10月14日
雑費 缶コーヒー 120円
食類 無添加ワイン 438円
水菜 98円
明日葉 155円
たまご 168円
さっぽろ一番みそ味 1円
バナナ 128円
豪州牛肉 275円
ちくわ 88円
納豆3 68円
うどん玉 18円
もやし 45円
キャベツ 128円
合計 1730円
10月累計 61157円
しばらく食が乱れていたので、今日は野菜中心。野菜をしっかり取っとかんとエエうんこが出まへんし。
初食材では明日葉。お茶では飲んだ事あるけど、喰ったのは多分初めてか?味も濃ゆく、喰った時の香りがエエ感じなので諸々使えそうやな。次はベーコンと一緒にスパにしよ。
今日は仕事が終わってから、ムチャ遅めの昼メシ喰って→寝て、起きてぼんやりしつつメシ喰ってまた寝よ。
しかし、昨日の仏青は変だった。っちゅうか、当たり前か。中心がなくなったんだし。と、改めて竹中先生を中心に置いていた事がよく解ったのだが。
でも、30余年もほぼ毎月来られて居たわけだし、当然、竹中先生よりも先に関わって来られた方も居るんだが、その人達にしても30余年関わって来られた先生が亡くなられた事はデッカイしなぁ。。。
ある参加者が「私はここに生きる力を貰いに来ている」と。普段、日頃の生活に追われながらも、月に一回だけ時間を作って仏青という場に来る。
そらデカイで。
まあ、私は何時まで大阪に居られるのか解らないが、でも、大阪に居てる限りは関わって行くつもりなので、ちょい気合い入れよ。
テレビ観てて思ったんだが、『日本は四季があって美しいし、素晴らしい』とは主観である。そう感じるのも勝手だが、その事を別の地域に照らし合わせて比べても意味がない。まあ、頭の悪い話だ。
「でも。」と言いたい。
例えば昨日の仏青なら、私は一会員なんだが、会員の中でも新しい先生を迎えたい急進派である。竹中先生が亡くなられてすぐに『ではどなたを先生として迎えるか』と頭を廻らし、数人の先輩に相談したりしてた。
当然、新しい先生を迎える事になっても、どうしても竹中先生と比べてしまうわけだし、不平不満や文句も出るわな。それは愚かだ。竹中先生はもう二度と来れないわけなんだし。
でも、そんなに上手く『感情』なんちゅうもんはいかんし。
『正論が何時の場でも正論であるとは限らない』とは昔にある先輩から教えて頂いた言葉だが、感情っちゅうもんがあるしな。気分もある。
で、そんなもんは一貫しない。
以前にある所で、専修学院で竹中先生と同期の方に御会いした。「竹中?あんなもんが院長やっとるから専修学院はダメなんだ。」と信国先生との比較をされていた。
でも、それはその先輩の意見でしかなく、その先輩の実感した意見であろう。
でも、私にとっては竹中先生は『先生』である。
「先生が少なくなって来たなぁ~」とは、最近よく聞く。でも、それは時代が変わっただけの話でしかない。新たな先生方も出て来ているのだが、それ等の人達を『先生』として見出せないだけの話である。
年寄りが気を使う必要はない。年寄りが気を使う事は、若者から生きる力を奪う事である。批判精神を養わせない事である。
年寄りが若手に気を使い、若手は年寄りに気を使い、互いにいたわりあう。それは社会制度としては理想なんだろうが、こと、仏法を学ぶ場においては相応しくないと感じる。単に互いに傷つきたくないだけの話であって、凡夫からの逃避である。
「でも。。。」とやっぱり言いたい。
この間にある所である人達を相手に徹底論破したんだが、どうもすっきりしない。それは『論破しただけ』だからだ。論破しただけで、多分、私が伝えたかった事は伝わっていない。感情の生き物だし。それは向こうにしてもそうだろう。
いや、違う。それは孤独からの逃避である。単に和気あいあいとしたかっただけの話である。大切な事は、その場で解り会う事よりも、互いにシコりを残しつつも、いや、シコりがあるが故に「また話あわんとあかんな」と云う事だ。
解り会えないが故に切り捨ててしまうのでなく、解り会えないが故にどこまでも解り会おうとする事の方が大事だ。
保守。様々な形で使われるが、解り会える人達とだけの場にする事が保守ではないのか。
北は北海道から南は沖縄までの日本。
様々な民族出身者が居られる。
その上での『日本』である。
「でも。。。」がある。
大阪という日本の中心部に住んでいると、ここだけが日本である気がしてしまう。自分を中心の『日本』『日本人』。
私やあなたがそれにこだわる事も私やあなたが日本に住んでいる以上仕方がない事だ。
でも、他人は居てるし、時代は変わる。
自分も変わる。変わらないものなどありやしない。
「あの時はよかった」と思う事が多々ある。でも、「今は?」
過去にこだわる事によって、今をおろそかにしている。それはもったいない。自分自身に対して失礼だ。
また、「でも。。。」という心を正論で捨ててしまう事も自分自身に対して失礼だ。そういう感情の動きが確かにあり、それを何かの正論で押さえつけ奪ってしまう事は心を無くす事だ。
現実を引き受けられない弱さがある。情けなさがある。感情がある。それ等を引っ括めて私は生きているのであって、この世の何処を探してもそういう私しかいない。
しかし、「でも。。。」ではそういう私を引き受けられない。私を引き受けれずに、過去の私や、周囲の状況に流されて行くだけ。他人に振り回されて行くだけ。正論にこだわる事が頑ななら、「でも。。。」だけでは振り回されているだけ。
「でも。。。」というのは、それを突破する励ましだと感じる。
引き受けられないから、引き受けたいと願う。
引き受けられたら願う必要もない。願ってる人を見下すだけの話。願わなくなったら願ってた過去の自分を見下すだけの話。差別するだけの話。冷たい人間の一丁出来上がり。
雑費 缶コーヒー 120円
食類 無添加ワイン 438円
水菜 98円
明日葉 155円
たまご 168円
さっぽろ一番みそ味 1円
バナナ 128円
豪州牛肉 275円
ちくわ 88円
納豆3 68円
うどん玉 18円
もやし 45円
キャベツ 128円
合計 1730円
10月累計 61157円
しばらく食が乱れていたので、今日は野菜中心。野菜をしっかり取っとかんとエエうんこが出まへんし。
初食材では明日葉。お茶では飲んだ事あるけど、喰ったのは多分初めてか?味も濃ゆく、喰った時の香りがエエ感じなので諸々使えそうやな。次はベーコンと一緒にスパにしよ。
今日は仕事が終わってから、ムチャ遅めの昼メシ喰って→寝て、起きてぼんやりしつつメシ喰ってまた寝よ。
しかし、昨日の仏青は変だった。っちゅうか、当たり前か。中心がなくなったんだし。と、改めて竹中先生を中心に置いていた事がよく解ったのだが。
でも、30余年もほぼ毎月来られて居たわけだし、当然、竹中先生よりも先に関わって来られた方も居るんだが、その人達にしても30余年関わって来られた先生が亡くなられた事はデッカイしなぁ。。。
ある参加者が「私はここに生きる力を貰いに来ている」と。普段、日頃の生活に追われながらも、月に一回だけ時間を作って仏青という場に来る。
そらデカイで。
まあ、私は何時まで大阪に居られるのか解らないが、でも、大阪に居てる限りは関わって行くつもりなので、ちょい気合い入れよ。
テレビ観てて思ったんだが、『日本は四季があって美しいし、素晴らしい』とは主観である。そう感じるのも勝手だが、その事を別の地域に照らし合わせて比べても意味がない。まあ、頭の悪い話だ。
「でも。」と言いたい。
例えば昨日の仏青なら、私は一会員なんだが、会員の中でも新しい先生を迎えたい急進派である。竹中先生が亡くなられてすぐに『ではどなたを先生として迎えるか』と頭を廻らし、数人の先輩に相談したりしてた。
当然、新しい先生を迎える事になっても、どうしても竹中先生と比べてしまうわけだし、不平不満や文句も出るわな。それは愚かだ。竹中先生はもう二度と来れないわけなんだし。
でも、そんなに上手く『感情』なんちゅうもんはいかんし。
『正論が何時の場でも正論であるとは限らない』とは昔にある先輩から教えて頂いた言葉だが、感情っちゅうもんがあるしな。気分もある。
で、そんなもんは一貫しない。
以前にある所で、専修学院で竹中先生と同期の方に御会いした。「竹中?あんなもんが院長やっとるから専修学院はダメなんだ。」と信国先生との比較をされていた。
でも、それはその先輩の意見でしかなく、その先輩の実感した意見であろう。
でも、私にとっては竹中先生は『先生』である。
「先生が少なくなって来たなぁ~」とは、最近よく聞く。でも、それは時代が変わっただけの話でしかない。新たな先生方も出て来ているのだが、それ等の人達を『先生』として見出せないだけの話である。
年寄りが気を使う必要はない。年寄りが気を使う事は、若者から生きる力を奪う事である。批判精神を養わせない事である。
年寄りが若手に気を使い、若手は年寄りに気を使い、互いにいたわりあう。それは社会制度としては理想なんだろうが、こと、仏法を学ぶ場においては相応しくないと感じる。単に互いに傷つきたくないだけの話であって、凡夫からの逃避である。
「でも。。。」とやっぱり言いたい。
この間にある所である人達を相手に徹底論破したんだが、どうもすっきりしない。それは『論破しただけ』だからだ。論破しただけで、多分、私が伝えたかった事は伝わっていない。感情の生き物だし。それは向こうにしてもそうだろう。
いや、違う。それは孤独からの逃避である。単に和気あいあいとしたかっただけの話である。大切な事は、その場で解り会う事よりも、互いにシコりを残しつつも、いや、シコりがあるが故に「また話あわんとあかんな」と云う事だ。
解り会えないが故に切り捨ててしまうのでなく、解り会えないが故にどこまでも解り会おうとする事の方が大事だ。
保守。様々な形で使われるが、解り会える人達とだけの場にする事が保守ではないのか。
北は北海道から南は沖縄までの日本。
様々な民族出身者が居られる。
その上での『日本』である。
「でも。。。」がある。
大阪という日本の中心部に住んでいると、ここだけが日本である気がしてしまう。自分を中心の『日本』『日本人』。
私やあなたがそれにこだわる事も私やあなたが日本に住んでいる以上仕方がない事だ。
でも、他人は居てるし、時代は変わる。
自分も変わる。変わらないものなどありやしない。
「あの時はよかった」と思う事が多々ある。でも、「今は?」
過去にこだわる事によって、今をおろそかにしている。それはもったいない。自分自身に対して失礼だ。
また、「でも。。。」という心を正論で捨ててしまう事も自分自身に対して失礼だ。そういう感情の動きが確かにあり、それを何かの正論で押さえつけ奪ってしまう事は心を無くす事だ。
現実を引き受けられない弱さがある。情けなさがある。感情がある。それ等を引っ括めて私は生きているのであって、この世の何処を探してもそういう私しかいない。
しかし、「でも。。。」ではそういう私を引き受けられない。私を引き受けれずに、過去の私や、周囲の状況に流されて行くだけ。他人に振り回されて行くだけ。正論にこだわる事が頑ななら、「でも。。。」だけでは振り回されているだけ。
「でも。。。」というのは、それを突破する励ましだと感じる。
引き受けられないから、引き受けたいと願う。
引き受けられたら願う必要もない。願ってる人を見下すだけの話。願わなくなったら願ってた過去の自分を見下すだけの話。差別するだけの話。冷たい人間の一丁出来上がり。
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