栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

11期囲碁会のお誘い  (Hanakawa_Yasuo)

2017年06月02日 | 灰野・畑田・花川

11期囲碁会のお誘い

 5月31日(水)の午後1時半より下記の4人が集まって 横浜駅西口の宇宙棋院で久し振りの対局を楽しみました。

 メンバーは、水野・大久保(武)・宮田・花川  総当たり戦で、幹事は1勝も出来ずハンディを調整して もらうことになりましたが、他3名の実力は拮抗して いました。

しかし逸見の碁会所常連師範代水野氏の早碁には重量級 宮田氏も手こずったようです。大久保氏はゴルフ並みの 手堅さで水野プロに肉薄していました。

 対局後は地下街の居酒屋で打ち上げ。 次回は、7月6日(木)午後1時半から宇宙棋院です。 どうぞ関心のある方は、気楽にご参加ください。

 お問い合わせは、花川まで

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近況報告(Hatada_Masao))

2012年11月13日 | 灰野・畑田・花川

平成16年に定年退職して以来8年間、東京の2箇所の博物館で週2回、来館者応対のボランティア活動をしてきました。上野の国立科学博物館と台場の日本科学未来館です。それ以外は借りている約40坪の畑と自宅の庭の手入れをするというのが私の日常です。これだけでも結構忙しく退屈する暇はないのが面白いところです。

  先日奥山さんから栄光イレブン会の記事の依頼がありました。大変申し訳ないことに正直なところそれまではイレブン会のHPはあまり読んでいなかったのですが、これを機会にバックナンバーを全て読ませてもらいました。びっくりしました。皆さんがなんと豊かな人生を歩んでこられたかに圧倒される思いでした。そこで平々凡々たる私の人生を振り返り一体何を書けばよいのか大いに悩みましたが試案の末、最も思い出深いプロジェクトを取り上げることにしました。

 私は昭和42年に上智大学理工学部を卒業し40年に設立されたばかりのコンピュータ・ソフトウエア会社に就職しました。実は大学院の試験に失敗し、就職先を探すことになったときにはこの会社の他に2社しか残っていなかったという状況で、あまり気の進む就職ではなかったのです。しかし、当時ようやく世に出始めたコンピュータのソフトウエア開発が仕事で、タコ部屋的な忙しさながら結構知的刺激のある職場でした。それでも3年も経つと生意気にも大体のことは解ったような気になり、仕事に変化を求めるようになります。栄光時代から英語に興味のあった私は、海外との関わりがある仕事をしたいと日頃思っており、もし機会がないならば転職もあり得ると友人に漏らしていました。

  そんなある日同期入社の営業の友人が「お前近々フロリダに行くことになるぞ」と声をかけてきたのが発端で、それから1カ月後には米国フロリダへ出張することになります。業務は種子島から打ち上げるロケットの飛行安全に関するソフトウエアシステムの技術導入の準備会議です。当時米国では、今は姿を消したパンアメリカン航空会社(PAA)の一部門がその分野のノウハウを保有し、ロケット打ち上げ時の飛行安全システムの運用も担当していました。そのノウハウを日本でも習得すべきというのが当時の宇宙開発事業団(NASDA)現在の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の意向でした。

  当時日本は液体燃料を利用する大型のロケット開発に着手し始めたところで、ロケットが安全に飛行することを保障する手立ても同時に確立しておく必要にせまられていました。ロケットの飛行を監視するNASDAの飛行管制官は、このシステムの表示するデータを見てロケットが異常飛行をして人命や財産に被害が及ぶことが予想される場合には、ロケットを自爆させる指令電波を発するか否かを判断するのです。現在までのところ指令により破壊したことは2回しかなく、日本のロケットの成功率の高さを示しています。(米国もロシアもロケット開発の初期には何十回も破壊しています。)

 このシステムは日本国がロケットの打ち上げの安全に責任を持つことを内外に示すためのものでもあります。通常の正常な打ち上げの際はロケットの飛行状況を関係者に提供することが主たる任務となっています。コンピュータの発達に伴いこのシステムは変貌を遂げ、現在の機能は当時とは様変わりしていますがその任務は今でも変わりません。

 出張命令を受け、飛行機も初めての私は喜び勇んで多少の緊張とともに、NASDA、三菱商事、NECの関係者と我が社から2名の総勢7名で羽田からDC10でフロリダに旅立ちます。昭和48年のことで、我が社からは初の海外出張でした。旅慣れない私は新調の背広とネクタイ姿で機上の人となりし、「気をつけないと」と思っていたのにネクタイにコーヒーのミルクを垂らしてしまい、がっかりしたものです。

  会議は順調に運び、合間に前年にオープンしたばかりのディズニーワールドを見物したり、米航空宇宙局(NASA)の関連施設を見学したりしました。今後の業務スケジュール調整などをして、2週間近くの予定の半分で目的を果たすことができました。日程に余裕ができたこともあり、折角海外に出たのだからとのNASDAの勧めで、ラスベガスでのグランドキャニオン観光、ハワイ観光などを楽しみ何とも優雅な出張となりました。途中での観光などそれ以降の出張ではあり得ないことです。NASAの見学にしても我々と同じ施設の見学が翌年にはNASDAの職員にさえ許可されなくなったなど、本当におおらかな出張でした。

 間もなくPAAからプログラマーが10名ほど来日し、東京品川のNECの三田工場内でNECのコンピュータを利用してのシステム開発が始まります。このコンピュータはPAAには馴染みのないものなので、我が社から数名の人間がサポートし、私はオペレーティングシステム側からのサポートを担当することになりました。

  開発開始直後のある日のこと。昼食に一人のプログラマーを誘うと、これが僕の昼飯だと言って、半分にしたキャベツを見せます。彼は菜食主義者でこれに塩をかけて食べるのだと言います。そういう人たちがいることは話には聞いていたのですが、お目にかかるのは初めてなのでびっくりしました。それからしばらくしたある日、一人のプログラマーが青い顔をして助けを求めてきます。プログラムを一部修正したところそれまで正常に動いていたのが全く駄目になったというのです。調べてみればたった1文字のミスが原因だと直ぐに判りましたが、彼にしてみれば大助かりだったようで、大変喜ばれました。PAAは業務開始直後は日本人のサポートなどいらないと思っていたようですが、色々な場面を経て我が社を頼りにするようになり、両者は急速に信頼度を増していきました。

  NASDAは、飛行安全システムを種子島からの打ち上げという条件で日本のコンピュータ上で動くようにすることだけではなく、このシステムのノウハウを日本に導入することも大きな目的としていました。それも大メーカーではなく小さいながらも新しい会社を育てることも意図していたようです。初めはPAAもシステム開発に専念するためノーハウを伝授するような余裕はなく、日本側の教育は種子島で実施することになっていました。我々サポート部隊は彼らが廃棄したプログラムリストをゴミ箱から拾って仕事の合間に勉強したりしていました。PAAによる教育の受け皿となるチームを編成するため我が社は間もなく10数名の新人を採用します。そしてその内の10名が私に任されました。それまでは高々数名の陣容でプロジェクトを担当していた私にとってはこれがかなりのストレスになったようで、一日数本程度であったタバコの量が20本へとかなりのヘビースモーカーになってしまいました。(タバコは昭和61年に止めそれ以来26年間1本も吸っていません。)

 昭和49年にはいよいよ種子島での作業が始まります。今でこそ種子島を知らない日本人は珍しいと思いますが友人は皆、私がとんでもない僻地に左遷されるかのように思ったようです。人は住んでいるのか、道路はあるのか、車の運転を間違えて海に落ちないように気をつけてなどと、とんでもない心配をしてくれたものです。初めての種子島は私にとっては別天地でした。当初の宿舎はつまべに荘という国民宿舎で、歩いて1分で海に入れるという、海が大好きな私にとってはたまらない環境でした。あまり開発が進んでいなかったこの島はNASDAがロケット発射場を建設することで、特に島の南の方で道路が整備されたりホテルが建ったりして急速に変わっていきます。関連の土木工事や警備などを請け負う会社も設立され、訪れる人も増加し島は潤っていきます。

 私は種子島に赴任することなく、1回1カ月くらいの出張を3年間で約20回繰り返しました。今は懐かしいYS11が鹿児島から種子島への足でした。種子島に通うようになった昭和49年の夏に見合いをし、翌年の2月に結婚しました。結婚しても半分以上は種子島出張で家に居ない方が多く、妻には寂しい思いをさせていました。罪滅ぼしにその夏妻と種子島見学のための小旅行をしたのがつい先日のようです。 種子島では日本へのノウハウ提供の集中教育が実施されました。NASDAの職員と我が社の社員だけを対象にした教育です。二次元行列式といった数学の基礎からの講義に始まり、すべての内容の終了時には卒業証書が授与されるという趣向で、こうした米国流のやり方は新鮮に感じました。

  飛行安全システムの開発もロケットの開発と並行して順調に進み昭和50年9月には日本初の大型液体燃料ロケットN-1号機が打ち上げられました。噴射ガスによる焦げ跡も生々しい発射台の近くに祝賀会の準備をし、搭載してあった人工衛星ETS-1の電波が受信されて、NASDAの初めての人工衛星が地球を一周してきたことが確認されてから皆で乾杯したのは、忘れ難い思い出です。

 PAAから導入した飛行安全システムは完全に日本に根付いただけではなく日本独自の発展を遂げました。打ち上げ準備として実施する飛行安全関連作業の中にはコンピュータを使用することができずに人手によらざるを得ない部分もあり、米国にはその作業を専門にしている技術者もいましたが、後に我々はそれを自動化することに成功しました。驚いPAAは、プログラムアルゴリズムの文書全てとプログラムリストを持ち帰りました。PAAが帰国してからは飛行安全システムに関する技術交流はありませんのでお互いのシステムはかなり異なった成長を遂げているものと想像されます。

 その後40年近くにわたりこのシステムは発展を続けて社業の重要な柱の一つとなっており、NASDAの当初の期待に十分応えることができていると思います。

              

       

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中国の記事で思い出したこと(Haino_Mayumi))

2012年06月20日 | 灰野・畑田・花川

  

 朝日新聞社の定年後、新聞販売従業員共済会というところに3年ほど勤務していました。

 新聞販売店の従業員の退職金と独立資金の積み立ての運用、管理が主な仕事でした。兼務として新聞奨学会事務局長ということをやっていました。 新聞販売店従業員の不足をおぎなうことと大学へ行きたくても金がなくて行けない学生の援助のために作った会です。

 日本人が対象ですがそれだけでは足りなかったので外国人の奨学生も集めていました。私がいたころは中国、ベトナム、韓国から毎年来ていました。このうち中国へは春と秋に2回ずつ3年間で6回募集に行きました。 中国共産党の青年部というところと提携して毎年北京から何人か来てもらっていました。別口で大連の日本語学校とも提携しこちらからも毎年来てもらっていました。 その生徒たちの面接と友好を兼ねて春と秋に行っていました。

写真はその際最初に行ったとき事務局長に就任したので青年部との調印をしているところです。なぜかこの写真がグーグルで自分の名前を検索してみたら乗っていました。会社の知人に言われて検索してみたらあったのでびっくりした次第です。仕事のついでに一日見物を組み込んだので、北京と大連の町中だけでなくいくつかありますがまたの機会に投稿させてもらいます。

           

 

今回は一つだけ感想です。

 ちょうど北京オリンピックへ向けての準備中だったのであちこち工事中でした。マンションも北京のあちこちで建設中でしたが価格を聞いてびっくり。

 高いのと安いのとの差がモノスゴかったことです。また賃金の高低差もまたびっくりするほど差があったことです。一緒にいった部下が中国から帰化した男であったので非公式の一般の中国人といろいろ話ができたのが非常に貴重な体験でした。

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近況報告(Haino_Mayumi)

2012年03月26日 | 灰野・畑田・花川

 

 先日は幹事お疲れ様でした。楽しい夜を過ごさせていただきありがとうございました。ほかの皆さんと同じように昔を振り返ってみようと思います。

大学の1年の秋から寮に入れたのをきっかけに、バイトに忙しく授業は最低限の出席をこなすだけとなりました。 そのかわり親からは金をもらわず、授業料も生活費も全部自分で稼ぎました。寮の委員会に入り、寮費と食費はただというのが助かりました。

  就職は朝日新聞社にしました。よく勘違いされるのですが新聞記者ではありません。記者とは別の業務局という試験を受け合格しました。半年の研修のあと経理に配属されました。その後生意気だったのか、使い勝手がよいと思われたのかいろいろな部署へいっては経理にもどりまたどこかの部署へかわるということで、同じ部署は長くて3,4年でした。関連会社への出向も何度かあり、それも信用組合、厚生文化事業団、新聞販売授業員共済会などと毛色のかわったところでした。

 勤務地も、北海道、大阪が2度、北九州と東京を行ったり来たりでした。各地でいろいろなところへ遊びに出かけているうちにふと思いつき日本全国の都道府県全部に泊まってみるというのを目標にしました。

そしてついに定年後に勤務した共済会の旅行で最後に残っていた沖縄を制覇して完成しました。 通過したことはあっても宿泊して制覇はそうはいないだろうと飲み屋での自慢話にしています。飛行機が嫌いだったので、可能な限り列車で移動しました。   

 北海道時代には、今はもう運航していない青函連絡船にも北斗星との乗り継ぎで何度か乗りました。九州も東京との往復はすべて新幹線。一度も飛行機は使いませんでした。

  定年後の最後の勤務となった新聞販売従業員共済会の仕事の中で新聞奨学生を集めるというのがありました。日本人だけでは不足しているので、中国、ベトナム、韓国などからも来てもらっています。この募集で中国とベトナムへ何度か行きました。

最初飛行機が嫌だと言っていきたくなかったのですが何度も行くうちに慣れてきて、最後のほうは窓際に座って下も見れるようになりました。以前は乗る前に酒を飲んで飛び立つ頃にはねているという方法で乗ってました。なれとは不思議なものだと思ってます。

                                           

                           2011年夏 北海道旅行 お孫さんと                                              

  63歳になる寸前で完全リタイアし、もうすぐ5年たちます。仕事しなくなった退屈するのではと危惧していたのですが、全くそんなことはありません。

 今回はこのくらいにして、あまり皆さんの投稿が少ないようでしたら近況をと思っています。

                     

 栄光11会(2012/3/3)にて 左から長島君、灰野君                                  

 

 

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囲碁同好会員募集(Hanakawa_Yasuo)

2011年12月26日 | 灰野・畑田・花川

奥山様

栄光イレブン会のブログ幹事を引き受けてくださりありがとうございます。
「お気に入り」に登録して、時々ページを開けて楽しんでいます。
ところで同好会のお誘いの件ですが、囲碁をやる方はいませんか。

小山民樹君(5段格)にはお世話になりましたが不肖の私を強くしてやろう
という吾(碁)人がいれば鎌倉から大船、横浜の沿線で囲碁会を設営します
ので探してください。私は背伸びしても初段が精々です。

では来年もよろしくお願いします。どうぞ良いお年をお迎えください。

        2011/12/25  花川*泰雄

  囲碁同好会に参加される方は花川君に直接ご連絡ください。

 

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NPO法人安心院いやしの里訪問記(9月12日)(Hanakawa_Yasuo)

2011年09月29日 | 灰野・畑田・花川

安心院いやしの里は、五島列島出身の中村フミヨさんの立ち上げたNPO法人でボランティアによる精神的弱者の支援を主体とした生活共同体として、より多くの人々の受け入れを目指している。宇佐市安心院萱籠(かやごもり)は、すぐ隣に由布岳をひかえ源氏ホタルの生息する清流と豊かな温泉に恵まれた大自然の中にある。
 元気回復プランの利用者は年間50人程度とまだ世間に知られてはいないが、教会関係者、修道者の黙想や巡礼の場として活用されている。看護婦や介護士の経験に加えて、自宅での学生受け入れから始まった学生寮では32年間にわたって毎年100名を超える学生の支援を続けるだけでなく、病者やトラブルを抱えた人々も受入れ多くの人を癒してこられた。中村さんのお世話になった学生が、今はバリバリの社会人として全国で活躍している。
 中村さんは学生や病者の面倒を見ながら、大自然の中で悩みを抱える中高年、あるいは高齢者の健康回復にも夢をはせ、ご主人の資産も含めて私財を投げ打ち10年前小倉市から安心院に新天地を開かれた。中村さんが取得した萱籠の3万坪の敷地はトラピスト修道院に無償譲渡され、現在はその中でいやしの里の事業が営まれているのである。
 NPO法人になって5年になるが、グループ会社である「未来いやしの水」社で扱う水事業が、ようやく 軌道に乗りかけてきたところである。商品名は「美心水」というが、特徴はルルドの水と同じで、水の中でも分極率ゼロ(イオン化しない水で「ゼロウォーター」という)の水ということである。ナトリウムやカリウムなどのミネラル成分をバランスよく含み、硬度は26、pH7.1の軟水に分類される。
またゼロウォーターは、細菌やウイルスが繁殖しないため、「美心水」は全国でも2か所しかないという、保健所から非加熱処理によるビン詰めが認められている天然水である。
写真は、中村フミヨさんと創設以来のスタッフで理事の田上さんである。
宿泊施設も視察したが6畳和室(5室)で温泉場がついており、少人数での合宿、黙想には最適と思われる。また広大な敷地内にはルルドのマリア像と岩屋も配しており、緑の山麓のマリア像はフランスのルルドをほうふつさせる岩屋となっている。中村さんとスタッフのご奮闘を祈念するとともに安心院いやしの里が多くの信徒に知られ、協賛する人が増えることを強く願った訪問であった。

                     (花川*泰雄)

(注)「美心水」については、下記のHP をご参照ください。
 http://bijinsui.com/  Tel&Fax:0978-48-2147

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近況報告(Hanakawa_Yasuo)

2011年09月29日 | 灰野・畑田・花川


「昨年3月に名古屋商科大学を定年退職し、後期から東京工科大学の大学院でファイナンス演習を担当しましたが、
これも今年の3月で終了し、今はあるエレベータ会社の独立社外役員(5年目)を勤める傍ら、
教会関係の縁で日本共助組合本部事務局長(事務所は藤沢カトリック教会内)を
週2日、ボランティア・ベースで務めています。
また、NPO法人エイプロイスの証券カウンセラー(講師)として月に1-2回、
証券会館や県内の学習センターで講演しています。

鎌倉に転居したのは2年前ですが、囲碁もテニスも歩ける先で出来るので、
毎週楽しむようにしています。

今回の訪問記は、貸出先であるNPO法人の事業支援のため実査した際の報告です。
「水」の品質は良いので何とか事業を軌道に乗せたいと思っています。
どうぞまずはお試し下さい。」

詳細は「NPO法人安心院いやしの里訪問記(9月12日)」をご覧ください。

次は今井君にお願いいたします。
                          

 研究室前にて

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