栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (153) ”普段着”(Okubo_Kiyokuni)

2022年09月20日 | 大久保(清)

普段着

世俗の価値を底上げしていた背広という鎧を脱ぎ捨てて、ネクタイを締めずに外出すると、なんとも首のあたりが落ち着かず、スース―と風が抜けてゆくような心もとなさを体感していたが、やがて、シンプルで実用的なポロシャツにチノパン姿が馴染んでゆく。気持ちも自然と開放され、地に足をつけたような心地よい感触をあじわい始める。

また、洒落たジャケットを着てみようかと思った時期もあったが、会社関連のお付き合いも少なくなるにつれ、夜の外出着を身に着ける機会がなくなった。まだ幾着かはナフタリンをポケットに一杯詰め込まれたまま洋服ダンスには吊るされているはずだが、やがて廃品処分される運命だろう。だが、ここで忘れてはならないことがある。好みの一着だけはこの世の最後の身だしなみとして、残しておかねばならない。箱に収まる時のために。

久しぶりに上着の袖を通すと、まるで衣紋かけを背負ったような違和感を覚え、帰宅すると、首筋から肩にかけての筋肉がこわばっている。肩が軽さを覚えてしまったのだろう、同期会などのパーティーでは、まだ見栄を張り無理をして、よそ行きで出席するが、この舞台衣装もあと数年もてば上等かもしれない。やがて、手元に残る外出着は礼服のみになるはずだ。勿論、ネクタイは黒だけで十分。

洋服事情と同じで、歳と共に、履物も自然淘汰されてゆく。冠婚葬祭用の黒い革靴は下駄箱に保管されているものの、最近は、散歩とよそ行きの区別がなくなり、普段履きの靴は己の崩れゆく足型にやさしく寄り添うように変形を続け、踵の外側がすり減り、何度も底を張り足しているうちに、そろそろどうですかと、修理屋の主人と目が会うたびに会釈される事態になってきた。

履きなれた靴、我が身の輪郭にプレスされたチノパンとポロシャツは着るたびに愛着が深まり、先の短い仲間意識が芽生え、なかなか手放せない。この類に靴下も入るし、下着も加わる。迷惑をこうむるのは継ぎあて作業を強いられる家人である。はぎれの山からそれなりの色を選び終えると、目を細め、何度も糸をなめてから針を通し、懸命に繕い作業を繰り返す。体を締め付ける感覚を嫌い、何事もゆるめを好む体質になってきたので、新品のパンツのゴムは家人に一度切断してもらい、わざわざ継ぎだして、太り気味に腹回りに合わせ、ほどよいゆるめの古着感覚を楽しませてもらう。

 

今のところ、パジャマから普段着に着替えてから朝食のテーブルについている。いずれ、昼夜兼用の一枚の普段着で過ごすことになるのだろう。代わり映えしない洗いざらしのTシャツだが、外出用の服を身につけて歩けるうちが華なのだ、と気を引き締めて、今朝も、いつもの靴紐を結ぶ。

コメント
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