栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

近況報告(Matsunobu_Hiroshi)

2012年07月05日 | 増山・松信・水野

奥山さん等のご尽力により、11期のホームページが立派に運営されていることにまずはお礼を申し上げます。

 近況報告をということで吉川晋平さんから耳打ちされた時は、ハイハイと軽い乗りで引き受けたのですが、近況報告といっても誰も興味をもってくれないしなー、などと気が進まず、原稿が遅れてしまいまずはお詫び申し上げます。 しょうがないので卒業以来のことを簡単に綴ってみます。

  吉野さんの算数が全く分からず、成績不良で高校に進めないかも知れないと親が呼び出しを食らった割には、たいしたことはないけど順調に過ごして来ました。浪人もせず慶応、朝日新聞社に入り、丁度27年半勤務しておりました。灰野さんと一緒で朝日の営業職の試験を受けたわけですが、当時夢見た有楽町の本社の玄関をくぐることなく西部本社の販売部に配属されました。西部とは大阪・関西と思っていたのですがなんと九州。縁もゆかりもない土地で、勤務は結局11年にわたり、カミサンも子供二人も九州産ということになりました。

 33歳、バブルの真っ最中に東京へ転勤。一緒に『朝風3号』に乗って西部に渡った営業の仲間は結局九州で定年を迎えたので、まずはラッキーだったのでしょう。東京の着地は宣伝部。当時有楽町から築地に本社が移転をし、鉛を使った製作工程からCPによる製作への大転換の時で、部ごと消滅という部門が出てきたわけですが、大量に出現した社内失業者(失礼)の受け皿として、仕事を作る仕事といった今では考えられない業務も経験しました。でも時はバブル。面白い企画を立てスポンサーを探せば過分な協賛金を得ることも出来、若さもあって毎晩遅くまで働き、飲んで遊んで、今振り返れば一番面白かった時代かも知れません。

  国際営業部を作るから初代部長になれとか甘言に誘われてふたを開ければ英字新聞のドメスティック販売部長とか、アエラ発行室のメンバーになったのはいいけど、仕事は発行までにウン万人の固定読者を作れとか、まあ、人並みに色々経験をさせられました。灰野さんも書いていましたが、バブルの頃は新聞配達をする学生なぞ払底し、中国に20回くらいは就学生の募集にも行って来ました。 念願かなってやっと宣伝部長になって半年、有隣堂の社長をしていた父が脳溢血で倒れ、仕方なしに朝日を退社し、給料の安い有隣堂に移って来ました。

 1994年、ちょうど50歳。既にバブルは崩壊し、それまで販売額が伸びていた出版物の売り上げが初めてマイナスに転じた記念すべき年となります。以来現在に至るまで出版物の販売額は毎年減り続け、書店の数も当時の半分以下にまで減ってしまい、銀行によれば、『出版業界は不況業種』とまで言われるようになってしまいました。 

現在68歳。このような状況下でまだ働いているわけです。アマゾンの台頭、電子書籍の急速な普及、事務用品等B2B用品のEC化、お役所に税収が不足しているがためのリバースオークション等購買方式の変更などなど、地方の一小売店としては対処できかねるような難題ばかりが毎日押し寄せています。

 幸い、結構な多角経営のせいか、従来の枠の中や業界の中では生き残れているのかなーとも思いますが、ホント生き残り競争とはよく言ったものだと思います。デジタルなんぞ分からない小生は『紙の本は決してなくならない』などと業界の呻きに合わせたことを言ってはおりますが、果たして明日はどうなることやら。

 足腰の立つうちにリタイアーしたいものです。

              

            

 

 

 

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