坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

先生達の言葉

2013年08月05日 | 坊主の家計簿
 先生達の言葉を打ち込む。

 で、この「先生達」から評価されたいが故に、いや、その先生達の『教え』でもって、自他を切り裁く。切り裁いてしまう。

 出来なくても腐らなくてイイ世界が念仏の僧伽だし、出来ない人を切り裁いてはいけない世界が念仏の僧伽だと思う。というか、そうやって、今も念仏の僧伽に居させて頂いている。

 大切なことは、呼びかけを聞き、呼びかけを伝え一緒に聞いて行くことだと思う。

昭和51年5月21日発行。安田理深『教学と教団』より

2013年08月05日 | 坊主の家計簿
【教会とは教法の社会である、つまり浄土というのは世界である。世界というものから更に会というものがある。国土は世界という意義をもち、更に会という意義を持つ。会は社会である。普通は社会に対して教会というが、社会と教会は二つあるのではない。教法社会である。これを教会という。浄土も最も具体的には教会である。教会は政治や経済の社会ではない。教法の社会である。大体、世界観や社会観の根底には人間観というものがある。教法社会の基底となるものは修道的人間であると思う。道具や物を作れる人間ではなく修道的人間である。菩薩や凡夫というのはこれを表わす。人間が最も自覚的である時に修道的というのである。また求道的といってもよい。どんな人間でも、どれだけ勤勉につとめていても自己をもたぬ人間は閑人である。自己をもって生きる実存をもって生きる態度が修道的人間である。これが仏教の人間観である。】
(昭和51年5月21日発行。安田理深『教学と教団』より)

安田理深『帰依三宝』120頁より

2013年08月05日 | 坊主の家計簿
【その場合、僧によって行われるその三宝への帰依は、「大衆もろともに」行われるべきものであり、「大衆もろともに」それが行われるときにのみ、はじめて如実の帰依三宝になるのだという、⎯⎯⎯⎯三宝が三宝として初めてほんとに帰依されることになるのだという、何かそういう非常に厳しいことがある】(安田理深『帰依三宝』120頁より)

信国淳『内陣の扉』より

2013年08月05日 | 坊主の家計簿
【ところで坊さん、お寺さんといいますと、どういうわけか直ぐに私どもは、お経を読んだり、葬式を執行したりする者の事をだと合点します。あるいはせいぜい、何かありがたい話をする、いわゆる説教者のことだと思ってしまうのです。坊さん、お寺さんといえば、そのような仕事、あるいは職業に従事する者であるとして、確かに世間で考えられておりますし、当のお坊さん、お寺さんにしてもまたやはり、そのようなものとして自分のことを了解し、それについてはもうまったく何の疑いももつたことがないように見受けられるのです。
 だが、しかしその場合、これはまことに当然なことであると思うのですが、私どもが改めてぜひとも確認してかからなければならぬのは、坊さんといい、お寺さんというものは、何はともあれ仏教に関わりをもつものでなければならぬということ、⎯⎯⎯⎯
仏教に関わりをもって生活する僧というものでなければならぬということです。いわゆる浄土真宗に所属する坊さん、お寺さんといっても、仏教に関わりをもつ僧として、初めてそうしたものであることが出来るのであって、そのことはもはや言うまでもないことでなければならぬのです。真宗に属する坊さん、お寺さんも、仏教、⎯⎯⎯⎯すなわち仏陀釈尊の説かれる教えというものを信奉し、それによって教化される僧というものであるべきであり、宗祖親鸞聖人の導きによりながら、仏の仏法を説かれるのを聞き、仏法に帰するところの仏弟子というものであるのでなければならぬのです。】
(信国淳『内陣の扉』より)

住職に必要な能力

2013年08月05日 | 坊主の家計簿
【本当に住職に必要な能力は檀家のお婆さんの膝が痛いとか腰が痛いとか今度受ける手術の話などを機嫌良く聞く能力ですよ。】
https://twitter.com/ms06r1a/status/363998846285647872

 同じ大阪の真言宗住職さんの言葉。批判が痛烈なのでフォローしている。

 この言葉を聞いて「なるほど」と納得したけど、厳密にいうならば、これは『住職だけ』ではない。現場の御参り僧侶についての事だと思う。ちなみに、この言葉は、さっき辿ったら、某彼岸の方のネット寺院に対して批判して居た方の意見を受けての言葉。まあ、ほれ、「未来の住職塾」云々の。

 私個人の話では、僧侶になっていわゆる僧侶としての仕事をしていない期間(約5年)、いわゆる僧侶の仕事をしていたが住職でない期間(約6年)、住職としての期間(約4年)。
 こんな事は人によっても違うし、寺によっても違う。しかしながら、あくまでも個人的な意見としてならば、住職になって一番大きな問題は経済。ようするに、宗教法人代表役員として、うちの寺の伽藍の維持を考えなければいけない。当然、それら全てを『門徒』に任せている寺が多くある事も知っているが、うちの場合は、寺の伽藍、そして、包括団体としての真宗大谷派の運営資金の問題もある。要するに、一番大きな問題は経済だ。故に、私自身は学ぶ事は全くないが、経済博士 さんの「住職塾」が流行る(?)事もよく理解出来る。門徒(檀家)と共に学んで行く事も当然大事だが、「学ぶ場」の維持管理が私にとっては住職としての最大の仕事だと思う。長年続いて来た僧伽の場があればこその今現在であって、同時に、僧伽の場がなければ、具体的には、伽藍、本堂という場がなければ、何ともならない。
 例えば、私の次の住職が、非常に素晴らしい住職であり、当寺の僧伽、それが例え江戸時代の『檀家制度』という時代を通った(当寺の開基は蓮如の弟子)としてでも、それでも当寺との関わりを持たれている方との出会いを深められ、教化活動も熱心になされる様な住職が出てくるかも知れない。次が無理でも、いつか出てくるかも知れない。でも、それも、当寺がなければどうしようもない。合併や、本堂抜きなら、まあ、離れる門徒(檀家)は多くいるであろう。それが現実。
 故に、他の寺は知らないが、真宗大谷派寺院の住職としての私の最大の責務は、当寺と、教団を次世代に受け継ぐ、という事。宗教法人の代表役員ですから。私の好き勝手で潰すわけにはいかない。受け継いだ以上、次世代に引き継いで行かなければいけない。
 というのが、私の住職としての基本姿勢。

 私は住職であるが、同時に『僧侶』であり、『真宗門徒』である。最近、丸くなったというか、私自身が「あ、俺ってダメやわ」という事が見えて来たので、真宗寺院の住職が自覚的な真宗門徒である必要はないと思っている。寺で生まれ育った事を筆頭に、何かの事情で真宗寺院の住職になった。だが、イマイチ、真宗の教えに興味も持てないし、信じられない。でも、住職としての仕事をやらざるを得ない。そんな人が居ても、私は別に構わないと思う。
 よく「あいつは勉強してない」などという言葉を聞いたりもするが、私も勉強はしていない。少しやった程度であり、勉強熱心な、求道熱心な人達からすると、「もっと勉強せえや」「こんな事も知らんのか」だったりするのだろうし。まあ、そういう事をいう人には「お前こそ、勉強せえ」というのだが(笑)なんの為の法然・親鸞なのか。
 様々な事情で住職になってしまって、でも、別に興味もないし、教えを信じる事も出来ない。信仰として無関心。それでも住職としておられ、伽藍を維持し、教団を支えているだけでも、全く構わないと思ったりする。それでも、それだけでも、真宗門徒としての住職だと思う。いや、「思う」というのは、現実に対して無礼である。申し訳ない。何故なら、現実として「居られる」のだから。単に、自分の視点から切り裁いているだけの話であって、それ以上でも、それ以下でもない。

 言い方を変えよう。私がそういう風な事を考えざるを得ないのは、真宗仏教を学んでいるからだ。
 「膝が痛い」「腰が痛い」「今度手術受けるけど…」という話をなされる真宗門徒がいるならば、そういう住職や僧侶が居ても良いだろ。

 
 次から引用文も打つので、公開にしよ。