すら発言していない『抵抗勢力』という言葉を使っている。橋下知事の改革に反対する立場の人は抵抗勢力であるらしい。
 あるマスコミは明らかに煽っている。橋下知事の意見を支持し、それに反対する立場の人を『抵抗勢力』として扱っている。
 明らかに政治的中立でもなんでもなく、橋下氏以上に煽っている。
 立場の違う人を『同じ人』として扱っていない。

 日本の仏教界に対して『従う文化』が出来たのは主に江戸期である。単に天下統一以後でもあるし。
 檀家制度(寺請制度)は江戸期の『制度』であった。どこかの神社仏閣が決めた事ではなく、江戸幕府による『制度』であった。
 その『制度』はなくなったが、今でもある。ある人にはある。明確に残って居る。
 僧侶(聖)と民衆(俗)の違いが残って居る。
 当然、本人自身の選びでもってそれを信じるのなら信仰だし構わない。信仰として当たり前の事だし。だが、「うちの家の宗派」でもある。そういう意識を持たれておられる方々も多く居られる。

 同じ人。
 同じ立場。

 民主主義に対する抵抗勢力は量刑が重くなる理由のひとつになる。
 『民が主』であるが故の民主主義であっても。

 『愚者の誇り』

 「よく知らないし、従っていた方がエエのかな?」
 とは自分を粗末にし過ぎである。
 『世間』で尊いとされる、偉いとされる人の意見に従わなければならない義務は一切ない。
 解らなければ「解らない」という権利があり、納得出来なければ「納得出来ない」という権利がある。
 大多数の意見に従わなければならない義務もない。
 伝統・歴史を支えて来られた方々に対する尊敬があっても、『今』生きている私が従わなければならない義務は一切ない。
 それは伝統・歴史を支えて来られた方々を「古くさい」「保守的である」と馬鹿にする事ではない。同じ人間として、同じ立場として伝統・歴史に参加する事だ。
 伝統・歴史は、私の上を通過するものではない。通過する形で参加するのではない。
 伝統・歴史といっても様々な時代背景でもって変化している。それが伝統・歴史である。その伝統・歴史に参加するのだ。
 受けとらない伝統・歴史だから「古くさい」になる。過去のものになる。それは伝統・歴史を支え、形を変えながらも守って来られた方々に対して失礼である。
 決して『奉りあげる』ものではない。
 奉りあげるが故に、その精神性が忘れられる。
 寺は風景になり、『家の宗教』になる。
 民主主義が『民が主』でなくなる。

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