坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

トイレの仏様

2010年11月28日 | 坊主の家計簿
 学習会。え~と、酒なし打ち上げなしで0時までの学習会。
 私は緑茶が苦手なので99円ショップで買ったミルクティーを持参して飲む。まあ、外出する時はだいたい持ち歩いているのだが。今回買ったのは『リプトンの贅沢ロイヤル』というヤツで何やら濃い目らしい。お酒が飲めないので糖分補給で500mlペットボトルの半分ぐらい飲む。カフェインが。。。眠くないぞ、1時過ぎとるぞ。
 なのでお酒を飲む。

 ああ、お酒を飲む見事な大義名分だ。んなもん関係なく殆ど毎日飲んでいるのだが。

 月末なので寺の通信を作らなければならないのだが、ゲーム三昧で全然出来てない。構想すら出来ていない。まあ、来月号は正月の法要の案内込みになる。もう来年の事をやらないといけなくなる。
 早い。。。この一年、え~と。。。まあ、「この一年」という経験は出来たな。それだけは間違いない。年齢もひとつ重ねたし。

 一年前は立てなかった娘が結構走っている。今日もテレビを見ながら踊ってたら転んで上唇を切った。これは私が少し目を離した事も問題なのだが、でも、「成長したなぁ~」である。
 私。この一年、目に見えての成長はないけど、一年間という経験をした事だけは確かである。

 年齢を重ねる事を『齢を重ねる』というが、私はこれを『弱いを重ねる』と読み替えている。弱さを、自分の弱さ、他人の弱さを見出して行く事を重ねて行く事。

 北朝鮮の弱さ。韓国の弱さ。アメリカの弱さ。中国の弱さ。日本の弱さ。

 今日は少し運ぶものもあったので車で学習会。帰りのラジオをなんとなく流してたら龍馬伝の話をしてた。なんとなく聞いてたら、福山のラジオだったみたいである。「明日、俺が斬られる」みたいな事を喋ってたし。福山はシオンの事を尊敬しているらしい。そういえば、カラオケで『Sorry Baby』を歌おうとすると福山バージョンしかなかったし。今は知らんが。2人で一緒に歌ってる曲もあるし。福山、結構、エエヤツかも知れんのぉ。。。

 龍馬伝。ヒーロー物語。

 ♪俺は王様だと思ってた
  俺の声で誰でも踊ると思ってた
  だがしかし 俺の叫ぶ声は
  ピンボールさ はねてるだけ
 (シオン『俺の声』より)

 なんかの車のCMで「家族でコンパクトカーってあり?」というのがあった。え~。。。うち、バリバリ中古の18万円の軽自動車やぞ。コンパクトカー、っちゅうか『普通車』って夢の憧れの存在やぞ。
 学習会に行く前に少し寝る。部屋着そのままで寝たので暑かったのか、やたらとハッキリした夢を見る。というか、目が覚めた時に憶えてた。紺色のマツダのステーションワゴンに親子三人で乗ってた。軽自動車に比べると大きいので乗り馴れなくて擦ったりしながら。まあ、ステーションワゴンは寺の前の道は無理なんだが、今の所は「いつかは日産NOTE」である。日産マーチもエエのだが、理想はNOTE。夢はNOTE。
 今はそんなお金もないし、維持費も辛い。

 そんな憧れを持つ私の弱さ。実現出来ない弱さ。「家族でコンパクトカーってあり?」というCMに劣等感を抱いてしまう弱さ。それを煽り立てる仕事をしている方々の弱さ。
 「坂本龍馬って偉大やのぉ。それに比べて俺なんて」という弱さ。龍馬に憧れる弱さ。自分自身に成り切れない弱さ。

 何やら今年の紅白歌合戦の目玉は岡八郎らしい。。。違うか。まあ、『トイレの神様』の歌詞の中にも『新喜劇』と出てくるが、あれは『松竹新喜劇』ではなく、『吉本新喜劇』の事だろうし。

 ♪お浄土には 
  それはそれは優しい仏さまがいるんやで
  だから毎日念仏してたら
  仏さんみたいに優しくなれるんやで

 う~ん。。。JASRAC、危険か(笑)

 しっかし、『トイレの神様』って、まあ、八百万の神様なんだろうが、『トイレの神様』が歌として成り立ち、紅白に出れるのならば、やはり「おばあちゃん」から、「朝起きたらまず仏さんに手を合わせなさい」というのでも成り立つのではないのか?

 子どもの頃大好きだったおばあちゃん。両親が働きに出ている間に私とずっと一緒に居てくれたおばあちゃん。ワガママを言って親から怒られた時も庇ってくれたおばあちゃん。どんなワガママでも許してくれたおばあちゃん。おばあちゃんは毎朝、仏さんの前でロウソクを立てて、線香をつけて、お経を読む。私を膝の上に乗せて「こうやって手を合わせるのよ」と。「はい、ナマダブ、って言って」と。私はおばあちゃんにあわせてナマダブという。大好きなおばあちゃんと一緒にナマダブという。おばあちゃんは私を膝の上に乗せながらお経を読む。私はそれをおばあちゃんの顔を見ながらずっと終わるのを待つ。おばあちゃんはタマに私の方を向いてニコッと笑う。私も嬉しくなって笑う。お経が終わるとおばあちゃんは仏さんの話をしてくれる。「仏さんはどんな人でも許してくれる優しい人なんやで。だから仏さんに許して貰いたくて、誰かを許そうとしたらナマダブというんやで」。それから私はおばあちゃんと一緒にナマダブと言うようになった。優しいおばあちゃんみたいになりたくてナマダブと言うようになった。少し大人になった私はおばあちゃんとぶつかった。家族ともうまくやれなくて居場所がなかった。学校が終わっても家にすぐに家に帰らずに夜遅くまで遊んでた。家に帰ってもすぐに自分の部屋に引き蘢った。おばあちゃんの膝の上に乗る事も仏さんの前に座る事もなかった。人を傷つけ自分を傷つける事に楽しみを憶えた。そして1人きり家を出た。そうして2年おばあちゃんが危ないと連絡があった。久しぶりに会ったおばあちゃん。憶えているおばあちゃんの顔とは違ったおばあちゃん。そこでも居場所がなかった私におばあちゃんはいつもと変らずニコッと笑う。でも私は怖くなって逃げ出した。次の日おばあちゃんは死んだ。「おばあちゃんゴメン!」と言った私におばあちゃんの顔はいつもと変らずニコッと笑ってた。「仏さんはどんな人でも許してくれる優しい人なんやで。だから仏さんに許して貰いたくて、誰かを許そうとしたらナマダブというんやで」。私は久々にナマダブって言った。自然に口からこぼれて来た。おばあちゃんおばあちゃんありがとう、おばあちゃんホンマにありがとう。

 え~と、JASRACからクレームが来るまでは削除せえへんぞ。

 タイトルを何にしようか少し悩む。
 『トイレの仏様』に決定。

【具縛は、よろずの煩悩にしばられたるわれらなり。煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやますという。屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり。これは、あき人なり。これらを下類というなり。「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり】(親鸞聖人)