思い出のタイカントリー
足掛け十年以上を過ごしたバンコックのゴルフ場で思い出のコースを一つ上 言われれば、迷わず、タイカントリーをあげるだろう。ここで述べるタイカントリーは、1996年にワールドカップ開催のために建設され、ホンダクラシックでタイガーウッドが優勝したあの名門コースではない。これが建設される前に、同じ場所にあった初代タイカントリーの話である。
1980年代、バンコックに乗り込んだ若輩者が休日に伸び伸びと、周りを気にせずに棒振りを楽しめるゴルフ場はここしかなかった。市街地より四〇分ほどの手ごろな距離で、ゴルフフィーがバンコック周辺相場のほぼ半分。いつ行っても待たされることはなかったと言うより、プレーヤーをほとんど見かけない。
車でアウトの一番ティーの手前まで乗り付けて、ゴルフシューズに履きかえ始めると、何処で見張っていたのか、肩にかけていた農作業の籠をはずし、鍬をうっちゃって、箕の傘をかぶった裸足の男達が走り寄ってくる。先に着いた田吾作おじさんに銭を渡しグリンフィーをクラブハウスに払いに行かせ、ストレッチしながら待っている。ティケットを手にして戻ってきたキャディーにバックを背負わせ、おもむろに一打目を打ち出していく。
ここからのコースの記述は正確さを欠くかもしれないが、名門ゴルフコースの高級絨毯のような緑の芝生の下深くに埋められ、もうそこに存在しないコースなので検証は不能。一度だけ新しいコースでプレーをしたことがあったが、昔の景色をいくら頭に描きなおしても宇宙遊泳の感があり、最後まで昔の残像のかけらすら見つけることが出来なかった。
懐かしのタイカントリーは距離がたっぷりあり、ドックレッグは少なく、旗を遠くに見ながら打ちつないで行った。何年も通っていたがメンテナンスをする作業員を見た記憶がなく、本物の天然コースである。フェアウエーは雨季には、田んぼをならしたのではと思えるほど水はけが悪く、キャディーの目、いや、土地の農民の目ですら、泥にめり込むとロストの可能性も高く、見えていてもしっかりヒットしなければ距離は出ない。
南の国でプレーを楽しまれた方はお馴染みでしょうが、3ホールごとに茶屋が待ち受けており喉の渇きを癒してくれる。茶屋ごとにビールを飲み続けていくと、喉がからからとなり途中でギブアップするはめになるので、殆どのプレーヤーは冷えた生のココナッツジュース、ソフトドリンク、甘みの冷菓を楽しんでいる。
コースから次のコースに渡る池の橋の上に設けられたナッパヤシの小屋があった。ここで味わうフルーツ入りの寒天ゼリーはかなり美味で、タイカントリーに度々訪れた理由の一つでもあった。大きなガラス瓶は蜜のような甘い液体に満たされ、サイコロ状の黒い寒天ゼリーに、何種類もの南国のフルーツのシロップ付け、甘い黒、茶色、白色の豆、他に色々と違った食感の具が混ざっており、どれもシャキッとして風味で、これ等をお玉で掬ってガラスの器に入れ、その上から荒めのカキ氷を山盛りにして目の前に出してくれる。
南国の強い日差しを浴びて喉も渇ききった極限状態になると、薄暗い小汚い小屋で、何処でどのように調理したのかというような雑念も吹き飛び、タダひたすらに出された器をひしゃげたスプーンで混ぜ合わせ、すかさず口に放り込んだ時の感触は、今、思い出しても生唾が口の中一杯に滲み出してくる。シャリシャリの氷が解ける隙間に挟まった甘いゼリー、フルーツ、豆類のハーモニーは絶妙だ。ゴルフの話の途中で、甘みの話しへ脱線してしまったが、ゴルフは芝生の上だけでのみ楽しむものではないのです。
さて、コースに戻り、前方を見つめると、30―40ヤードのところに、乗馬競技の飛越障害のような横板が張り巡らされている。蔦に絡まれた朽ちた横板にぶち当たれば、一打加算で障害の向こうから打ち続けられる。OBにボールが出ると田んぼに落ちるため、コースに沿って細い高い木立が聳え、殆どその薄い林の枝でボールは止められ、その下の排水用の溝に落ち込み、一打罰で、横から打ち続けられる。コース場に池は少なく、バンカーらしきものも覚えがない。ただ雑草が綺麗に刈られて何処までも続いていたように思う。この、雑草の先に、すこしグリーンらしきキメの細かい芝があり、今週はこちらに、来週はあちらにと、旗が移動していたように思う。これでも、結構ゴルフは楽しめるもので、毎週、土曜には、ビギナー仲間と入り浸っていた。
灼熱の太陽にあぶられて、腰もふらつきクラブハウスに戻っても、スレート屋根の下に日陰があるのみで、天井の梁にぶら下がる扇風機から送られてくる、もったりした風の気配を感じながらプラスチックの椅子に腰掛ける。奥にあるカウンターに右手を上げれば、いつものように冷えひえのクロスタービール(タイの地ビール)の大瓶に、カオパット(タイ焼き飯)が運ばれてくる。とても質素だが、至福の時間である。シャワーもあったように思うが、入ったことはない。軽い夕飯を食べれば、そのまま冷房を効かせた後部座席に転げ込み、バンコックの夕方の渋滞は、二時間ほどかと思いつつ眠りに入る。