栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

近況報告(Masuyama_Masaharu)

2011年10月28日 | 増山・松信・水野


つい先週の土曜日、息子が高校を卒業して20年目のリユニオンから戻って、「久しぶりに同級生に会ったらずいぶんと子持ちも多くなったし、中年太りだぜみんな」と電話で話していました。 その親父である我々の世代はお互いに顔を合わせると、孫が何人になった、コレステロールが高くて・・みたいな話題が圧倒的に多くなっているんですね、最近は。

さて、近況報告のご指名が今井、千種、両君からありましたので私の越し方来歴を簡単に振り返りつつご紹介します。

68年大学を出て、理科系からの入社は少なかった三菱商事に入り、活況を呈し始めていたプラント輸出部門に配属となり、五年目にニューヨークに赴任しました。 その二年前に結婚していましたが、辞令が出た73年初めは息子が女房の腹の中でした。 あの当時はお腹の子の性別は生まれるまで判らなかったですから、赴任の手続書類の子供の性別の欄に「?」を書いて、こりゃなんだと言われたのを思い出します。

ニューヨークに五年半居て、日本に帰任が決まった78年は日中技術交流が盛んになっていた時で、東京に戻れば中国関係の仕事をすることが決まっていたので、ニューヨークを発つ前から中国語のレッスンを受け、翌年の79年は大半を上海と北京で過ごました。 公司の担当者に覚えてもらおうと思って髭を生やし、「英語を話す、髭面の変な日本人」で通っていましたが、一年過ぎた頃には中国の外貨不足が表面化して、日本に発注していた大型石化プラントが次々にキャンセルになるという情況の変化に遭遇、あっと言う間に「面壁して為すことなし」の情況になってしまいました。 

その欝々とした髭面の顔を覚えていたらしい他部門の役員からサウジでの石化事業に引っ張り込まれ、それから三年は日本とサウジを往復する日々でした。 仕事は面白かったし、良い経験をさせて貰いましたが、当時まだ組合員だった私は三年以上の出向はだめということで本社に戻ってまた鬱々としていたら、今度はニューヨークの現法の社長から「俺の業務秘書でニューヨークに来い」と言われたのが1985年夏。 息子が栄光を受験しようと四谷大塚に通っていた6年生の夏休みだったので、息子と女房はこれで中学受験はなくなる!!やったあ!と大喜びでした。 従って、二代にわたる栄光生は実現せず、息子は小学校というものを卒業しないまま大人になる羽目に陥りました。

それから26年、ずっとニューヨーク生活です。 もっとも三菱商事は1994年に日本への帰国を言い渡された時に辞めて、自分でコンサルの会社を始めましたので、独立して17年経つことになります。

独立以来、主として日本の中小企業の対米進出を手伝う仕事をやっていますが、定年は自分で決めるので、まだ現役です。 この夏もニューヨークのトレードショーに出展する複数の日本の会社を支援して展示の仕方や顧客を掘り出し方のアドバイスなどを付きっ切りでコーチしましたが、昨今の超円高の下ではかなり知恵を絞らないと目的達成が出来ないので、枯れかけた頭脳をアルコールに浸しながらやっています。 

最後に付け加えますと、当地には「ニューヨーク栄光会」というのが1970年ごろからあって今でも卒業生が1期生から46期生に渉って30人近くおりますが、その世話役を6期の村瀬さんから引き継いでやっています。 (2011年10月26日)
                               (増山*正晴)

 
2011/6/24
そして、次の近況報告は同じく米国在住で私より十倍以上波乱万丈の藤村道男君にお願いします



2010/8/23 有賀夫妻と

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