栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (37) ”思い出のタイカントリー” (Okubo_kiyokuni)

2015年08月25日 | 大久保(清)

思い出のタイカントリー

 足掛け十年以上を過ごしたバンコックのゴルフ場で思い出のコースを一つ上 言われれば、迷わず、タイカントリーをあげるだろう。ここで述べるタイカントリーは、1996年にワールドカップ開催のために建設され、ホンダクラシックでタイガーウッドが優勝したあの名門コースではない。これが建設される前に、同じ場所にあった初代タイカントリーの話である。

 1980年代、バンコックに乗り込んだ若輩者が休日に伸び伸びと、周りを気にせずに棒振りを楽しめるゴルフ場はここしかなかった。市街地より四〇分ほどの手ごろな距離で、ゴルフフィーがバンコック周辺相場のほぼ半分。いつ行っても待たされることはなかったと言うより、プレーヤーをほとんど見かけない。

車でアウトの一番ティーの手前まで乗り付けて、ゴルフシューズに履きかえ始めると、何処で見張っていたのか、肩にかけていた農作業の籠をはずし、鍬をうっちゃって、箕の傘をかぶった裸足の男達が走り寄ってくる。先に着いた田吾作おじさんに銭を渡しグリンフィーをクラブハウスに払いに行かせ、ストレッチしながら待っている。ティケットを手にして戻ってきたキャディーにバックを背負わせ、おもむろに一打目を打ち出していく。

 ここからのコースの記述は正確さを欠くかもしれないが、名門ゴルフコースの高級絨毯のような緑の芝生の下深くに埋められ、もうそこに存在しないコースなので検証は不能。一度だけ新しいコースでプレーをしたことがあったが、昔の景色をいくら頭に描きなおしても宇宙遊泳の感があり、最後まで昔の残像のかけらすら見つけることが出来なかった。

 懐かしのタイカントリーは距離がたっぷりあり、ドックレッグは少なく、旗を遠くに見ながら打ちつないで行った。何年も通っていたがメンテナンスをする作業員を見た記憶がなく、本物の天然コースである。フェアウエーは雨季には、田んぼをならしたのではと思えるほど水はけが悪く、キャディーの目、いや、土地の農民の目ですら、泥にめり込むとロストの可能性も高く、見えていてもしっかりヒットしなければ距離は出ない。

 南の国でプレーを楽しまれた方はお馴染みでしょうが、3ホールごとに茶屋が待ち受けており喉の渇きを癒してくれる。茶屋ごとにビールを飲み続けていくと、喉がからからとなり途中でギブアップするはめになるので、殆どのプレーヤーは冷えた生のココナッツジュース、ソフトドリンク、甘みの冷菓を楽しんでいる。

コースから次のコースに渡る池の橋の上に設けられたナッパヤシの小屋があった。ここで味わうフルーツ入りの寒天ゼリーはかなり美味で、タイカントリーに度々訪れた理由の一つでもあった。大きなガラス瓶は蜜のような甘い液体に満たされ、サイコロ状の黒い寒天ゼリーに、何種類もの南国のフルーツのシロップ付け、甘い黒、茶色、白色の豆、他に色々と違った食感の具が混ざっており、どれもシャキッとして風味で、これ等をお玉で掬ってガラスの器に入れ、その上から荒めのカキ氷を山盛りにして目の前に出してくれる。

 

 南国の強い日差しを浴びて喉も渇ききった極限状態になると、薄暗い小汚い小屋で、何処でどのように調理したのかというような雑念も吹き飛び、タダひたすらに出された器をひしゃげたスプーンで混ぜ合わせ、すかさず口に放り込んだ時の感触は、今、思い出しても生唾が口の中一杯に滲み出してくる。シャリシャリの氷が解ける隙間に挟まった甘いゼリー、フルーツ、豆類のハーモニーは絶妙だ。ゴルフの話の途中で、甘みの話しへ脱線してしまったが、ゴルフは芝生の上だけでのみ楽しむものではないのです。

 

 さて、コースに戻り、前方を見つめると、30―40ヤードのところに、乗馬競技の飛越障害のような横板が張り巡らされている。蔦に絡まれた朽ちた横板にぶち当たれば、一打加算で障害の向こうから打ち続けられる。OBにボールが出ると田んぼに落ちるため、コースに沿って細い高い木立が聳え、殆どその薄い林の枝でボールは止められ、その下の排水用の溝に落ち込み、一打罰で、横から打ち続けられる。コース場に池は少なく、バンカーらしきものも覚えがない。ただ雑草が綺麗に刈られて何処までも続いていたように思う。この、雑草の先に、すこしグリーンらしきキメの細かい芝があり、今週はこちらに、来週はあちらにと、旗が移動していたように思う。これでも、結構ゴルフは楽しめるもので、毎週、土曜には、ビギナー仲間と入り浸っていた。

 

 灼熱の太陽にあぶられて、腰もふらつきクラブハウスに戻っても、スレート屋根の下に日陰があるのみで、天井の梁にぶら下がる扇風機から送られてくる、もったりした風の気配を感じながらプラスチックの椅子に腰掛ける。奥にあるカウンターに右手を上げれば、いつものように冷えひえのクロスタービール(タイの地ビール)の大瓶に、カオパット(タイ焼き飯)が運ばれてくる。とても質素だが、至福の時間である。シャワーもあったように思うが、入ったことはない。軽い夕飯を食べれば、そのまま冷房を効かせた後部座席に転げ込み、バンコックの夕方の渋滞は、二時間ほどかと思いつつ眠りに入る。

 

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きよちゃんのエッセイ (36) ”ロイカトン” (Okubo_kiyokuni)

2015年08月15日 | 大久保(清)

ロイカトン

 

ロイカトンとは、十一月(陰暦の十二月)の満月の夜に行われるタイの伝統的な行事で、灯篭を流して、河の恵みに感謝し、河を汚す人間への赦しをもらう風習である。

 待ち合わせ場所のオリエンタルホテル近くまで来たが、通りは人と車で溢れかえっている。人混みをかき分けてやっとのことでロビーに足を踏み入れた。気分を落ち着けるべく、まずは、トイレのドアを押す。大理石とマホガニーに囲まれた洗面台、化粧鏡、いつまでも座っていたいような雰囲気である。さすが世界一の評価をもらったホテルだと、個室の満足感に浸っていたが、支店長の言葉を思い出した。―会場はホテルではないよ、その先の桟橋から船に乗るのだよとー

 ロビーを通り抜けてチャオプラヤ河に面するテラスに出ていくと、河に面した桟橋には、ライトに照らされた何艘もの船が目に入る。招待券を近くに通りかかったボーイに見せる、と、端の方に碇泊している大型クルーザー船に案内される。まわりの船は屋形船のような風体であるが、これは本格的な観光船のように見える。

デッキに乗り移ると、それなりの服装の紳士淑女が、カクテルなどを啜っている。ここで、支店長の声がまた耳元で聞こえてきた。―かなり良い招待券だよ、行かないと損するよー、と。船はゆっくりと桟橋を離れ、河を下り始める。ラウンジでは、オリエンタルホテルの厨房から出向してきたと思しきコックが、サーブし始める。

 やがて、タイ舞踊が始まった。

男二人、口をポカーンとあけて、目線のやり場に困るほど近くで踊るタイ美人に見とれている。夫々、濃い緑と、金色に輝く濃い茶色のタイシルクの正装を纏い、笑みを絶やさず、足が床をするように、腰を捻りながら優雅に踊る。カクテル光線の加減で、重厚なシルクの色合いが微妙に変化する。きりっと流れる肩から指先までのしなやかな、ゆっくりとした動き。澄んだ鉦の音に合わせ、腰を落とし、すっと身体を沈めるしぐさに独特なリズムがあり、何故か仏教寺院で舞を見ているような厳粛な雰囲気を醸だす。

 涼みにデッキに出ると、行き交う観光船の明かりが黒々とした川面にゆらゆらと映り、供物を載せた灯篭が流れていくのが見える。遠くにホテルのイルミネーションが鮮やかに輝いているが、あたりは暗闇の世界である。やがて、前方から花火が上がった。少し迫力不足の感もあるが、川風に吹かれデッキから眺める花火は一味違う。

バンコックを離れて久しいが、いまだに、ロイカトンという言葉を聞くと、花火も灯篭も記憶の底に沈んでしまい、涼やかな鉦の音色に包まれたあの素晴らしいタイ舞踊が目に浮かぶ。

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きよちゃんのエッセイ (35) ”海彦さん・山彦さん” (Okubo_kiyokuni)

2015年08月09日 | 大久保(清)

海彦さん、山彦さん

 

 ギニアのコナクリに出張ですと言うと、アフリカを知る人は大変なところですねーと、同情と哀れみをもった挨拶を返してくれる。西アフリカは気候も治安もよくない。アフリカの地形を頭蓋骨に例えると後頭部に当たるギニア湾は、無風地帯、熱く、湿度も高くマラリアの蔓延する地帯である。日本を出発する時に、何本、予防注射をうっただろうか。

 ここに鉄鉱石の積出港を建設し、リベリア国境に近い鉄鉱山より千キロもの鉄道レールを敷こうというのだ。今考えて見ても壮大なプランだが、四十年前の出来事だ。夢見たいな話だが、本気で契約してしまった。こちらは、駆け出しのエンジニア、言われたとおり港の調査を進める。コナクリでの問題点は山ほどあるが、最大の難関は食べ物であった。三年の調査を予定し、一部屋をつぶしたエアコン室には、日本より船便で運び込まれた缶詰類が山と積まれ、錆び付きそうになりながら、熱さと湿気に耐えている。

 西アフリカには当時、日本のマグロ船が操業していた。彼等は今と違い、潤沢な装備で航海していたのではなく、釣った魚で生き伸びて帰国するのが一般的だったようだ。鉄道チームは海から離れた山岳地帯に展開しているために、野菜・果物は不自由せずに暮らしていた。コナクリは、野菜も肉も非常に手に入りづらい。ここで、海彦さんと山彦さんが登場する。ヘリコプターでの空輸が始まる。海チームが沖を行くマグロ船に渡りを付ける。すると、00日、XX時にヘリコプターが飛来し、山の野菜を籠に入れ海に下ろしてくる。厳密なことを言えば、密輸になるのであろうか。

 漁船は野菜の籠に魚を詰めて、ヘリのロープを引き上げさせる。物々交換である。アフリカの海で、日本人同士の涙ぐましい友情物語の始まりである。このヘリも密輸のために千キロも飛んできたのではなく、調査の途中で抜けてきた暗黙のフライトである。そのために、大量の物々交換は不可能であったが、アフリカの山の中で食べるマグロの味は、何に例えればよいのだろうか。漁船員も同じである。炎天下の海仕事の後で、南国のフルーツを味わい、新鮮な緑の野菜は美味しかろう。

  交換バザールも、日数にすればたいしたこともなく、普段は缶詰料理の連続である。色々な種類があるのに驚いたが、生卵の缶詰には仰天した。非常に便利な一品である。しかし、これも飽きるものだ。缶詰を食べ続け、肝臓を悪くした人が続出した。恐らく、マラリアの予防薬も肝臓に負担があったのであろう。こちらも、帰国して、早々にマラリアの急患で医科研に入院したが、原虫は発見できずに、代わりに黄疸症状が現れ、退院時の病名は肝炎に変わっていた。

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いずも乗艦記  (Yonezawa_Kenji)

2015年08月03日 | 米澤・渡辺(正)

 

いずも乗艦記

 

  栄光11期の皆様、昨日はとても懐かしく、話題も盛り上がりました。幹事の皆様に感謝いたします。 飲み会の一隅で話題となったお話です。

今年の6月14日に、横須賀吉倉桟橋で護衛艦「いずも」が一般公開されました。 基準排水量19,500トン、最大幅38メートル、飛行甲板248メートルで、帝国海軍の翔鶴」「瑞鶴」に匹敵する大きさです。

全般的な印象として巨大な鋼鉄の箱というイメージです。タラップから格納庫に入ると巨大な空間に驚かされます。格納庫の片隅には、大きな昇降機があり、オスプレイも運用できるそうです。

数年前に就役した「ひゅうが」「いせ」よりも、飛行甲板は50メートルも長くなっいますが、個艦防衛の兵器しか搭載されておらず、この点からも、「ひゅうが」「いせ」とは似て非なるものと推察されます。

韓国辺りでは、「いずも」は空母予定艦では、と疑われているそうですが、先の大戦時のプロペラ機を運用するわけではないので、やはり有力なヘリ空母とみるのが妥当なのでしょう。

僅か19,500トンで、戦艦ヤマトにも匹敵する大きな図体は,一体何を意味するか> それは、装甲が、薄いということで、この点からも、F35のような一線機を本格的運用することを意図していないと推察されます。

さて広大な飛行甲板に上がると、横須賀港が一望されました。傍らには、イージス艦「あしがら」や「たかなみ」「あきずき」、またかつて護衛艦隊の中核を担った「あまぎり」クラスがズラリと舳先を連ねていました。

小学校4年の昭和29年、アメリカから貸与されたばかりのリバモア級駆逐艦(1600トン)「あさかぜ」「はたかぜ」に乗艦したことを思い出し、隔世の感を>抱きました。

当時、陸側に停泊している「はたかぜ」から栄光学園がよく見えました。紺色の上着と白いトレパン姿の生徒達が運動に興じているのが印象的でした

「あの学校に入れれば好いのだが、ちょっと無理かな」と思っのもこの頃です。

 写真を添付いたします。

 

   

                          

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