栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

丹沢山小屋について(Izumi Tanaka )

2023年05月13日 | 高山・多木・田中(泉)

11期の皆様

2023/5/11のイレブン会に出席された田中(泉)君から丹沢山小屋についてのメールが来ました。このまま皆様にお知らせいたします。

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 本日はありがとうございました。

殆ど「初めまして」の雰囲気で、楽しい時間過ごしました。山小屋の件、小屋に行ったからといって、山に登る必要はありません。

目の前のタライゴヤ沢のせせらぎを聴きながら、まったりするのも一興。秦野からバスでヤビツ峠、徒歩1時間ですが、車だと横浜から約2時間。

丹沢ホームで鍵を受け取って、小屋にある日誌に記帳だけは忘れないで。卒業生の利用手引、13日の同窓会総会で紹介されますが、

すでに同窓会HPの支部等活動に掲載されていますので、添付します。お手数ですが、皆さんにお知らせして下さい。

近々、詳しい「小屋利用ガイダンス」も発表されます。二次会!と連れていかれたのがカラオケ。テキーラ一杯キュッとやって

退散しました。今後もお手柔らかに、宜しく願います。

まずは、御礼まで。

田中(泉)

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栄光山小屋 同窓生利用の手引き

     栄光学園

丹沢・札掛にある栄光山小屋。同窓生の皆さんは、学園の利用日と重ならない限り、家族・友人と共にご利用頂けます。手引に従って「ヒュッテ・ライフ」をお楽しみ下さい。

 

[利用方法の概要]

1.学園の山小屋担当者にメールまたは電話し、希望日を調整して下さい。

(現・担当者は、柳下副校長=yagishita.gi4@eiko.ed.jp)

2.学園がお送りする「利用申込書」に必要事項を記入して返信して下さい。

3.利用当日、丹沢ホームで小屋の鍵を受け取り、利用後に鍵を返却して下さい。

4.下山後に利用料金を指定口座に振り込んで下さい。

(1人1泊1200円・未就学児は無料)

[利用上の注意事項]

  • 入室後、窓を開け放って空気を入れ換えて下さい。
  • ランプは使用して構いませんが、使用後の手入れをお願いします。
  • 炊事用のLPガス、炊事用具、食器類が利用できます。
  • 上流から引き込んでいる水道水は、飲用の場合、煮沸することをお勧めします。
  • 布団は使う前に天日干しするか、シュラフ持参をお勧めします。
  • トイレットペーパーは備え付けのもの以外は使用しないで下さい。バイオトイレなので個室を使用した際には、おがくずを備え付けの棒で攪拌し、上にかぶせて下さい。
  • 薪ストーブの薪は、持参するか、周辺の枯れ木などを自主調達して下さい。
  • 小屋下の広場では、テント張り、焚き火台を使っての焚き火はOKです。

直火での焚き火や花火、キャンプファイヤーはご遠慮下さい。

9.ヤマビルに注意し、ペット同伴は避けた方が無難です。

10.車でお越しの場合、札掛橋左折・左手の「森の家駐車場」をご利用下さい。

[退出時のお願い]

  • 食糧、飲み物などの残り物、ゴミなどは全て持ち帰って下さい。
  • 薪ストーブの燃えカスは、消火を確認して、ごみ穴に捨てても構いません。
  • 使用した部屋、炊事場、トイレの清掃と、小屋内の整理整頓をお願いします。
  • 備え付けの小屋日誌に利用者全員の氏名を記入し、出来ればコメントも残して下さい。
  • LPガスの元栓閉めを確認、戸締りをして、鍵を丹沢ホームに返して下さい。

6.利用終了を学園に連絡し、その際、小屋の様子などを知らせて下さい。

 

追記:この山小屋は、開校10周年記念事業として1957年に建てられましたが、建設に尽力された故ハンス・シュトルテ神父(通称・天狗さん)や、作業に当たった教職員、生徒(6期~9期)に思いを致し、末永く大切に使って頂けたら幸いです。

 

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近況報告(Tanaka_Izumi)

2013年02月23日 | 高山・多木・田中(泉)

 

ご無沙汰しています。

田浦校舎の一番奥に30㍍近い崖があり、そこをロープ1本で下降する姿にあこがれて山岳部に入りました。当時、「山の上の第三の男」というマッターホルンを舞台にした映画が上映されており、ソバカス美人のジャネット・マンローという女優さんにすっかり参って、日の出町界隈の映画館に、下校途中の制服姿で何度か立ち寄った覚えがあります。バレていたら「訓育」ものだったでしょう。一時、アルピニストを夢見ましたが、これは端から挫折でした。

あの時代、テレビがようやく一般にも普及し始めた頃で、毎週欠かさず見ていたのが、警視庁詰めの新聞記者たちが刑事に先駆けて難事件を次々と解決してゆく「事件記者」でした。とりわけ、その親分たる警視庁キャップは、街に散った部下たちの報告を待つ間、銀座の小料理屋「ひさご」で毎晩のようにチビチビやっているのですが、相手をつとめる女将が、うりざね顔で妖艶な美女、坪内美詠子さんでした。そして、事件が煮詰まり、キャップが一言「よっし、行こう」とゴーサインを出すと、輪転機が轟音とともに回り出し、特ダネの大見出しが躍る新聞が次々と吐き出されてくるのです。その格好良さといったら・・・覚えていらっしゃる方も多いことでしょう。

・・で、私も、早稲田を出て読売新聞に入って社会部30年、その間、憧れの警視庁キャップも務めましたが、「ひさご」もなく、「美詠子ママ」もいなかったことは言うまでもありません。ロッキード事件をはじめ、警察、国税、防衛と華のない地味な仕事の日々でした。最後の4年間は巨人軍に出向、ミスターが有終の美を飾った2000年の「ミレニアムV」では、ビールに代わって初めてのシャンパンがけを演出したり、応援団の笛太鼓を止め拍手だけで応援する「球音を楽しむ日」を企画したりと面白い経験もさせてもらいました。

ラジオ局を経て、2011年夏から「悠久休暇人」です。葉山の海でシーカヤックやパドボ(スタンダップ・パドル・ボード)をしたり、昨年からは「笛吹童子」以来やりたかった尺八を始めました。「首振り3年」と言われるように「音出し」に四苦八苦です。

皆さんは、「神奈川災害ボランティアネットワーク」をご存知でしょうか?「3・11」以降、何か出来ることはないかと、いきついたのがこの団体でした。月1回のペースで東北に出かけ、瓦礫処理や農業・漁業のお手伝いをしています。被災した方々にとって一番悲しく、恐ろしいのが「忘れられる」ことだそうです。その意味で、活動自体は微々たるものですが、応援している気持ちを現地に行く形で表すだけでも、少しは意味があるのかなぁーと思っています。実は、遠野の「ドブロク」が大きな楽しみになってはいるのですが・・・。

3月24日は残念ながら出席出来ません。またの機会にお目にかかれるのを楽しみにしています。

                 

 

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3月6日、3月7日石巻に行ってきました。(Tagi_Kazuo)

2012年03月22日 | 高山・多木・田中(泉)

先日3月6,7日仙台泊で大震災後仙台、石巻に行きました。今回の目的は2つあります。仙台での在学中に撮影した写真に関係があります。

 1964年9月に青葉山から撮影した街の中心地6枚を1枚のパノラマ写真にしたものを2年前市の博物館に提供しました。それを博物館はリニューアルを機に設けた市の発展を伝えるコーナーに設置したので、それを御対面することです。

               

                 仙台市の博物館のパノラマ写真  (最上段)

震災後の仙台市の中心地は表面上は被災の跡は見かけず仙台空港周辺、津波の進行を食い止めた幹線道路も殆ど復旧しています。夜の国分町もゼネコンへの仕事も一段落したせいか盛況感は感じませんでした。

  「雄勝町」という地名は大震災後はその壊滅の報道により浸透してきましたが、以前は雄勝硯の産地として習字を嗜む人以外は無名だったと思います。

                      

                      雄勝の写真展のDM

漁業を主たる産業とし最盛期一万の人口は過疎化により4千人程に減少、平成の大合併により石巻市に編入されました。市の中心地より離れているうえに、途中に原発立地がある女川町があるため市としての一体感に乏しく大震災後は行政サービスが行き届かず、原発被害を受けています。そこを訪れたのは1963年4月下旬写真部の旅行としてですが、人生初めてホヤを食した程度の記憶しかありませんが20数枚のネガが残っていたので展示用に伸ばしました。当初は地元の人に見てもらう方法を考えましたが、気持ちを逆撫でするとの意見があり時間を置くこととし、横濱での復旧支援イベントでの写真をドッキングして昨年11月に東京でミニ写真展を行いました。  

 今回は仙台から雄勝への交通手段はまだおぼつかないので、石巻まで高速バス(所要時間1時間半程)を利用しその写真を地元への還元方法を市の教育委員会に委託しました。

 これを機に4時間かけて被災地区を歩きましたが、復興は殆ど進んでいません。がれきは撤去したとはいえ、纏めて移動しただけ。復興政策はどうどうめぐり。この時間(11日午後)テレビで放映している日和山公園から見た被災地区は原爆後の広島、空襲後の東京また埋立後の川崎の様相、正面に見える破壊を免れた市立病院が異常に映ります。復旧作業を行うべき機材は殆ど見かけない。公園内の茶店に寄っても店の人しかいない。 

                 

                     日和山からみた被災地区

                 

                      門脇地区(バックは市立病院)

                   

                     門脇地区 (バックは門脇小学校)

店の人は観光バスでツアーが多いがそのまま去ってしまう、と嘆きます。昼食後だったので味噌こんにゃくと甘酒と750円。それでも大いに感謝してくれました。 

  中心地の商店街を歩いても人影が絶えたまま。店前には再開出来たことのボランテイアへの感謝の張り紙がむなしい。このままでは店の人の気持ちがなえてしまいます。

                  

                           中心地の商店街

 こんなことを記憶に残して帰宅しました。使途が公開されず、ゼネコンへの飲み代に使われかねない義援金の替わりに直接現地に行って旨いものを食い、美味しい酒を飲んで時間があれば泊まる。何とか雄勝に行って再度海の幸を味わいたい。1年後感想です。  

                                       (多木和夫)     

           ================

 

                       

              

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近況報告 -- 医療通訳って何ですか --(Takayama_Kiyoshi)

2012年03月14日 | 高山・多木・田中(泉)

 

1 神奈川県で暮らす外国人

外国勤務・在住経験のある栄光11会の多くの皆さん、ご自分や、ご家族が外国で病気になった時はどうしておられましたか。お子さんが外国で生まれた方もいたのではないですか。そのとき、言葉が不自由でドクターやナースと話が通じなくて、心細い思いをしたのではないですか。

神奈川県でも現在外国人が約17万人暮らしています。経済活動活発のころは、30万人が県内で働いていたといわれています。日本語がわからない外国人が 病院にかかるとき、医療通訳を派遣しているのが、認定NPO「多言語社会リソースかながわ(略称MICかながわ)」です。

 2 団体の概要

MICかながわ は、神奈川県と協働で、外国人の日常の生活の安心を確保するため2002年以来、いろいろな活動をしていますが、とりわけ、医療通訳の養成・派遣に注力し、2010年度には4,034件の実績をあげました。ちなみに第2位は京都市で、約1,700件でした。現在神奈川県のシステムによっている病院が、33、MICかながわとの独自契約の医療施設が約10あり、そこからの要請に基づき派遣しています。通訳は病院の職員に準じた地位を与えられ、万が一に誤訳による医療事故が起こった場合に保険の対象になります。(幸いにも実施以来10年になりますが、事故は1回も起こっていません。強調しておきます。)

 MICには、医療通訳が現在178人登録していおり中国、スペイン、英語は足りていますが、ポルトガル、タイ、タガログ、ベトナム、カンボジア、ラオスの言語が不足しています。これらの言語で医療通訳を志す方がおられたらぜひご紹介ください。ただし、医療通訳の謝金は3時間交通費込で、3千円ですから、ボランティアとお考えください。

 3 通訳の医療レベル

 MICかながわ の課題は2つあります。最初は医療レベルの保持・強化です。医学も日進月歩です。医療の現場を理解して通訳するために研修を重視しています。年3回の全員研修の受講を義務付け、その他、言語別に勉強会を持っています。講師になってくださる医療関係者の方をご紹介ください。

 

4 団体の財政

もう一つの課題は、財政基盤の強化です。2010年度は、年間予算約33百万円でしたが、約2百万円弱の赤字になりました。今年度は大震災の影響で、会社の寄付も1件にとどまっています。私どもの団体は、発足時から国税庁の認定NPOになっております。ぜひ皆さんのご寄附や会費をお願いするとともに、ご寄附いただけそうな法人をご紹介いただけたらありがたいです

 5 私自身のこと

私事で恐縮ですが、1969年に横浜市に入りました。当時の市長は後に社会党委員長になった飛鳥田氏で、急速に進むベッドタウン化に伴う都市問題や公害問題の解決に現実的な策を次々と打ち出していました。港北ニュータウンやみなとみらい地区などは当時の発想で、次の細郷市長により実現したものです。

横浜市での最後の仕事として、北部斎場(緑区の火葬場)の建設に携わり、次に済生会と協力して、鶴見区に東部病院を作る事業に従事して現役を終えました。3月3日の集まりでは、順序が逆だな、と笑われました。

 現在、MIC事務局の手伝いを週3日、10時から15時まで、畑(東名横浜・町田インター近く)を週1日、あとはカミさんのアッシー君と読書。結構忙しく楽しんでいます。この間の11会で植栗君が言ってくれたので、つい駄文を連ねてしまいました。お許しください。そして、ありがとうございました。

                           (高山*喜良)

MICのHP http://mickanagawa.web.fc2com/

    E-mail   mickanagawa@network.email.ne.jp

 町田インター近くにある畑

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