ふ~。。。っちゅう事で、本日の作業終了。
いや、『ど!』素人がやってるねんからしゃーないけど、ホームページ作るのって、時間と気力使いまんなぁ~。。。このブログみたいに『メールが打てたら大丈夫』やったらエエねんけど、っちゅうか、使ってるホームページ・ソフト『iWeb』っちゅうのは、ほぼそういう感じなんだが、それでも何じゃかんじゃといじってしまうわけでして。。。
今日は「記事を増やさんと。。。」っちゅう事で、このブログから『まともそうな記事』をホームページにアップ。っちゅうても、まだ、2006年6月が終わっただけである。しかも当時はバリバリの家計簿ブログだったので「ちょっと編集せんと。。。」っちゅう事で、かつ「ホームページにアップするねんやし。。。」っちゅう事で、下ネタ&危険発言を削除したりと、バタバタと。まあ、そういう部分、つまり『遊び』の部分がなくなると、「なんや、この神経質なヤツは」になってしまう(笑)俺って、神経質やってんなぁ~。まあ、エエけど。
今の所は、寺のホームページを中心に、関連サイトで個人のホームページ、新しい会のホームページと3つを連携しつつ。MobileMeの容量は動画をアップしない限り埋まらない程あるので、オモクソ記事盛り込んだんねん、なんぞと密かに誓う。
んが、ホームページを作るので一杯一杯なので、なかなか新たな文章が書けなくて困ったもんである。
っちゅうか、このブログの過去の投稿を読んでて思たんだが、やっぱし『独身』ってスンゴイよなぁ。だって、緊張感、っちゅうたら変かな?自宅の鍵を閉めたら誰も入って来ないし。今なら隣の部屋でママと娘が寝てるし。ほな、やっぱりママと娘に気が行ってしまう。
等と、非常に甘えた事を書いてみた。んなもん、多くの同朋たちは結婚してガキなんぞも居てる中で本を書いたり法話の原稿を作ったりしているわけだ。単に甘えとるだけである。要するに『いいわけ』っちゅうヤツである。
『いいわけ』は、いいわけなりに人情を感じられたりしてエエもんである。情けない自分を見いださなくおれない状況であれば、んなもん、いいわけしたりして逃げようとして「ホッホッホッホ、私って大変なの」なんぞといいわけしてしまうのが煩悩、っちゅうやつであって、その情けなさを共有出来たりするのは非常にエエ感じであったりする。とことん、徹底して、我が身を立てる『エゴ』っちゅうもんがあって、その『エゴ(自我)』を立てざるを得ない悲しみ、っちゅうのを共有出来たりして、「おお、『♪きさまと俺と~は、同期のさくら~』やのぉ~」なんぞというのは、結構エエ感じである。
っちゅうか、個人的緊張感が奪われるのが『社会』やのぉ~。『衆生』やのぉ~。『同朋教団』やのぉ~。
そういや、全寮制学生時代にレポート提出しようにも『個人』になれる空間がない。部屋は4人部屋である。私がレポートを書いてても、他の人たちは別の事をしてたり、会話をしてたりする。図書室が狭くて冬場ならばストーブがあったりして非常にエエ感じだったのだが、ここも『私だけの空間』ではない。
そういう私の気質を見切ったのか、今の専修学院院長の狐野先生はレポートを書く時に「昼間に、人の声が聞こえる所で書きなさい」を指摘して下さった。
個人になりたいと思うと、他人が煩わしい。「うっとうしいのぉ」である。
他人が「うっとうしい」と云う状態で書く文章、個人的思考は、なんなんだろうか?なんぞと、今になって思ったりする。
っちゅうか、今も全く変わらんのだが、その状態は。ただ、『鍵を閉めたら誰も入って来ない』っちゅう状況から、『隣の部屋で娘が泣き出すかも知れん』っちゅう状況に変わった事によって、『うっとうしい』っちゅう事が如実に、現実として感じざるを得ない状況下である。
大切な我が娘ですら、自分の都合(わがまま・欲望)によって「かわいい」だの「うっとうしい」だのと感じてしまうのが私である。
いや、『ど!』素人がやってるねんからしゃーないけど、ホームページ作るのって、時間と気力使いまんなぁ~。。。このブログみたいに『メールが打てたら大丈夫』やったらエエねんけど、っちゅうか、使ってるホームページ・ソフト『iWeb』っちゅうのは、ほぼそういう感じなんだが、それでも何じゃかんじゃといじってしまうわけでして。。。
今日は「記事を増やさんと。。。」っちゅう事で、このブログから『まともそうな記事』をホームページにアップ。っちゅうても、まだ、2006年6月が終わっただけである。しかも当時はバリバリの家計簿ブログだったので「ちょっと編集せんと。。。」っちゅう事で、かつ「ホームページにアップするねんやし。。。」っちゅう事で、下ネタ&危険発言を削除したりと、バタバタと。まあ、そういう部分、つまり『遊び』の部分がなくなると、「なんや、この神経質なヤツは」になってしまう(笑)俺って、神経質やってんなぁ~。まあ、エエけど。
今の所は、寺のホームページを中心に、関連サイトで個人のホームページ、新しい会のホームページと3つを連携しつつ。MobileMeの容量は動画をアップしない限り埋まらない程あるので、オモクソ記事盛り込んだんねん、なんぞと密かに誓う。
んが、ホームページを作るので一杯一杯なので、なかなか新たな文章が書けなくて困ったもんである。
っちゅうか、このブログの過去の投稿を読んでて思たんだが、やっぱし『独身』ってスンゴイよなぁ。だって、緊張感、っちゅうたら変かな?自宅の鍵を閉めたら誰も入って来ないし。今なら隣の部屋でママと娘が寝てるし。ほな、やっぱりママと娘に気が行ってしまう。
等と、非常に甘えた事を書いてみた。んなもん、多くの同朋たちは結婚してガキなんぞも居てる中で本を書いたり法話の原稿を作ったりしているわけだ。単に甘えとるだけである。要するに『いいわけ』っちゅうヤツである。
『いいわけ』は、いいわけなりに人情を感じられたりしてエエもんである。情けない自分を見いださなくおれない状況であれば、んなもん、いいわけしたりして逃げようとして「ホッホッホッホ、私って大変なの」なんぞといいわけしてしまうのが煩悩、っちゅうやつであって、その情けなさを共有出来たりするのは非常にエエ感じであったりする。とことん、徹底して、我が身を立てる『エゴ』っちゅうもんがあって、その『エゴ(自我)』を立てざるを得ない悲しみ、っちゅうのを共有出来たりして、「おお、『♪きさまと俺と~は、同期のさくら~』やのぉ~」なんぞというのは、結構エエ感じである。
っちゅうか、個人的緊張感が奪われるのが『社会』やのぉ~。『衆生』やのぉ~。『同朋教団』やのぉ~。
そういや、全寮制学生時代にレポート提出しようにも『個人』になれる空間がない。部屋は4人部屋である。私がレポートを書いてても、他の人たちは別の事をしてたり、会話をしてたりする。図書室が狭くて冬場ならばストーブがあったりして非常にエエ感じだったのだが、ここも『私だけの空間』ではない。
そういう私の気質を見切ったのか、今の専修学院院長の狐野先生はレポートを書く時に「昼間に、人の声が聞こえる所で書きなさい」を指摘して下さった。
個人になりたいと思うと、他人が煩わしい。「うっとうしいのぉ」である。
他人が「うっとうしい」と云う状態で書く文章、個人的思考は、なんなんだろうか?なんぞと、今になって思ったりする。
っちゅうか、今も全く変わらんのだが、その状態は。ただ、『鍵を閉めたら誰も入って来ない』っちゅう状況から、『隣の部屋で娘が泣き出すかも知れん』っちゅう状況に変わった事によって、『うっとうしい』っちゅう事が如実に、現実として感じざるを得ない状況下である。
大切な我が娘ですら、自分の都合(わがまま・欲望)によって「かわいい」だの「うっとうしい」だのと感じてしまうのが私である。