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栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

趣味をつなげる。(Yamada_Hiroshi)

2012年06月08日 | 柳原・山田・吉川

 山田*博

表題の「趣味をつなげる」は、城巡りの旅という趣味をコアにして色々な趣味をそれにつなげて立体的的(ちよっとオーバーかな?)に趣味を楽しもうと言うことです。そうはいってもどういうことかと思われるでしょうから、仙台城(青葉城)へ行った時のことでご説明しましょう。

  ○城巡り + 読書  

  前回の「城巡りの旅」でも触れましたが、私は読書(多い時には10冊位の本を並行して読むので読書というより乱読と言ったほうが正しいかも)が好きで色々な知識が断片的に頭の中につまっています。 仙台市街や仙台湾が一望できる小高い山の上にある仙台城の一の丸へ行ったときには、伊達政宗を偲んで少年使節はこの湾から旅立ったのかなと感慨にふけりました。 

 ○城巡り +俳句 + 読書 

  仙台城からちょっと離れたところにある瑞巌寺(伊達家の菩提寺)を訪れた時一句ひねりました。

   政宗が 二の矢つがえし 秋の寺

・ 二の矢 

敵を弓矢で倒そうという時、最初の矢(一の矢)で倒せなかった場合に備えて用意しておくのが二の矢です。ウイリアム・テルのリンゴの話を思い出してください。悪代官に息子の頭に乗せたリンゴを射るように命じられたテルはみごと一の矢でリンゴを射落としますが、その直後に悪代官に腰のベルトに差した矢を見咎められ、もし失敗した場合にはこの矢で悪代官を射殺すつもりだったと答えます。これが二の矢です。ただし、この句では実際に政宗が矢をつがえたのではなく「二の矢」=「詰の城」を想定しています。 

・ 詰の城  

本城に立て籠もったが落城してしまった場合に備えて近くに最後にたてこもる為の城を造っておくことがよくあります。この城が詰の城です。例えば、武田信玄は甲斐の国内に城を造らなかったことで有名ですが、実際は居館の躑躅が崎館の近くの山の上に要害城という詰の城を造っていました。政宗もこの瑞巌寺という寺を詰の城にしようとしたという伝説があります。したがってこの句では「政宗が二の矢つがえし」は政宗が瑞巌寺を詰の城にしようとしたという故事を意味しています。最後に「秋の寺」では本当は「瑞巌寺」にしたかったのですが、そうすると季語がなくなってしまうので仕方なく「秋の寺」にしました。政宗にゆかりの寺といえば瑞巌寺と判ってもらえるだろうと考えた末です。

このように俳句は五七五の短い語数に季語を盛り込まなくてはならず(季語のない俳句もありますが)、奥の細道を踏破して新しい趣味として俳句を修行中(?)の太田君が一人前になるのに10年かかると言われたのも、むべなるかなと思います。

偉そうなことを言いましたが、私のこの句はあまりに捻りすぎた「駄作」で人前に出せるものではないのですが「趣味をつなげる」を説明するのに好都合なので敢えて公表(?)した次第です。

 ○ 城巡り +カラオケ 

私は歌を歌うのが大好きでカラオケのレパートリィもあらゆるジャンル(GS・ポップス・フオーク・演歌・アニメ・童謡・民謡・ムード歌謡etc)を網羅しているので、その城にちなんだ歌が自然に出てきます。仙台城(青葉城)では「青葉城恋唄」を、瑞巌寺では宮城県民謡の「斎太郎節」を口ずさみながら見て回りました。甲府に行った時には「武田節」ですし、三橋美智也の「古城」などはどの城にも当てはまりますのでしょっちゅう口ずさんでいます。 

以上で「趣味をつなげる」の意味が判っていただけたと思いますが、最後に先日四国の城巡りで訪れた松山城での「城巡り+俳句+読書」のパターンをお話ししましょう。

松山城を訪れた際、正岡子規の句を彫ったこんな石碑を見かけました。

   松山や 秋より高き 天守閣

自分の句ではないので以下は私の想像です。

第二句の「秋より高き」がわかりにくいと思いますが、ここでは「天高く馬肥ゆる秋」を思い出してください。「秋より高き」を「天より高き」に置き換えれば意味が通じると思います。晴れわたった秋の空に聳え立つ松山城の天守閣の情景がありありと脳裡に浮かんでくるでしょう。それなら最初から「天より」と詠めばいいとお思いでしょうが、ここが俳句の辛い(?)ところでそうすると季語がなくなってしまうので、一ひねりして「秋より」と詠んだわけです。 

私は感情をストレートに表現できる和歌と違って、俳句は言葉をこねくり回した「言葉の遊び」と考えていますが、この句でそれが判ると思います。さらに捻ってみると「秋」=「安芸」(広島県)で安芸の国で代表的な広島城より高い松山城の天守閣と子規がお国自慢をしているような気もします(これは考えすぎかも)。広島城は平地に造られた「平城」で、小高い山の上の松山城(山城)の天守閣のほうが高いのは当たり前なのですが。

さて、子規のこの句を俳句修行中の太田君に捧げて、このいささか(かなり?)ぺダンチックで独りよがりの雑文を終わりにします。 

                                (山田 博)

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城廻の旅(Yamada_Hiroshi)

2012年05月07日 | 柳原・山田・吉川

 

私は城を見るのが好きで、平成17年頃から「城巡りの旅」と称して、北海道・東北・関東・北陸・東海と42の城や城跡を見て回りました。

私の城巡りのスタイルは、JRの新幹線と在来線を併用して(時刻表と首っ引きになります)目的の城の最寄の駅へ行き、城が駅から近ければ徒歩で、遠ければバスやタクシーを使って城まで行き、写真を撮りながら城の中を歩き回ります。

例えば、岩手県の三戸城を見に行ったときには、まず東北新幹線で八戸まで行き在来線に乗り換えて三戸まで戻り駅からタクシーで城跡まで行き、人っ子一人いない城跡を思い通りに見て回りました。この城は、南部一族の葛藤を描いてNHKの大河ドラマにもなった「炎立つ」の舞台になった城で往時を偲びながら楽しみました。よく人からそんなに城ばかり見て何が面白いのかと言われますが、私は読書が好きで時代小説も沢山読んでいるので、大抵の城はその城にまつわる武将の話が思い浮かべられるのでどこへ行っても楽しいのです。

さて、前置きが長くなりましたが、東の城を見て回りこれからは西だと言うときに肺がんを患い、もう城巡りはお終いだと思っていましたが、最近抗がん剤の投与をやめて体力の回復に努めた結果大分体力を回復しましたので、先日妻と四国の城巡りのツアーに参加しました。このツアーは一泊二日で四国の四つの城を巡る旅で昔のままの天守閣(たいていの城の天守閣は新しく復元されたものかあるいは天守閣を模した博物館なのです)が残っている12の城のうち4つを回る興味深いものです。

一日目は早朝の便で空路松山空港へ行き、そこからは観光バスでまず宇和島城へ行きました。

                   

                   

                              宇和島城にて           

   この城は九州と四国の境の豊後水道に面した小高い丘の上にあり城つくりの名人の藤堂高虎が造り、その後領主となった宇和島伊達家(伊達政宗の長男が元祖)が改築したもので天守閣のほか幾つか昔からの門が残っていました。

この後は、バスで松山に戻り伊予松山城(松山城というのは幾つかあり区別するために昔の国名の伊予が頭についています)を見物しました。この城は小高い山の上にあり(城の区分では山城になります)高い石垣が有名で体力に自信のない私は果たして天守閣まで行かれるか不安でしたが、バスが頂上付近まで行ってくれましたのでなんとかなりました。

                    

                                松山城にて

一日目はこの2つの城の見物で終わり、松山のシティホテルに早めにチェックインしたので昔懐かしい市電に乗って道後温泉へ行き、風呂に入って伊予名物の鯛飯を食べてホテルに戻りました。

二日目は、松山からバスで瀬戸内海沿いに走り讃岐の丸亀城へ行きました。この城は丸亀市(香川県)の中心部の小高い山の上にあり、興味深かったのは山頂近くにある二の丸井戸で何と深さが約65メートルもあります。何で苦労してこんな深い井戸を掘ったかというと、敵に攻められて籠城する際大事なのは食糧と水で人間は食糧がなくてもある程度の期間生きていられますが、水がないとすぐに死んでしまいます。そのためどの城でも水の確保が重要なポイントになるのです。

丸亀城を後にして、途中琴平(金比羅様)で名物の讃岐うどんの昼食をとり、四国を縦断して最後の高知城へ行きました。

高知では、横須賀にも縁の深い龍馬ブームも一段落ということで「龍馬の休日」(リョウマの休日)としゃれてお祭りをやっていました。高知城は、これもNHKの大河ドラマで名の売れた山内一豊が築いた城で日本で唯一本丸の建物群が現存していて江戸時代を偲べる城です。面白かったのは石垣の半ば位から突き出た石のとよでこれは石垣の後ろにたまった水を排水して石垣が崩れるのを防ぐためのもので、雨の多い土佐ならではの工夫が凝らされていました。

                     

                           高知城にて

高知城で城巡りを終わり、高知龍馬空港で名物の鰹の叩き定食の夕食をとり空路帰途に就きました。

今回の旅は2日とも晴天に恵まれ、城にはつきものの桜もどこも満開で最高の城巡りが楽しめました。松山へ行った時には、愛媛朝日テレビに出向中の長谷川和生君にTELしましたが残念ながら不在で会えませんでした。

最高の城巡りの中で一つだけ残念だったのは、ツァーだから仕方のないことですがどの城でもボランティアガイドがついたのが城の知識豊富な私には煩わしかったことで、次からはフリーで城巡りをしたいなと思っています。                      (山田*博)

                               

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弁護士37年(Yoshikawa_Shinpei)

2012年05月01日 | 柳原・山田・吉川

 

司法試験を受ける。

私は,昭和42年に一橋大学を出て,三菱銀行(蒲田支店)に入行しました。親友のG君は,絶対に勤まらないから辞めろと,親切に忠告をしてくれました。案の定,支店長と大喧嘩をし,私にはサラリーマンは勤まらないと自覚し,3年で辞めました。法学部(本当は山岳部です)を出ているから,司法試験を受けて,弁護士になろうと一念発起し,勉強を始めました。

猛勉強の結果,幸いなことに昭和47年秋に合格することができました。その間,栄光の同級生のS君K君A君G君らには,大変お世話になりました。

 司法修習生になる。

 司法試験に合格すると司法研修所に入所します。現在は1年ですが,当時は2年間でした。その間,実務修習と言って,1年4月程,日本各地に飛びます。私は,スキーができる,酒が美味い,魚が旨いということで,新潟市に住みました。村上の三面川の河原で,瀬波温泉の芸者さん達と,鮎酒で宴会をしたのが,一番の想い出です。当時の修習生は約500名で,一クラスが50名程度でしたので,日本各地に当時の仲間の弁護士がいます。5月は熊本で,10月は川越で,ゴルフです。

 弁護士になる。

 昭和50年4月に横浜で弁護士になりました。いわゆる,いそ弁です。ボス弁から給料を貰って居候しているから,いそ弁。当時は,いそ弁を数年続けた後に,自分で事務所を開設して独立するというのが,普通の弁護士の姿でした。そのためには,仕事を頼んでくれる顧客がいなければなりません。ここが一番,苦労するところです。栄光学園を卒業したことを,とても感謝しています。私の最初の顧客は,栄光と一橋の1年上の先輩でした。弁護士になって1年目から顧問弁護士にしてくれ,今も続いています。その後,大河原さんの会社も私を使ってくれました。本当に有り難かった。助かりました。今の私があるのは,栄光学園のお蔭だと思っています。感謝しています

 日南ひまわり基金法律事務所で弁護士をする。

 一挙に,57歳まで飛びます。平成14年8月から平成17年7月までの3年間,宮崎県日南市に移住し,日南ひまわり基金律事務所で弁護士業務に従事しました。日弁連は,弁護士過疎対策に取り組んでいます。司法改革の一貫として,市民がいつでも,どこでも,だれでも法律相談が受けられ,気軽に弁護士に依頼できるようにするため,弁護士過疎地に公設事務所を設置する事業です。会員から年間約3億円を集め,事業を推進しています。

 各都道府県には地方裁判所の本庁(例:横浜地方裁判所)があり,支部(例:小田原支部)があります。地裁の支部があっても,弁護士が一人もいない地域が,以前は,日本全国で約50ケ所ありました。例えば,北海道の紋別,岩手の宮古、石垣島など。宮崎県の日南市には宮崎地方裁判所日南支部があるのですが,約30年間弁護士不在が続き,公設事務所を設置することになり,赴任する弁護士を募集していました。人生に一度は田舎に住んでみたい,弁護士生活もあと10数年,何かやり残したことがあるのではないか,少しでも弁護士や法を知らない人の役に立てば,等々の動機で,応募し,全国で10番目の公設事務所弁護士に就任しました。

 日南支部管轄は,日南市(飫肥の城下町,鵜戸神宮,日南海岸で有名。当時は,西武ライオンズのキャンプ地の南郷町と,北郷町がありましたが,合併しました)・串間市(都井岬のある市)で,人口は約85,000人(当時)です。

 日南での弁護士生活

 業務内容は,横浜時代とは激変しました。横浜では,破産管財・交通事故の示談交渉・一般民事事件(不動産・相続など)・法律相談などが主でしたが,日南では,法律相談とサラ金被害救済が殆どでした。 3年間の相談件数は1317件(うちサラ金事件672件)。市民の65人に1人が相談に来たことになります。事件の受任件数が692件。うち,自己破産238件,サラ金借金の整理213件,個人再生32件。過払金請求(サラ金から利息の支払い過ぎを取り戻す)数知れず。国選弁護17件,当番弁護士出動(逮捕された被疑者に警察で面会)71件。過去37年間の弁護士生活の中で,これほど継続して忙しく働いたことはありませんでした。

 日南での私生活 

 幸い,家内が一緒に来てくれましたので,特に不自由はありませんでした。自宅は,日向灘や油津港(テレビの台風情報では必ず中継される港です)を望む,風光明媚な高台の一軒家。土地60坪,3LDKで家賃6万円でした。日南では,友人も知人もおりませんし,また,地方は社会が狭く,一方,弁護士業務は相手方(敵?)が出来る仕事なのでロータリークラブ等へも入会しません。従って,夜の宴会・飲み会は,殆どありませんでした。ゴルフの回数も半減しました。その分,家内と二人,九州を旅して歩きました。法律を知らないで損をしている人が大勢います。親の借金は子にも支払い義務がある,子の借金は親にも支払い義務があると思っている人が結構いました。相談で支払い義務はないと教えてあげただけで,安心して「これでぐっすり眠れる」と感謝して帰ります。

 地方は法の支配が未だ十分ではありません。争いは,大きな声を出す人,金のある人,実力行使をする人,そして子供が出世した人(地方ではこれが力の淵源となっています)が,力ずくで勝ちます。法の支配が及ばない場面が多く見られます。そこに,都会の弁護士が乗り込んで,法による解決を図る訳ですから,公設事務所弁護士は,このような人達,特に地方のボス階級にとっては,疎ましい存在となっていました。

 横浜に戻って弁護士をする。

 弁護士大増員のお蔭で,弁護士業界は仕事の奪い合いになってしまいました。そこで,宣伝させて頂きます。 現在,私の事務所は,のぞみ法律事務所と言い,関内駅近く,馬車道の交差点にあります。所属弁護士は,私を含めて7名。保土ヶ谷の出身で,武蔵・東大法卒のK弁護士(50代),横浜国大ロースクールで刑事弁護を教えています。金沢八景の出身で,緑が丘・東大法卒のM弁護士(40代),法律知識が極めて多様かつ深い。戸塚の出身で,豊田・慶応経済卒のU弁護士(30代),素晴らしい書面を書きます。青葉区出身で,カリタス・早稲田文・横国ロースクール卒の女性のN弁護士(30代)。武蔵小杉出身で,麻布・一橋・同ロースクール卒のO弁護士(20代)。白楽出身で,翠嵐・早稲田法・神大ロースクール卒のT弁護士(20代)。この3名は,これからの人達です。

 私が現在扱っている事件

 交通事故の示談や訴訟が多数。保険金詐欺事件。会社や個人の自己破産の申立て。多数離婚訴訟や調停。遺産分割調停や審判。遺留分減殺の調停や訴訟。いずれも複数。敷金返還訴訟。学校内事故の損害賠償請求訴訟。不動産仲介手数料請求訴訟。労災事故訴訟と示談交渉。解雇無効事件。貸金請求訴訟。建物明け渡し請求訴訟。請負代金請求訴訟。過払金請求訴訟。専門家責任を追及する訴訟。預金請求訴訟。売買代金返還訴訟。等々。その他,法律相談,契約書の作成・チェックなどをしています。 

 尚,他に,K弁護士やM弁護士らは,独自に多数の事件を担当しています。

                      (吉川*晋平)

7日間のツール・ド・モンブランのトレッキングを終えて(モンブランをバックに)

 

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近況報告(Yanagihara_Akira)

2012年01月14日 | 柳原・山田・吉川

 

 下田君から、近況報告のバトンタッチを受けました。皆さんと同じように大学卒業時の話からスタートしたいと思います。私は法学部ですが、法曹界に進む気は全くなく、公務員試験を受けました。自治省(現総務省)を選んだのは、霞が関だけでなく地方の現場で仕事ができるのに、魅力を感じたからです。

最初の赴任地は秋田県、独身寮で大いに飲みかつ遊びました。入省6年目に奈良県の課長に出て4年過ごし、その後大蔵省の主計局に出向しました。課長補佐暮らし6年で、京都市から新しく要請がきたので行けということになりました。

 

その直前まで同和問題を担当していたので、白羽の矢が立ったのでしょう。ところが赴任するとすぐに、有名社寺の拝観者に課税する古都保存協力税を創設する話が具体化し、それから4年間悪戦苦闘の日々が続きました。市民も議会も最初は諸手を挙げて賛成でしたが、一部の社寺の強硬な反対(話すときりがないので別の機会にします。)に遭遇し、清水寺、金閣、銀閣等有力社寺が拝観停止に入る大騒動になりました。

 

そうこうするうち4年経ち次の同和対策の法改正の時期になり、また、本省へ戻れということになりました。おかげで交渉に出席した回数は延べ百回を超え、相当打たれ強くなりました

 

同対法の改正作業が終わる間もなく、国鉄解体で新たにできた清算事業団に用地処分のため出向しました。周囲は新幹線等を建設してきた優秀な技術屋さんばかりです。ぶらぶらしている内に、都心の一等地の更地売却が土地バブルの元凶という世論が強まり、別の手法を考えることになり、出番になりました。今では不動産の証券化等様々な手法が可能ですが、当時は全くありませんでした。そんな中で我が国の不動産の金融資産化の走りのような仕事をしました。次が広島県の総務部長を2年、最後の地方勤務になりました。

 

 50歳で退官し第2の人生。現在小さなカード会社の社長をしていますが、7度目のポストです。(たぶん最後のお勤めでしょう。) その間で印象に残るのは、地方公務員共済組合連合会の理事を5年、水資源機構の理事4年です、いずれも制度の転換期で、忙しいが楽しく仕事をしました。 

  

 

 仕事の話はそのぐらいにして、50歳頃から山歩きを始めました。最初の数年は関東周辺中心に歩いていましたが、そのうち何か目標をきめようという気持ちになり、3千メートル以上の峰なら全国で21座で、富士山を除けば南・北アルプスに集中しているので、目標にしました。一昨年前穂高に登り目標達成です。これからは、花や紅葉の美しい山にターゲットを絞る予定です。海外もスイスは何回か行きましたし、カナディアン・ロッキーやヨセミテもまた行きたいと思います。しかし、登山はいずれは行けなくなります。ウォーキングの方が長続きしそうなので、一昨年太田君・奥山君と西伊豆を23日で歩きました。その後三浦アルプス(意外と大変)も行っています。これから皆さん時間に余裕がでてくると思います。お互いに無理せず頑張りましょう。

                                   (柳原*瑛)

  

2010/3  西伊豆ウオークにて

 

     

右から 太田・柳原・奥山

  ◆ 小さい写真はクリックすると大きな表示になります。

 次は牧野文勝君にお願いいたします。

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近況報告(Yamada_Hroshi)

2011年09月08日 | 柳原・山田・吉川


ブログの第1回の投稿者に指名された山田博です。

私は3月に体調を崩して精密検査を受けたところ肺がんと診断され、
平均余命一年半の告知を受けました。そんなに早く死んでたまるか、
精神力で生き抜くぞと決意し、それ以来抗がん剤の治療を受けながら
がんばっています。幸い抗がん剤の副作用もそんなにひどくないので
家にこもらず極力外出するように心がけています。
長年一人で幹事を勤めてきた栄光イレブン会(11期有志の会)は先行きを考えて奥山・関口両君に引き継いでもらいました。
先日は、イレブン会の会合で励ましのエールをいただき感激しました。
また、私も妻も歌が大好きなのでこれまでも妻と二人三脚でカラオケを通じて
交際の輪を広げてきましたが、カラオケは肺にいいので病気になってからも
交際の輪を広げ今では月に7~10回位カラオケを楽しんでおり、今月も幹事を
お願いした関口夫妻との夫婦カラオケを始め8回のカラオケ会が確定しております。
カラオケならEVERY DAY OKですので、一緒に歌ってやろうという方がいましたらぜひ
ご一報ください。
                                  (山田*博)
さて、次の投稿者ですが、太田君にお願いいたします。

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