



くりはま花の国」、「浦賀の渡し」、「走水水源の桜」 ハイク報告 * mogeの初ブログ投稿




実施日 平成27年4月1日(水)
メンバー 相澤・荒木・大久保(K)・奥山・重山・鈴木(E)・中里・水野・山口(T)・稲森



久里浜・天神社を少しすぎて、左方にNikonのビルを見て右にまがると、若い桜並木のいま咲きどきとばかり、われわれを迎えてくれた。今回のハイク 第1ポイントである「くりはま花の国」への入り口だ。



昨年の「走水水源の桜」ハイク(4/3/2014)は、今回もリーダーをつとめていただいた水野さんの手配りで「旧浦賀ドック」を、見学した。しかも、旧浦賀ドック のOBの方(水野リーダーの"碁敵")が、歴史・位置付けの説明と、あの大きな乾ドックの底に降りてまで案内してくださったので望外の大満足でした。しかし、その後は、”強雨?"のなか、桜の花も、歴史も、パスして、最終ポイント(今回と同じ)「湯楽の里」へタク シーでむかった。過去(昨年)にこだわらないとは思いつつも、今年は(も)、よさそう。と、いうことで、ブログを始めます。
[出発 13:30]
参加者9名(山口さんは「湯楽の里」へ直接)全員がそろったので、定刻1分前 29 分に、京急久里浜駅をでた。距離12km(と、招請mailには書いてあった)のハイクの始まり! 。ずいぶん長い間(卒業以来も?)、会っていない人もいて、旧交を徐々に あたためているうちに、冒頭の桜並木に至った。
[くりはま花の国 13:45]
ゲートをはいると、広場の向こうに「ポピーゾーン」がひろがっている。 まずは、記念の集合写真。子供を中心とした数家族が休憩していたので、お願いしてシャッターを押していただいた。かれらもカメラを持っていたので撮ってあげた。

写真にみえるポピー畑の先は、コスモスゾーン(秋がシーズンなので、今の季節はごく一部の春咲エリアで咲き出しているのみで、ほとんどのエリア で準備中)。ここからは、ちょっと 登り。約2名が園内の"フラワートレイン"に乗り、7名は歩いて登る。


コブシ、レンギョウ、椿(種類は知らず)、オオシマザクラなどなかなかの彩りだった。ハーブ園はパス。足湯があったのに!東の出口の直前で久里浜港や火力発電所などの眺望がよかった。

[ペリー公園 14:40]
花の国東側の出口から10分も歩くとペリー公園。ここでも記念の集合写真。シャッターは、同年配のお父さんにお願いした。こちらからも「撮りましょうか」の声をかける間もなく、去っていかれた。ありがとうございました。

[浦賀への路]
ペリー公園を出て、海岸通り。開国橋のあたりで、橋脚等に付いているのを見て、リーダーが「あの牡蠣はおいしそうだ。おいしいぞ」という。皆は、リーダーが言うのだから本当だろうとは思いつつも、「食べられるものか?獲っていいものか?」など??マークが、チラッと目に浮かぶ。リーダーに、木や浜辺の草花について質問すると、「これは浜大根」、「あれはしだれ梅の紅と白のキメラ」と教えてくれる。プロ中のプロだから、これは素直に信じる。

港湾空港技術研究所を過ぎたところで、左へ(右は横須賀刑務所・久里浜少年院)。長い川間トンネル内で登って下りる。トンネルを出でしばらくいくと本道から燈明堂があった燈明崎への分岐がある。
[浦賀燈明堂跡 平成元年復元(横須賀市西浦賀) 15:15]
菜種油で灯をともし、その光は四海里四方に達したという『燈明堂』は、1648年に徳川幕府が築造し、幕府勘定奉行所管で管理運営され、その後、浦賀奉行所管、明治になると(短期間であるが)神奈川府所管となった。費用の負担は『浦賀』的で、築造当初は幕府の負担であったが、約40年後には東浦賀の"干鰯(ほしか)問屋"が一切を負担することになった、という。なぜ"干鰯問屋"が負担するのか、負担できるのか、興味がわいてきませんか。次項の[浦賀]で簡単に触れます。

東京湾に突き出た燈明崎に立つ復元された「燈明堂」での、われわれの話題は、和紙をとおして菜種油の火の光が航路から見えるのか、レンズはともかく、江戸後期にはガラスぐらいあったのでは・・・和紙をとおすことで光の面が、芯の火の発光面積より大きいにで、燈台としては良いのではなどなかなか楽しい。

『浦賀』について]
浦賀といえば浦賀ドック。小学校のころから聞いたり、読んだりで知っていました。昨年のこのハイクでの見学で、浦賀ドックの歴史と大きさを改めて認識しました。しかし、過去何回かの素通りするような浦賀訪問時にうけた、町の構造が"ただ者ではないぞ"という感覚と、今回の燈明堂跡の説明 の『干鰯問屋』というキーワードから、自分の故郷にごく近いのに知らなかったのが恥ずかしく、かつ、残念と感じるような、浦賀の偉大な歴史を垣間見ました。にわか勉強なので、浦賀の方々には失礼のお許しをお願いいたします。またご存じの方には、何だ!と、思われることでしょうから、読み飛ばしてください。 浦賀はもともと海運と漁業の町だったのでしょう。1720年には走水と三崎の奉行を統合し浦賀奉行(徳川幕府の制度では遠国奉行)をおきまし た。ほぼ同時に下田奉行をも廃して浦賀に統合し、浦賀奉行の配下に「船番所」をおき船の出入りを監督した。この管轄下にあり、船番所の活動(江戸を出入りする全船の荷改め)を助けた(実質は担った:商売を認可するから手伝えということでしょうか?)のが「廻船問屋」です。認可廻船問屋は 東・西浦賀と下田で100軒あったそうです。『干鰯』は魚肥です。綿花(→衣料)と菜種(→灯油・食用油?)という当時は代替が難しい作物に適した肥料で、即効性があり需要が高かったよう です。

干鰯1俵が米4俵に相当したともあります。干鰯は浦賀独自のもの(生産・消費とも)ではなく全国的商品であったようです。それにもかかわらず、江戸時代にはいると、東浦賀の干鰯問屋は15軒から、30軒(株:認可ベース)になる。江戸も、浦賀に対抗して干鰯問屋の株仲間を認可させるほどの、浦賀の干鰯問屋は繁盛だったとあります。浦賀の干鰯問屋の繁盛は、海運の便(制度も大いに関係しそうです)と、干鰯問屋・廻船問屋相手の金融業(東浦賀に24軒あったという)の存在が 影響しあっていると考えています。房総や東北、江戸後期からは松前あたりからも買い付け西国へ卸すといった大規模な商売だったとあります。これで、上記の『東浦賀の"干鰯問屋"が一切を負担した』と『浦賀は"ただ者ではないぞ"感』の片鱗を垣間見ることができたような気になりました。ハイクの報告に戻りましょう。
[浦賀の渡し 16:00]
燈明堂跡から湾沿いに歩いて、途中同期のSさんの家に皆でゾロゾロと寄り、茶菓をご馳走になった。ありがとうございました。お手数をかけまし た。

浦賀の渡しは、合図のボタンをおすと来てくれる。150円。今回は西浦賀から乗船するので、西叶神社を背にして東叶神社の方向に往く。

下船して、東叶神社・東林寺はパス。東耀稲荷の脇を通って鴨居港までの登って下る路をひたすら歩く。12kmはもうとっくに超したのではと、思いつつ風景を楽しんであるく。

[県立観音崎公園・戦没船員の碑 17:00]
街の表示に「鴨居」があらわれると下りになる。6・700mで鴨居港。港から1km弱でリーダーが、かって、めんどう見ていた県立観音崎公園への入り口。けっこうきつい山道階段をえんえん上がって、戦争で亡くなった『戦没船員の碑』につき、しばし、沈黙。戦争で亡くなった民間船員6万余人の慰霊 と平和を願って建てられた慰霊碑で、天皇陛下をはじめ皇室の方々も慰霊に訪れている。

ここで、走水水源の桜の一般公開時間午後5時をすぎたのですが、その時は、メンバの多くは認識しません(したくない)でした。
[走水水源の桜 17:44]
慰霊碑からは、観音崎公園の尾根路を、たまにリーダーの説明をききつつ20分ぐらいで、防大の手前あたりから走水の海岸方向に丘を下りました。16号線までくだると、水源の桜はすぐ。4月1日の日入りは18時ごろ。 日没どきの品のいいあかるさのなか、歩きながら満開の桜を楽しみまし た。一般公開時間外で、フェンスの中には入ら(れ)ず、16号からなので、桜花の高いところと目の高さがおなじぐらいなので、首が疲れず、いいお 花見でした。

[横須賀溫泉『湯楽(ゆら)の里』 18:00]
昨年は浦賀ドックから、タクシーで直行した『湯楽の里』。今回は5時間以上歩いて到着。ここから合流された山口さんを長い間待たせました。10名になって、まずは約40分の溫泉タイム。それから、たのしいごくろうさん会。58年前からの仲間と、約20km(12kmではなく)の歩きをたっぷりたのしみ、溫泉とビール。いい1日でした。 リーダーをはじめ、幹事をひきうけてくださったみなさまに感謝です。ありがとうございました。報告者個人としては、足も遅いうえに興味本位で目にする案内図や看板等を見たりで遅れがちになるのを、心配しフォローしてくださった中里さんに感謝しています。



(写真:奧山)
[おわりに]
11期の1部のかたがたに モゲラ と呼ばれていました。大学では、この呼称は引き継がれなかったと思っていましたが、学生会館の部室で下級生が不穏当な張り紙をしたのを注意した日の日誌に「モゲラ先輩に『こんなものは、すぐ、モゲ!』といわれました」と書いてあった。 当時、これはおもしろい、なにかにつかえないかと思いつつ50年、ここでのネットワーク・ネームとして "moge" と名告ることにしました。よろしくお願いいたします。
以上
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