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栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

故宮沢克秀さんのお別れ会報告(Imai_Yoshinori)

2016年12月19日 | 相澤・有賀・稲森・今井

 皆さま

 本日、川崎市津田山の斎場で11期宮沢克秀君の「お別れの会」がしめやかに営まれま したので、ご報告します。お別れの会には親族、友人等約100人が参列し、祭壇は栄光学園同窓会と11期有志の供花を含む一面の生花で飾られました。その前方、中央に宮沢君の柩が安置され、その周りを囲むように参列者用椅子が配置されました。

は、宮沢君の東大弓術部の仲間による献奏や友人による別れの言葉(栄光同期は私)な1時間半にわたって執り行われました。2009年秋にワシントンの自宅で倒れられてら7年間、懸命に介護に努められたふみ子夫人のご苦労をいたわる言葉が心に響きました。11期からは吉川君、灰野君が参列されました。

 同期会、同窓会のには会員への連絡、供花の手配などで大変お世話になりました。 ころから御礼申し上げます。

 まもなく新年を迎えますが、皆様にとって素晴らしい一年になることを心からお祈り申し上げます。

   今井義典 拝


くりはま花の国・浦賀の渡し・走水水源の桜ハイク報告(Inamori_koichi)

2015年04月12日 | 相澤・有賀・稲森・今井

 くりはま花の国」、「浦賀の渡し」、「走水水源の桜」 ハイク報告   * mogeの初ブログ投稿

実施日    平成27年4月1日(水)

メンバー    相澤・荒木・大久保(K)・奥山・重山・鈴木(E)・中里・水野・山口(T)・稲森 

久里浜・天神社を少しすぎて、左方にNikonのビルを見て右にまがると、若い桜並木のいま咲きどきとばかり、われわれを迎えてくれた。今回のハイク 第1ポイントである「くりはま花の国」への入り口だ。

 

 昨年の「走水水源の桜」ハイク(4/3/2014)は、今回もリーダーをつとめていただいた水野さんの手配りで「旧浦賀ドック」を、見学した。しかも、旧浦賀ドック のOBの方(水野リーダーの"碁敵")が、歴史・位置付けの説明と、あの大きな乾ドックの底に降りてまで案内してくださったので望外の大満足でした。しかし、その後は、”強雨?"のなか、桜の花も、歴史も、パスして、最終ポイント(今回と同じ)「湯楽の里」へタク シーでむかった。過去(昨年)にこだわらないとは思いつつも、今年は(も)、よさそう。と、いうことで、ブログを始めます。

  [出発        13:30]

参加者9名(山口さんは「湯楽の里」へ直接)全員がそろったので、定刻1分前 29 分に、京急久里浜駅をでた。距離12km(と、招請mailには書いてあった)のハイクの始まり! 。ずいぶん長い間(卒業以来も?)、会っていない人もいて、旧交を徐々に あたためているうちに、冒頭の桜並木に至った。

 [くりはま花の国    13:45]

  ゲートをはいると、広場の向こうに「ポピーゾーン」がひろがっている。 まずは、記念の集合写真。子供を中心とした数家族が休憩していたので、お願いしてシャッターを押していただいた。かれらもカメラを持っていたので撮ってあげた。 

写真にみえるポピー畑の先は、コスモスゾーン(秋がシーズンなので、今の季節はごく一部の春咲エリアで咲き出しているのみで、ほとんどのエリア で準備中)。ここからは、ちょっと 登り。約2名が園内の"フラワートレイン"に乗り、7名は歩いて登る。

 

コブシ、レンギョウ、椿(種類は知らず)、オオシマザクラなどなかなかの彩りだった。ハーブ園はパス。足湯があったのに!東の出口の直前で久里浜港や火力発電所などの眺望がよかった。

 

 [ペリー公園    14:40]

花の国東側の出口から10分も歩くとペリー公園。ここでも記念の集合写真。シャッターは、同年配のお父さんにお願いした。こちらからも「撮りましょうか」の声をかける間もなく、去っていかれた。ありがとうございました

  

[浦賀への路]

ペリー公園を出て、海岸通り。開国橋のあたりで、橋脚等に付いているのを見て、リーダーが「あの牡蠣はおいしそうだ。おいしいぞ」という。皆は、リーダーが言うのだから本当だろうとは思いつつも、「食べられるものか?獲っていいものか?」など??マークが、チラッと目に浮かぶ。リーダーに、木や浜辺の草花について質問すると、「これは浜大根」、「あれはしだれ梅の紅と白のキメラ」と教えてくれる。プロ中のプロだから、これは素直に信じる。

 

港湾空港技術研究所を過ぎたところで、左へ(右は横須賀刑務所・久里浜少年院)。長い川間トンネル内で登って下りる。トンネルを出でしばらくいくと本道から燈明堂があった燈明崎への分岐がある。

 [浦賀燈明堂跡 平成元年復元(横須賀市西浦賀)    15:15]

 菜種油で灯をともし、その光は四海里四方に達したという『燈明堂』は、1648年に徳川幕府が築造し、幕府勘定奉行所管で管理運営され、その後、浦賀奉行所管、明治になると(短期間であるが)神奈川府所管となった。費用の負担は『浦賀』的で、築造当初は幕府の負担であったが、約40年後には東浦賀の"干鰯(ほしか)問屋"が一切を負担することになった、という。なぜ"干鰯問屋"が負担するのか、負担できるのか、興味がわいてきませんか。次項の[浦賀]で簡単に触れます。

東京湾に突き出た燈明崎に立つ復元された「燈明堂」での、われわれの話題は、和紙をとおして菜種油の火の光が航路から見えるのか、レンズはともかく、江戸後期にはガラスぐらいあったのでは・・・和紙をとおすことで光の面が、芯の火の発光面積より大きいにで、燈台としては良いのではなどなかなか楽しい。

 

 浦賀』について]

浦賀といえば浦賀ドック。小学校のころから聞いたり、読んだりで知っていました。昨年のこのハイクでの見学で、浦賀ドックの歴史と大きさを改めて認識しました。しかし、過去何回かの素通りするような浦賀訪問時にうけた、町の構造が"ただ者ではないぞ"という感覚と、今回の燈明堂跡の説明 の『干鰯問屋』というキーワードから、自分の故郷にごく近いのに知らなかったのが恥ずかしく、かつ、残念と感じるような、浦賀の偉大な歴史を垣間見ました。にわか勉強なので、浦賀の方々には失礼のお許しをお願いいたします。またご存じの方には、何だ!と、思われることでしょうから、読み飛ばしてください。 浦賀はもともと海運と漁業の町だったのでしょう。1720年には走水と三崎の奉行を統合し浦賀奉行(徳川幕府の制度では遠国奉行)をおきまし た。ほぼ同時に下田奉行をも廃して浦賀に統合し、浦賀奉行の配下に「船番所」をおき船の出入りを監督した。この管轄下にあり、船番所の活動(江戸を出入りする全船の荷改め)を助けた(実質は担った:商売を認可するから手伝えということでしょうか?)のが「廻船問屋」です。認可廻船問屋は 東・西浦賀と下田で100軒あったそうです。『干鰯』は魚肥です。綿花(→衣料)と菜種(→灯油・食用油?)という当時は代替が難しい作物に適した肥料で、即効性があり需要が高かったよう です。

干鰯1俵が米4俵に相当したともあります。干鰯は浦賀独自のもの(生産・消費とも)ではなく全国的商品であったようです。それにもかかわらず、江戸時代にはいると、東浦賀の干鰯問屋は15軒から、30軒(株:認可ベース)になる。江戸も、浦賀に対抗して干鰯問屋の株仲間を認可させるほどの、浦賀の干鰯問屋は繁盛だったとあります。浦賀の干鰯問屋の繁盛は、海運の便(制度も大いに関係しそうです)と、干鰯問屋・廻船問屋相手の金融業(東浦賀に24軒あったという)の存在が 影響しあっていると考えています。房総や東北、江戸後期からは松前あたりからも買い付け西国へ卸すといった大規模な商売だったとあります。これで、上記の『東浦賀の"干鰯問屋"が一切を負担した』と『浦賀は"ただ者ではないぞ"感』の片鱗を垣間見ることができたような気になりました。ハイクの報告に戻りましょう。

 [浦賀の渡し    16:00]

 燈明堂跡から湾沿いに歩いて、途中同期のSさんの家に皆でゾロゾロと寄り、茶菓をご馳走になった。ありがとうございました。お手数をかけまし た。

浦賀の渡しは、合図のボタンをおすと来てくれる。150円。今回は西浦賀から乗船するので、西叶神社を背にして東叶神社の方向に往く。

下船して、東叶神社・東林寺はパス。東耀稲荷の脇を通って鴨居港までの登って下る路をひたすら歩く。12kmはもうとっくに超したのではと、思いつつ風景を楽しんであるく。

 

 [県立観音崎公園・戦没船員の碑    17:00]

 街の表示に「鴨居」があらわれると下りになる。6・700mで鴨居港。港から1km弱でリーダーが、かって、めんどう見ていた県立観音崎公園への入り口。けっこうきつい山道階段をえんえん上がって、戦争で亡くなった『戦没船員の碑』につき、しばし、沈黙。戦争で亡くなった民間船員6万余人の慰霊 と平和を願って建てられた慰霊碑で、天皇陛下をはじめ皇室の方々も慰霊に訪れている。

 

ここで、走水水源の桜の一般公開時間午後5時をすぎたのですが、その時は、メンバの多くは認識しません(したくない)でした。

 [走水水源の桜    17:44]

 慰霊碑からは、観音崎公園の尾根路を、たまにリーダーの説明をききつつ20分ぐらいで、防大の手前あたりから走水の海岸方向に丘を下りました。16号線までくだると、水源の桜はすぐ。4月1日の日入りは18時ごろ。 日没どきの品のいいあかるさのなか、歩きながら満開の桜を楽しみまし た。一般公開時間外で、フェンスの中には入ら(れ)ず、16号からなので、桜花の高いところと目の高さがおなじぐらいなので、首が疲れず、いいお 花見でした。

 [横須賀溫泉『湯楽(ゆら)の里』    18:00]

  昨年は浦賀ドックから、タクシーで直行した『湯楽の里』。今回は5時間以上歩いて到着。ここから合流された山口さんを長い間待たせました。10名になって、まずは約40分の溫泉タイム。それから、たのしいごくろうさん会。58年前からの仲間と、約20km(12kmではなく)の歩きをたっぷりたのしみ、溫泉とビール。いい1日でした。 リーダーをはじめ、幹事をひきうけてくださったみなさまに感謝です。ありがとうございました。報告者個人としては、足も遅いうえに興味本位で目にする案内図や看板等を見たりで遅れがちになるのを、心配しフォローしてくださった中里さんに感謝しています。

 

 

                                                             (写真:奧山)              

[おわりに]

 11期の1部のかたがたに モゲラ と呼ばれていました。大学では、この呼称は引き継がれなかったと思っていましたが、学生会館の部室で下級生が不穏当な張り紙をしたのを注意した日の日誌に「モゲラ先輩に『こんなものは、すぐ、モゲ!』といわれました」と書いてあった。 当時、これはおもしろい、なにかにつかえないかと思いつつ50年、ここでのネットワーク・ネームとして "moge" と名告ることにしました。よろしくお願いいたします。

                                以上

 

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宮沢君の近況 (Imai_Yoshinori)

2013年07月22日 | 相澤・有賀・稲森・今井

栄光11期の皆さん、

  宮沢君の帰国から間もなく4週間、近況をふみ子夫人に伺ったところ、リハビリも始まり、日本での生活がまずまず順調にスタートしているようです。

  先月27日帰国した宮沢君は直ちに近くの病院で診察を受け、介護と障害について認定手続きをとって、治療とリハビリが始まりました。帰国一週間で電動ベッド、床ずれ防止のマット、室内用の車いすなど態勢が整い、週3回デイサービスでのリハビリと、週2回の在宅訪問介護を受けています。 デイサービスの全身マッサージでは、弓道で鍛えた筋肉質の身体に看護師が驚いたほどで、今後のリハビリの効果に期待できそうです。また座ったまま入ることのできるお風呂には、本人がいたく満足しているとのことです。食欲は旺盛で、好物の肉などをよく食べていること、近くの緑地の散歩やお祭りの見物にでかけること、など日常生活も安定してきています。

 奥さまは、帰国に際して経験した日本の社会と人々の温かさに非常に感謝されています。なかでも成田に着いた後、電車とバスを乗り継いで帰宅されるという大胆な取り組みをされたのですが、各駅やバスの職員の水際立った対応には、「奇跡だ」「アメリカでは考えられない」と感激していました。

 しかし間もなくアメリカからの引っ越し荷物の船便が着くこと、日本の運転免許証を 取得すること、ご自身の健康管理のこと、インターネットを使いこなすこと、など宮沢君の闘病生活を支えていく課題は容易ではありません。それでも奥さまは意気軒昂で、8月一杯滞在する長女の南生さん一家をはじめ、親戚や友人たちの心強い支え で、明るく過ごされています。

 


近況報告(Ariga_Hideki)

2012年04月19日 | 相澤・有賀・稲森・今井

   有賀*英樹

昭和43年に大学を卒業して三菱銀行に入りました。30年間勤務した内、13年近くを海外で過ごしました。全てアジア地域で、香港に(2度に亘って)5年、ジャカルタに2年、北京に2年、そして最後に上海に4年です。

 北京(1989年~1991年)では赴任してしばらくして天安門事件に遭遇しました。民主化を求めて集まった市民を軍が武力弾圧し、多くの死傷者が出た事件です。事件後、治安が悪化し内乱の恐れが発生したため、邦人に帰国勧告が出てANAの特別便で深夜に一時帰国しました。羽田に着いたのは午前3時過ぎで、空港は出迎えの家族やカメラを構えた報道陣でごった返していました。朝の某テレビ局のニュースで私が大きく写っていたらしく、親類や友人たちから無事を喜ぶ連絡をもらいました。天安門事件によって、中国は国際的な経済制裁を受ける等、一時的には痛手を蒙りましたが、その後の高度成長と発展振りを見ると、その影響は既に克服したように思えます。

最後の海外勤務は上海(1993年~1997年)で、三菱銀行が戦後初めて中国に支店を開設したのに伴い、初代支店長として赴任しました。ちょうど中国の対外開放政策が本格的に軌道に乗り始めた時で、特に上海は、前年に小平の『これからは上海に力を入れる!』との鶴の一声によって、急激な上海ブームが起こり、各国からの投資も最高潮に達した時期に当たり、私の銀行生活で最も忙しく、且つ最もエキサイティングな4年間でした。

 支店をオープンした当初は、日本人3名、現地スタッフ12名という小さな所帯だったのが、日本から上海への企業進出が相次ぎ、それに比例して店もどんどん大きくなり、4年後に私が帰国する時には(その間、東京銀行と合併したこともありますが、)人数は100人以上に膨れ上がっていました。20年たった現在、行員数は千数百人を擁する世界でも最大級の支店になっています。初期のころ三菱で採用した現地行員も何人か残っていて、(もちろん皆偉くなっていますが、)私が出張で上海に行ったりすると当時の仲間が集まって同窓会(というより“戦友会”)を開いてくれるのは嬉しい限りです。

 53歳で銀行を辞めてからは、二度目のお勤め先として東京産業(株)という三菱重工関連の機械専門商社に10年間お世話になりました。ここでも日本国内のビジネスの伸びが期待できないことから中国市場に活路を開くことになったものの、社内に中国経験のある人が誰もいないため、私が中心になって上海に現法を立ち上げて、なんとか中国ビジネスを軌道に乗せることが出来ました。

その後、現在は三度目のお勤め先として、同期の大河原毅君が代表をしている(株)ジェーシー・コムサと、もう1社(エンジニアリング会社)に顧問として週3日ほど勤務しています。ここでも事情は同じで、国内は少子高齢化と景気低迷によって市場拡大余力は乏しく、先行きの成長性が期待できないことから、中国市場の開拓を目指すこととなり、目下、助っ人として新規事業の開発に携わっております。なんにしても、この歳になって中国での経験を仕事の面でまだまだ活かせることが出来るのはありがたいことです。

 仕事以外のことについても少し触れておきますと、「横浜黒船研究会」という歴史研究会で、横浜の歴史をさまざまな角度から掘り起こす活動をしています。数年前にこの会の発表会で、かつて上海で見聞きした私の経験を基に、横浜・上海両都市の「開港」の捉え方の違いについて講演をしたことがありました。

内容は、『横浜と上海はともに19世紀中ごろ外圧によって港を開いた点で共通しているが、その後、一方は半植民地化し、一方は主権を保持しつつ近代化を推進し強国になった。いったい何が両都市の運命を分けたのか? 日本はなぜ植民地にならずにすんだのか?』といったものですが、これが意外に大きな反響を呼び、たまたま翌年(2009年)、横浜が開港150周年を迎えるに当たって、会としてなにかイベントを行いたいと考えていましたので、私の話しを下敷きにして、『横浜開港の世界史的意義 -なぜ植民地化を免れたか?』とのテーマにより記念シンポジウムを行うことになりました。半年の準備を経て、2009年5月に、開港記念事業にふさわしく横浜市開港記念会館において、400名近くの参加者を得て熱気あふれる雰囲気の中、横浜市大の元学長加藤祐三氏の基調講演を皮切りに、横浜開港150周年の記念シンポジウムが開催され、私もパネリストの一人として参加しました。おかげさまでこのシンポジウムは、開港150周年に真にふさわしい文化イベントとして横浜市や、地元の新聞・テレビで高い評価を受けることが出来ました。11期の友人の方たちにも何人か出席していただけたのは大変ありがたく嬉しいことでした。

 中国での延べ10年以上に亘る駐在勤務は、中国ビジネスの難しさを痛感させられただけでなく、絶えず神経を使うことが多く、また家族とも離れての単身生活が長かったため、本当に心身共に疲れましたが、そのおかげで、このように銀行を辞めた後も、仕事の面のみならず、趣味の面でも、中国での経験を活かすことによって、まだ多少なりとも人の、そして社会のお役に立っていると実感できることは何よりと思っています。

次は、吉川晋平君にお願いしたいと思います。

 

2009年横浜開港150周年記念シンポジウムにて檀上右端が有賀君

 

 


近況報告 - 闘病記 -(Aizawa_Masahiro)

2012年04月07日 | 相澤・有賀・稲森・今井

  相澤*雅博

 2010年3月1日に内腸骨動脈瘤の切除手術を受けてから丸2年、ようやく生き抜けたと感じるこの頃です。一部の方には年賀状などで報告しましたが、改めて当時の手帳をめくりながら振り返ってみると結構いろいろあった2年間でした。

 ホームドクターの指示で2010年1月8日に自宅近くの病院でCT検査を受け15日に右側に53mm、左側に26mmの内腸骨動脈瘤が見つかった。内腸骨動脈は直径10mm程度なので即手術が必要な大きさ。その病院では手術設備がないため横浜労災病院を紹介されたが、手術例20件程度と少ないので、手術例300件以上と日本一の治療実績を誇る川崎幸病院の大動脈センターに変更してもらい、23日に同センターの山本晋医師(TVの医療番組に登場する有名な医師)の診察を受けた。

診察の結果、手術時間30分、入院1週間の簡単な手術と診断され、あらうれしや早く時限爆弾を取り除いてもらいたいと期待していたところ、3日後に山本医師から携帯に電話。曰く検討の結果動脈瘤が非常に難しい位置にあるため同病院では手に負えない、東京医大病院の重松教授への紹介状を自宅に郵送するから診てもらいなさいと告げられてしまった。

1月30日に重松教授(日本血管学会会長)に受診し、2月25日入院、3月1日手術と決まった。26日に執刀医の駒井講師から手術説明を受け成功率99.2%と聞き安心する。いよいよ3月1日、手術開始13時の予定が遅れに遅れ手術室に入ったのは16時、全身麻酔で本人は眠ったまま手術が終わったのは翌2日の午前2時、10時間の大手術だった。終了間際の1時間は右足に血栓が出来てしまったためそれを掻き出す作業だったとのこと。午前2時に家内と娘が手術説明を受けた。

執刀医の第一声は「お助けできました。」とのこと。動脈瘤が発見されたのもラッキーで手術成功もラッキーだったと。右側の瘤は虫垂に癒着し左側の瘤は骨盤の奥底と極めて難しい手術だった。ICUで目覚めたのが午前6時、気管から呼吸パイプを抜き取るのが苦しかったが順調に回復し3日後には見舞いに来てくれた義兄と従弟とは談話室で会うほど元気だったが、10日に感染症で39度の高熱が出て再び開腹手術で膿を掻き出しまたICUへ、一般病室に戻った5日後の3月15日の教授回診日の午前9時に腹部のドレーンパイプから突然大出血し緊急手術。

手術は5時間ほどだったが麻酔が覚めたのは午後6時過ぎで救命救急センター(ER)の個室だった。2週間で3回もの開腹手術を受け食事は30日間栄養剤の点滴のみだったので、手術前66キロだった体重がみるみる減り続け55キロを割り込み、はたして退院し歩けるようになれるのかと不安だったが、1周150歩の病棟廊下を10周20週と歩き続け体力回復を図った。まだ下腹部にはドレーンパイプの穴が開いたままだったが入院60日目の4月25日に退院させてもらった。すでに桜の花は散ってしまっていたが新緑がまぶしく、やっとシャバに帰れた喜びに浸った。

 退院後下腹部の傷を消毒しながら毎日30分ほどの散歩で体力の回復に努めた。5月12日に重松教授の診察を受け帰宅後19:45頃、夕食中にドレーン孔から鮮血が噴き出た。再び動脈破裂かと119番通報、20:00救急車到着。直ちに東京医大病院に搬送を頼むが、医大側では前回のような動脈破裂なら西新宿への搬送は危険だとして近くの病院への搬送を指示。救急隊員が3か所の病院に連絡するがいずれも受け入れを断られ、結局救急車は20分後に医大病院に向け出発した。

首都高速をとばし21:00に医大病院に到着できた。血管外科の医師ほぼ全員が待っていてERに運び込まれた。幸なことに動脈からの出血ではなくドレーン孔の細い血管からの出血だったためCT検査後ERの病室に収容され絶対安静を命じられた。血管外科の一般病棟に戻ったのが1週間後、再発を恐れた医師たちはドレーン孔が完全に塞がるまで傷の消毒以外何もせずひたすらベッドに寝かせたままの状態が続いた。

再入院後30日目の6月11日に退院できたが、すっかり両膝が固まっていまだに畳に座ることができない。しかし退院後毎朝1時間、4㎞ほどの散歩を続けた結果、今ではゴルフが出来るまでに歩行力は回復した。昨年6月には3年越しの希望が叶い10泊12日間のスイス旅行に参加し、アイガーグレッチャー→クライネシャイディック→メンリッヘンのハイキングコースをアイガー、メンヒ、ユングフラウのベルニナ・オーバーランド3山の絶景と多くの高山植物を眺めながら3時間ほど歩くことが出来たのは感激であった。

 破裂する前に動脈瘤が見つかり手術が成功したのは誠に幸運で、生かされた命を大切にして行きたいと思っている。以上が我が闘病記です。動脈瘤は自覚症状もなく破裂するまで分からない厄介な病気です。小生も高血圧でもなかったのでよく見つかったと思っています。普通の健康診断では見つからないので、皆さんもCT検査を受けるようにお勧めします。腹部の瘤はエコー検査でも見つかるので、エコー検査を受ける際ひとこと動脈瘤も診てくださいと頼むとよろしいようです。

さて最近のニュースとしては高2の頃数学を教えていただいた吉野正二先生(通称カレーパン)のご次男靖彦さんが4月7日の復活の徹夜祭で洗礼を受ける予定で、小生が代父を務めることになりました。高3の時にネメシュ師から洗礼を授けていただいてから50年目に恩師の息子さんの代父になるとは。これも生き抜けたお陰と神に感謝している次第です。

 

    

   2012年1月 富山県大牧温泉


近況報告(Imai_Yoshinori)

2011年10月17日 | 相澤・有賀・稲森・今井


昭和43年に入って43年間、「生涯一記者」のつもりで仕事をしてきましたが、最後の3年間、図らずも公共放送の経営に関わって今年1月に退任しました。かつての「記者」に戻るつもりで、作った名刺の肩書は「ジャーナリスト」、外人記者クラブの登録変更も“Free Lance Journalist”にしましたが、どうも看板倒れのような気がします。

退職後、ご縁のあった京都の立命館大学で4月から教壇に立っています。学生を教えるためには、まず錆を落とし、拙い経験に肉付けしていかなければならない、それが同時に本業の「リハビリ」になると考えたからです。「三つ子の魂百まで」のはずだったのですが、この3年間、組織の改革、職員のコンプライアンスとモラール、国際展開、対外折衝、将来展望などかかわっているうちにどこかに置き忘れてしまったのか、リハビリにはまだ時間がかかります。
しかしいざ教え始めてみて、非常に大事な仕事だと気が付いたのは、次の世代を担う若者たちに世界の現実に目を向けさせ、一人一人が立ち向かう勇気をつけることです。口で言うほどやさしいことではありませんが、少しずつ手応えも感じるようになってきて、週に一度の新幹線通勤を楽しんでいます。

もう一つ、思わぬ展開がありました。6月から生まれて初めて民間企業に非常勤の監査役として籍を置くことになったのです。財務も経理もまったく知らないで何ができるのか、いまのところ「社会の常識で」という経営側のことばに甘えているばかりです。
「どこの会社か」って?JTこと「日本たばこ産業」です。たばこを吸ったのは大学入学から10年ほど、やめてからは37年、自分でも「まさか」と思いましたが、これもいろいろなご縁があって、チャレンジすることにしました。
JTは海外展開という点では日本企業の先頭集団にいますし、食品や医薬への進出による多角化にも懸命に取り組んでいます。たばこ税も政府保有株も大震災と原発事故からの復興財源に挙げられていて、グローバル化の中で大きな転換点に立ち向かおうとしています。

それにしても東日本大震災と原発事故は私の心の中で大きな重荷です。32年前、アメリカのスリーマイル島原発事故の現場で取材にあたった数少ない記者の一人として自分自身は、そしてメディアは、「安全」についていったい何をしていたのか、忸怩たる思いが残ります。

最近は内外の様々な活動にかかわる機会が増えました。強く感じるのは私たちよりも年長の世代も含めて、日本と世界の未来のために、そして何よりも次の時代を担う人たちのために、私心を捨てて取り組んでいる人たちが沢山いることです。
“Man for Others” 今も母校に脈々と流れる言葉を思い出す今日この頃です。
                        (2011/10/16)

次回の担当者には、千種忠昭君を指名します。原発問題では、自動車設計者の経験を
踏まえつつ、メディアの経営者として貴重な意見をお持ちです。
「近況報告」ではなく、原発問題で特別寄稿を依頼することもありうるかもしれませんね。
その場合の「近況報告」はニューヨーク在住の増山君にお願いしたいと思います。