坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『どうした!?品川』

2013年03月22日 | 坊主の家計簿
 ネットに落ちてたアメトークの『どうした!?品川』を観る。

 http://youtubewara.blog10.fc2.com/blog-entry-5157.html

 え~。。。泣いてしまった(笑)

 「どうした!?○○」と、ああいう感じで言ってくれる仲間は居てるかなぁ…。

 最近、すっかり丸くなりました。別に品川みたいに韓流スターみたいな髪型はしていないが、立ててた髪の毛は丸坊主になりました。え~「坊さんらしく見える」=営業に便利、という一番下衆な発想がメインで。
 
 品川の『ギラギラ期』は「お前、一日24時間お笑いの事考えているか?」と後輩に言ってたらしいですが、私は先輩に「勉強したり、学習会に参加してます?しないとダメですよ」なんぞと生意気な口を利いてしまったりした事があったり。その時に先輩(今はブイブイやってはります)は「そんな事言うけどなぁ、お前、結婚して子どもが出来たらそっちに力が取られてしまうぞ」と、え~。。。今の私が後輩に喋って居る事を言われたりしました。
 何か引っかかりがありそうな人にはとりあえず噛み付いてみたりして、それこそ和田先生に噛み付いて、揚句にその時周囲に居た人達に「お前らが『先生、先生』とおだてるからこんなボケ老人になってしまったんと違うんかい!」と言ってしまったり。恥ずかしい限りです。

 まあ、私は芸人でなく僧侶なので構わないと言えば構わないのだろうし、「○○さんって、坊さん学校に行く度に丸くなって話しやすくなりましたね」と言われたりするので、「まあ、ええか?」と思ったりもするのですが、何か「お前、エエ坊主になったのぉ~」と先輩から言われると「そうでしょ~♪」と応える反面、どこか寂しかったりもします。
 恩師・竹中先生が生きていたら、「最近のあなたは煩悩具足でなく『煩悩不足』ですよ」と言われるかも知れない。丸くなって、無難に、有吉が『どうした!?品川』の中で最近(当時)の品川に対して「腰ヌケ隠居野郎」という新しい綽名を言ってたが、まさに最近の私は『腰ヌケ隠居野郎』だな。

 という事で、『腰ヌケ隠居野郎』の御縁を、この辺、『御縁』とかいう言葉を使う自体が「どうしたんだ!?○○!」だと思ったりするのだが、『腰ヌケ隠居野郎』という生活実体から「それで何が悪いねん」と。

 自我を肯定する。でも、現状の私を自分自身が認める事が出来なかった、あの「生きているだけで鬱陶しい」時代に戻るのはイヤ。毎日「死んでやろう」と思って居た時代に戻るのはイヤ。

 僧侶になろうと決断した大きなきっかけである先輩から言われた言葉があった。本願寺派の方で非常に熱い方。坊主スタッフだった人を訪ねて来られたのだが、入店した時から泥酔状態。かなり鬱陶しい。泥酔客は馴れているが、その中でも他の客に絡みまくるし、かなり鬱陶しかったので通常ならボッタクって脅して追い出すのだが、そういう接客態度が気に入らなかったのだろう、私に対して「お前が本当にやりたいのはそんな事か?なんや、『文句あったら殺したる』みたいな眼をしやがって。お前が本当にやりたいのはそんな事違うやろ。こっちに来い、こっちに」と、私に言った後に、ある坊主スタッフに「おい、こいつを坊主にせえ」と。
 その先輩はヤクザが大嫌いだったらしく、「法律でヤクザを潰したる」と法律家を目指している中で多くのヤクザと出会い、ヤクザの人達と仲良くなって、『ヤクザに成らざるを得なかった人生』を知って、法律でヤクザを潰す事は辞めたらしいのだが、昔なじみのヤクザの所に行ったら、ビビられて、とても寂しかったらしい。坊主スタッフだった人に「辛い…」零しておられた。
 数年前に久しぶりにお会いすると、その先輩もすっかり丸くなられておられて「そんな事言ったかなぁ~」と笑っておられた。嫌ごとの一つぐらい言って欲しかったのだが。
 
 煩悩は無くならない。形を変えるだけ。ギラギラした様な形で現われる刺々しさは薄らいで来たのだろうが、変わらず自我を中心に人を切り裁いている事は間違いない。刺々しさが薄らいだ分だけ解り難く、認められやすくなっただけの話である。

 スーパー銭湯から帰宅したら机の上にチラシがあった。『チラシ』というよりも本の宣伝のコピー。近所の在日コリアンの人が持って来てくれたらしい。裏にメッセージも書いてあった。帰宅したのが夜半で、晩御飯を食べて、娘と遊んでいたらお礼のメールを仕損なったのだが、明日しよ。
 本は、当然、在日コリアン関係。お勧めの本らしい。明日Amazonするつもり。
 その人は出会った当初から、ずっと在日コリアンに対する差別を訴えておられる。

 『腰ヌケ隠居野郎』の私は、腰ヌケ隠居野郎に対する自他差別、まあ、『腰ヌケ隠居野郎』を裁く、要するに『人生を観ない』という事に対してムクムクと腹立ちと悲しみを覚える昨今。

 『カモメのジョナサン』を翻訳した五木寛之が、うつ病患者に人気のある(?)、まあ、飛べなくなった鳥をモデルにした『リトルターン』というのを翻訳した。

 http://www.amazon.co.jp/リトル-ターン-集英社文庫-ブルック・ニューマン/dp/4087460495

 飛べなくなったが故に、初めて『大地』に色々な生き物達が居ている事を発見出来た。

 何か、色んな事に対して、そんな所からの連帯を目指す昨今。当然、飛べないので、地味です。
 地味ですが、『腰ヌケ隠居野郎』や、何か色々な事を出来ない人に対して、その人の人生を否定する様な発言をする人を『人間としてみれない』『敵と思ってしまう』という様なギラギラした煩悩もまだ残っています。
 『煩悩不足』の名言を残した恩師が「煩悩はしたたたかものですよ」と仰っておられたが、変わらず自己中心的な尺度から人を切り裁いています。思わず髪の毛をまたツンツン立てたいと思ったりもしますが、え~、面倒だし、営業的に良くないので、辞め。
 煩悩を舐めんじゃねーぞ(笑)

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