ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

戦後民主主義について。21.02.03 もう少し、「平等主義」のこと。

2021-02-03 | 戦後民主主義/新自由主義


 世の中には生来高い能力に恵まれていて、なおかつ日々の研鑽も怠らず、激務をものともしない人がたくさんいる。そのような人たちが働きに見合った待遇を受けるのは当然であり、そういう意味では市場原理も競争原理も正しいに決まっているのだが、それはあくまで社会ぜんたいの健全な成長を前提にしての話だ。労働(に伴う価値創造)によって社会ぜんたいの健全な成長に寄与するからこそ、その個人なりその企業なりは立派なのであり、だからこそ高い報酬を得る。
 ここで「社会」といっているものを、「日本という共同体」と言い換えてもいい。
 高度成長期には、そのようなエートスがほとんどの人や企業に共有されていた(エートスの語義については前回の記事を参照されたい)。
 それもまた「戦後民主主義」の美点であり、かつ、山本昭宏さんの本で指摘されていない点である。
 こういったエートスが解体されはじめたのもまたバブル期であり、投機的なマネーゲームで目先の利益を追求することが是とされた。メガバンクのほとんどがその風潮に加担し、結果として多大な損失をこうむり、公的資金の投入というかたちで社会に迷惑をかけた。
 資金の循環は資本主義経済にとって不可欠なわけで、投機が活発になること自体は多とすべきだが、それが自己目的化して過熱しすぎれば、歪みや汚濁が生じるのは自明だ。
 あらためて繰り返せば、「日本という共同体」の健全な成長に寄与するからこそ、その個人なりその企業なりの労働は立派なのであり、だからこそ高い報酬を得る。
 その逆ではない。
 高い報酬を得ているから、カネを稼いでいるからその個人なりその企業なりが立派……なわけではぜんぜんまったくないのである。ただたんに理財の才に長けているからといって、それだけで偉いわけではない(できればお友達にはなりたいと思うが)。
 バブル期を境に、この倒錯がまかりとおるようになった。
 そのあげくが、今日における「カネだけ今だけ自分だけ」主義の蔓延である。
 この「カネだけ今だけ自分だけ」主義こそが、戦後民主主義てきな「平等主義」の対極に位置するものだとぼくは考えている。
 「カネだけ今だけ自分だけ」主義が、ネオリベラリズム(新自由主義)およびグローバリズムと親和性が高いのもまた見やすいことだろう。
 ぼくが「平等」にこだわるのは、あまり経済に詳しくない左派のひとたちがよく言うような、社会保障とか再分配といった社会主義てきな思想に根差すものではないのである。
 先進国中、一貫して文化・教育予算が最低レベルに留まっていることからもわかるとおり、カネや公的サービスの使い方にかんして、この国の行政には明らかに偏りがある。
 もっと適切な運用方法があるはずだ。ずっとそう思っている。
 「日本という共同体」をより豊かにし、国際社会の中でより責任ある地位を占めうるような運用方法が別にある。しかも現状からはかなり離れた場所にある。そのような不満がずっとある。
 最適解はまだまだ別のところにあるはずだ。それを求めての模索は続けられるべきだろう。
 そして、それを模索するうえで根幹に置かれるべきものこそ、「日本という共同体」の全域を愛情をこめて隈なく眼差しの先にとらえる姿勢、すなわち「カネだけ今だけ自分だけ」主義の対極としての「平等主義」の姿だと思うわけである。







コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。