はじめてのニューヨーク
鍵穴に鍵を差しこもうとしていると、けたたましく鳴り響く電話のベルがドアの向こうから聞こえてきた。受話器を取り上げるや、甲高い上擦った男の声が耳に飛び込んでくる。
『おー、君か、トランクの中身を確かめてごらん。わしのはやられたよ!』ニューヨークに到着し時差調整を兼ねて、街の散歩から帰ってきたばかりである。すこし前に東京本社から羽田空港までタクシーで飛ばしてきた車窓の風景がまだ頭の隅に残り、意識はまだ東京の空の下。ここはニューヨークなのだと気持を整理しようと試みるのだが、思考回路に霧がかかったままの状態がつづいていた。
こちらもダメだろう、と半ば観念しつつ、ベッドの上に置いたままのトランクのジッパーを開ける。替え下着の中に隠しておいた封筒はそのまま鎮座しており、いじった気配はない。 封筒の中のトラベラーチェックと少しのドル紙幣を確かめるが、無事である。
一安心するが、何故か妙な気持ちになってきた。部長のトランクは旅なれたビジネスマンが持つ最新鋭のサムソナイト、こちらは、家内が近くのディスカウントショップで買ってきた布地の安物のトランク、それも鍵はかかっていないのではなく、始めから鍵がついていない。
『おい、廊下で掃除の婆さんがわしらの金が盗まれた話をしているぞ、それも、盗まれた金額を喋っている、どうなっているんだ、内部の仕業だなー、間違いないよ!』
部屋に入ってくるなり息巻いているが、旅なれた部長はもう内心では観念しているようだ。はじめての海外出張者の前でどのような顔をしていいのか、少し他人事のように振舞っている。
この出張は始めから、ついていないと言うか、なんだか少しおかしい。ニューヨーク空港につき、ホテルの名前と住所を見せたが、タクシーの運転手は頭に手をおいて考え込んでしまった。
『旦那の言うバービゾンプラザって言うのは知ってやすが、住所は俺の知っているところと違うねー、どうしやす、ともかく住所のところにあるホテルに行って見ますか?』
こちらは、どっちも分からないので、取りあえず、『書いてある住所に行って』と返事するしかない。
マンハッタンに入り、その住所のところまで来ると、運転手はクスクス笑い出した。
『旦那さん、これ女性専用のホテルでっせー。名前はバービゾンホテル。どうしやすか? オカマでないと無理でっせー』と胸を膨らますまねをして、また、ゲラゲラ笑い出した。
しょうがないが、とり合えず車を降り、階段を上がり受付でホテルクーポンを見せる、
『よく間違えるのよ、あなたのホテルはセントラルパーク・ウエスト、そこに “バービゾンプラザ”はあるわよ!セントラルパーク・ウエストよ』とチャーミングな受付嬢が念を押してくれる。運転手にそのまま伝える。
『わかりやした』と指を鳴らし、勢いよく車を発進させた。やっとのことで到着したのが、盗難にあったホテルなのだ。
訪問する会社はレキシントン・アベニューにあった。ホテルより歩いていける距離である。と言うよりか、わざわざ会社に近い場所にホテルを取ったのだ、そうであれば・・・、会社の秘書がホテルの名前を間違えたのだろうかと、少しずつ頭がまわり始めてきた。ホテルで貰った地図を片手に出勤タイムの大男、大女の顔を見上げつつ、周りにそびえたつ摩天楼の頂上を確認しようと懸命に顎を突き出すようにして、目を吊り上げながら、足元のおぼつかない歩行を続けているうちに、なんとか目的の建物に辿り着く。
それから3日間、みっちりと鉄鉱石積み出しターミナルの説明を受ける。社長がソロスさんという名のイタリア系のためか、社員の国籍も多種多様。昼休みになり、上級社員食堂に案内され、ランチをご馳走になったが、わかりやすく言えば少しゴージャスなハンバーガーである。食事が終わったところで、今晩、タイムスクエアーのミュージカルでも、と提案されるが、アメリカが初めて、勿論、マンハッタンも始めて、それにミュージカルなんかちんぷんかんぷん。その雰囲気を察したのだろうか、役者の動きだけで少しは筋が追えるはずとの判断でドタバタ喜劇の上等な席を2枚ホテルに届けてくれた。役者の動きを追っているのだが、話の筋が分からない、皆が笑うところで、笑う人の顔を見ながら笑うのにも疲れ果て、二幕目が終わるや、近くのバールに移動して冷たいワインで人心地。
古いアルバムをめくりながら、摩天楼の前でポーズをとる初々しい青年の笑顔を眺めていたら、マンハッタンで繰り広げられた珍道中の場面が脳裏によみがえり、こんな時もあったよなー、と脳みそがにわかにざわつき始め不思議な気分になってきた。久しぶりに興奮し始めた頭を鎮めるべく、台所の冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出すや、そっと、のどに流し込み、ガスレンジにかかる鍋の蓋を開けてみる。今晩のおかずを確認し終わると、なぜか気持ちも落ちついて、いつもの心地よいマンネリズムの世界に戻ってゆく。