坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ギギギ

2013年08月16日 | 坊主の家計簿
はだしのゲンが、なんか、なんからしい。
小学生が最初に覚醒剤やパンパンや、「ギギギ…」という言葉を覚える為に、各小学生には置いておくべきだと思うが、世の中には「子どもが喫煙したり覚醒剤を打ったりしているシーンは好ましくない」とかいう人たちもいてるんだろう。なんか知らんけど。


「業道は、秤のように、重いほうへまずひきつけられる」

2013年08月16日 | 坊主の家計簿
@行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽

@信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。(念仏法語より)

@【問(六)。業道について説かれた経には、「業道は、秤のように、重いほうへまずひきつけられる」といってある。『観無量寿経』では「五逆・十悪をおかし、いろいろの善かららぬことをなすものは、まさに悪道に堕ち、長いあいだをへめぐって、はかりしれぬ苦をうけるであろう。(しかし)いまはのときに、善き人の教えに遇い、南無無量寿仏と称える。このように心をつくし、声を絶やすことなく、十念を具足するならば、そのときそのまま安楽浄土に往生して、大乗の正定をえた聚に入ることができ、もう二度と退くことなく、三塗のもろもろの苦しみを、永遠にはなれるのである」といってある。(とすれば)業が重いほうへひきつけられるという意義は、道理としてどうなのか。
 また、永遠のむかしより、人としてつぶさにいろいろな行為をしてきて、その煩悩にけがれた法は、三界につなぎとめられるものとなっている。(にもかかわらず)ただ十念、阿弥陀仏を念ずると、たちまち三界を出ることができるというのなら、業によってつながれるという意義は、またどのように考えればよいのか。
 答。あなたは、五逆・十悪といった(三界に)つなぎとめられる業などのほうを重となし、下の下の品類の人の十念のほうを軽として、だから罪のためにひかれてまず地獄に堕ち、三界につなぎとめられるはずだという。それではいま、道理をもって、(どちらの業が)軽いか重いかを比較することにしよう。
 どのように心に在るのか。かの五逆・十悪などの罪をつくる人は、自ら虚妄顛倒のおもいにとらわれて罪をつくる。この十念は、善き人がいろいろ手だてをつくして慰め、実相の法(即ち名号)を説かれるのを聞くことによって生じる。一方は実、一方は虚である。較べものにならないほど(十念のほうが重い)ではないか。たとえば、千年このかたの闇室に、もし光が少しでもさしこめば、そのときたちまち明るくなる、というようなものである。闇が室に千年あったからといって、どうして(その闇)が室をはなれないということがあろうか。これを「心に在る」というのである。
 どのような縁に在るのか。かの罪をつくる人は、自ら妄想の心にとどまり、煩悩虚妄のむくいをうけている衆生だからこそ罪を生じるのである。この十念は、この上なき信心をえ、阿弥陀如来のたくみな手だてである荘厳、真実の清浄さをそなえた、はかりしれぬ功徳の名号によって、(十念を)生じる。たとえば、ある人が毒矢をうけて、筋をきられ、骨を破られても、滅除(という名の)薬をぬった鼓の音を聞くと、たちまち矢がぬけ、毒ものぞかれる、といったようなものである。(『首楞厳経』にいわれている。「たとえば、滅除という薬があって、もしたたかいのとき、これを鼓にぬり、そのたたく音を聞けば、矢はぬけ、毒ものぞかれるようなものである。大菩薩もまたこのように、首楞厳三昧に住していて、その三昧の名を聞けば、三毒の矢は自然とぬける」と。)どうしてかの矢が深くささり、毒がはげしくて、鼓の音を聞いても矢がぬけず、毒もさらないということがあろうが。これを「縁に在る」というのである。
 どのように決定にあるのか。かの罪をつくる人は、後があると油断する心、雑念のまじわる心によって罪を生じる。この十念は、後をあてにしない(緊張した)心、雑念のまじわらない(ひたむきな)心によって生じるのである。これを「決定にある」というのである。
 この三義において比較すれば、十念のほうが(業が)重い。(だから)重いほうへひきつけられて、三界を出ることができるのである。両経(業道について説かれた経と観経)の義はまったく一つである。
(東本願寺『解読浄土論註・巻上』139~141頁)

重い方が先に引く

2013年08月16日 | 坊主の家計簿
【出口の鉄の扉が開いた。当番将校先導で、その後にチャプレンと私がつづき、そのうしろに 土肥原、松井、東条、武藤の順で並び、両脇には看視、あとに将校が二、三名つづいて、 静かに中庭を歩んでゆく。その間、約二分ぐらいかかったが、念仏の声が絶えなかった。 とくに東条さんの声が・・・・・・。
刑場の入口(コンクリート塀)で、私は隊列を離れ、さらに四人と、 また一人一人手を握って最後の「御機嫌よろしゅう」をいったところ、
「いろいろ御世話になって、有難う。どうか、また家族をよろしく願います」と、 みなにこにこ微笑みながら、刑場に消えられた。 あとで聞いたところ、台上では四人とも、最後の南無阿弥陀仏を称えていられたということだ。 急いで仏間に帰る途中、ガタンという音をうしろに聞いた。時計をみると、午前零時一分だった。】
花山信勝「巣鴨の生と死 ― ある教誨師の記録 ― 」
http://www.c20.jp/1948/12senpa.html


【問うていう。 業道を説かれた経典の中に 「業の道理は秤のようなものであって、 重い方が先に引く」 と説かれてある。 «観経» には 「人が五逆・十悪を作り、 多くの善くないしわざをそなえるならば、 まさに悪道におちて、 はかり知られぬ長い間、 無量の苦しみを受けねばならぬ。 ところが命の終るときに臨んで、 善知識が教えて南無阿弥陀仏を称えさせてくださるのに遇うた。 このように、 心から念仏を称えて十念を具足するならば、 すなわち安楽国土に往生し、 大乗の正定聚の位に入って、 ついに後戻りはしない。 そこで、 三途のいろいろな苦しみとはもう永く隔たってしまう」 といわれてある。 そうすると、 重い方が咲きに引くという業道の理においてはどうなるのか。
また、 無始よりこのかた、 多くのいろいろなしわざをして来た有漏の結果である身心は、 三界に繋がれている。 それが、 わずかに十たび阿弥陀仏を念ずることによって三界を出るとするならば、 業力につながれるといういわれはまたどうなるのか。
答えていう。 そなたは、 この世で犯した五逆・十悪や、 無始以来三界に繋いでいる業などを重いとして、 下下品の人の十念を軽いとする。 そこで、 犯した罪に引かれて先ず地獄におち、 三界に繋がれるというならば、 今まさしく義理をもって比べよう。 軽い重いということは、 つとめる人の心にあり、 その所縁にあり、 またその時の心の決定か不決定かにあるのであって、 時の長い短い・多い少ないにかかわるのではない。 ^その 「心にある」 とはどういうことかというと、 かの罪を造る人は、 真如にそむいた誤った考えから生ずるのである。 この十念の念仏は善知識が教え慰めて、 真如にかなった名号法を聞かせることから生ずるのである。 一は真実であり、 一は虚仮である。 そうしてこれを比較することができようか。 たとえば千年の闇室に、 もし光がしばらくでも入れば、 ただちに明るくなるようなものである。 どうして、 闇は千年、 室の中にあったのだから光が入っても去らぬということができようか。 これを心にあるというのである。
「所縁にある」 とはどういうことかというと、 かの罪を造る人は、 みずから妄想の心により、 煩悩虚妄の果報である衆生を相手として起す。 この十念の念仏は、 この上なき信心により、 阿弥陀如来の真実のお慈悲より成就した尊い名号によって生ずるのである。 たとえば、 人が毒の矢を受けて、 あたったところの筋がきれ、 骨が破れたとしても、 もし滅除薬を塗った鼓を聞けば、 矢は抜け出て毒も除かれるようなものである。 «首楞厳経» に 「たとえば薬があって滅除と名づける。 もし戦の時にこれを鼓に塗っておけば、 その鼓の音を聞くものは、 矢が抜けて毒が除かれるように、 菩薩もまたこのとおりで、 首楞厳三昧に入って、 その名を聞くものは、 三毒の矢がひとりでに抜け出る」 と説かれてある。 どうして、 かの矢が深く入って毒がはげしいから、 鼓の音声を聞いても、 矢を抜き毒を消すことができないといわれようか。 これを所縁にあるというのである。 ^「決定にある」 とはどういうことかというと、 かの罪を造る人は、 それが平生の時であるから、 まだ後があるというゆっくりした考え、 したがって、 いろいろの間雑する心によって起す。 この十念は、 臨終であるから、 もはや後がないという考え、 したがって、 専念の心によって起す。 これを決定にあるというのである。 ^この三つの道理から考えると、 十念の方がその力が重い。 そこで、 重いものがまず引いて、 よくこの三界の迷いを出ることができる。 こういうわけで、 «観経» と業道のことを説かれた経典とのいわれは一つである。】
(無量寿経優婆提舎願生偈註・巻上)
http://www.yamadera.info/seiten/d/ronchu1_j.htm