バリ島の水先人(パイロット)
白いキャップに白い半ズボン、真っ黒に日焼けした小柄の男が“ガラム”の甘いタバコのにおいを漂わせながら作業室に入ってきた。バリ島ベノア港の水先人である。将来、大型客船を入港させるべくこれから彼の案内でバリ島の航路状況を見学することになっている。
岸壁に係留された貨物船の甲板には丸太が山積みされ、その陰からボロをまとった集団が隠れるようにこちらを窺っている。離島に働きに行く労働者たちだろうか。その横を通り抜けブリッジへの階段を昇ると、船長らしき髭面の男が待ち受けていた。前方にある回転窓の付いた窓からの視界は思いのほか狭く、薄暗い部屋の中には船の速度を制御するレバーや操舵輪らしきものが並んでいる。
窓に近づいたパイロットは、慣れた手つきで窓の傍にあったウイスキーの小瓶をとるや、小さなグラスに注ぎ込み、グッと一気に呷った、気付けの一杯だろうか。予想外の動きに見とれているうちに、エンジン音が高まってきた。やがて、船尾に白い渦が湧き上がり、舷側に海水をけり出すようにゆっくりと船は岸壁を離れてゆく。
バリ島の航路はサンゴ礁の間をジグザグに折れ曲がるように続く難航路である。スキーの大回転の要領で航路のブイの間を右回頭(右に船首を向ける)、左回頭を繰り返えしながら進んでゆかねばならない。航路の形状は海図に示されてはいるものの、船がどのあたりを通過しているのか肉眼では見当がつかず、視野の中に入ってくる赤や緑のブイが右や左に横切ってゆく、その様子を目で追っていたが、傍に立つパイロットの目が一段ときつくなってきたのに気がついた。
グラスの底にほんの少し残っていたウイスキーを口に放り込むと、矢継ぎ早に指令を出し始めた。操舵手がすかさず復唱しては操舵輪を回す。横で見ていると、まるで雲の中に迷い込んだ感じに近いが、パイロットの目には、はっきりと海底のサンゴ礁が映し出され、船底がそこを抜けていく影が見えているのだろう。スピードを緩めず、すべるようにジグザグ操船を繰り返す緊張の時間が続いた。20分ほど経過しただろうか。無事に難航路を抜けきったらしい、操舵手への指示も少なくなり彼の目元が少し和んできたように見える。
なんだか、こちらも難しい手術に立ち会っていたような気分で、ほっと一息つきながら横に目をやると、いつの間に近づいてきたのか、パイロット・ボートが白波をけたてて懸命に並走していた。この小さなボートに飛び移らなければ港には戻れないのだとの、恐怖心が一瞬顔に出てしまったのだろうか、ニヤニヤしながら、乗り移るよ、とパイロットが合図をしてきた。着地する所は畳半分もない。両船の沈み込む間合いをからだに叩き込み、気合を入れて本船の縄梯子から飛び降りたが、腰をとられよろけてしまった。荒天時、この機敏な動きができるか否かでパイロットの引退時が決まるらしい。確かにそうだと納得する。
ブリッジからの見学を通して分かってきたが、航路改善のポイントは幅と深さは勿論だが、どうやらブイの配置らしい。曲がりが多く、潮流も早く、机上の作図では役に立ちそうもない。試案を抱えて色々と教えを請いに行かねばと思っている、勿論、彼の好みのウイスキーを、二、三本、手土産にして。だが、将来の不安も少しある。豪華客船のブリッジで、いつもの一杯で止めれるだろうか?