栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (43) ”中国での食事” (Okubo_kiyokuni)

2015年11月28日 | 大久保(清)

中国での食事

『皆さん、今晩食べたい料理を夫々言ってください。料理長に頼んでみます』と案内役の友好協会のYさんは少し自慢げに喋りだした。

我々、民間使節団の一行は郊外の迎賓館に先ほど到着し、大広間のソファーで寛いでいた。建物の周囲には落葉樹林が広がり、辺りは晩秋の静けさに包まれ、ゆったりとした時間が流れている。毛沢東も宿泊していたという高級な館の雰囲気に呑まれ、また思わぬ提案が飛び出し、皆、少し面食らった様子だ。

いつもあてがいぶちに慣れていた面々は本格的な料理と言われても、と少し困惑するが、連夜の中華料理にも飽き、日本で食べていた普通のメニューを列挙し始めた。『マーボ豆腐』、『芙蓉蟹』、『餃子』『海老ちり』『春巻き』『シュウマイ』―――これらの希望の品を書きとめて厨房に伝えに行ったYさんは、『 マーボ豆腐は分かったが、山東省では食べないらしい。

芙蓉蟹以外の注文は無理だそうだ』と仲介人として少々困った顔で帰ってきた。彼の気持ちを深読みすれば、日本使節団が頼むのはこんなものかと思う中国人の料理人の心を見透かす気持ち、と同時に、日本人の食べたい料理を頼みきれずに申し訳ないという日本人の顔が複雑に交叉していただろう。

 済南の迎賓館の経験を活かし、日本人の気持ちを代弁してか、Yさんは中国側と話し合ったのだろう、次の訪問地では、めずらしく街の食堂に案内された。そこで珍味といわれる熊の手が笹の葉に包んで出てきた。ゼリー状の“にこごり”のような食感で肉とは違う。非常に高価らしいが日本人には豚に真珠。本音を言えば餃子でも食べたい。この本音を後日ぶつけてみると、また、同じ店に招待された。今度は店を貸切り、最初から最後まで餃子、餃子の連続、大皿に盛られた餃子のみ。中国人にとって餃子は、庶民が小腹のすいた時の食べもの、しかも水餃子が中心で、我々の希望した焼き餃子は余り食べないらしい。

 Yさんは日本・中国の架け橋になろうと、中国側と交渉し、迎賓館の接待をアレンジし、山東省の味を堪能してもらいたかったのだろうが、料理人との会話が成立せず、急遽、熊の手のビックリ技を考えたが、またもや賛同が得られず、究極の日本人の希望する庶民の味を提供してくれた。それも、店を貸しきって、餃子だけの晩餐会を。素晴らしい対応だ。今でもこの餃子パティーは我々の語り草になっている。

 Yさんは日本人孤児で育ち、日本の大学に留学し協会の職員になった。中国人の血は流れていないが、中国の地で育ち、その考え方を自然に身に付けている。この中国と日本の二つの心が苦労の種にもなるかもしれないが、あのフレキシブルな晩餐での対応は、彼にしかできないだろう

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栄光学園・田浦時代の様子 

2015年11月20日 | 栄光学園同窓会

栄光学園田浦時代の様子

 栄光学園同窓会事務局の承認をいただきましたので、同窓会HPに掲載されていました田浦時代の様子を転載させていただきます。

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 山本洋三君(16期:栄光の先生)のー懐かしの写真館ーより

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横須賀・旧 田浦校舎

 学園の資料室から新たに、田浦校舎の旧 気象台からコの字湾まで一望している航空写真を、提供していただきました。

 

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千里の波涛   作詞 殿村 秀雄   作詞 酒井 悌
千里の波涛 寄せ散るところ
大横須賀の ひんがしに
そびゆる殿堂 おお我等が母校

真理を求め つどへる健児
永遠に変わらぬ 若き命
栄えあれと祈る おお我等が母校

栄の光 満ち充ちて
平和の使徒の 生まれよと
呼ぶ声高し おお我等が母校

若き血潮の うづまきかへる
七つの海を 乗り切りて
つとめぞ果たさん おお我等が母校

 

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田浦時代の栄光学園

栄光学園が横須賀の田浦から、大船へ移転したのは、1964(昭和39)年の夏でした。 ちょうど、ぼくが中学3年のときの夏休みで、引越作業にずいぶん駆り出されたものです。

移転直前の休みの日に、どうやらこの栄光の姿を撮影しようと思って出かけたようです。なかなか殊勝な心がけでした。京急の田浦駅から、校内の様々な建物まで、結構詳しく撮っています。 室内の写真がほとんどないのがちょっと残念。

このうち、数枚は16期の卒業アルバムに載っていますが、初公開のものも数多くあります。 カメラはたぶんニコンFです。

田浦校舎-01.jpg
京浜田浦駅です。
ぼくは京急に乗って、南太田から通っていました。

田浦校舎-02.jpg
駅を出てすぐ、国道16号線を右折。
田浦校舎-03.jpg
東芝の工場もありました。 ここを左折。
(今の国道16号線、船越一丁目交差点)

田浦校舎-04.jpg
そろそろ通学路へ。 この先を右へ。

田浦校舎-05.jpg
通学路。

田浦校舎-06.jpg
校門ではないのでしょうが、入り口。

田浦校舎-07.jpg
たぶん、海軍が使っていた門柱でしょう。 そうとう古いです。

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栄光学園は右へ、の案内標識。 左の坂をあがると田浦中。

田浦校舎-09.jpg
海(長浦湾)が見えてきました。 中学校舎が遠くに見えます。
まだまだです。 ここを左に曲がると『コの字湾』。


田浦校舎-10.jpg
通学路の右側には、ドックが。

田浦校舎-11.jpg


長浦湾は左に曲がって東京湾につながっています。
写真の左側が栄光で、対岸には捕鯨船団の基地や自衛隊がいました。
船もたくさん浮かんでいます。 授業中には、汽笛やらエンジンの音やらが聞こえてきました。

田浦校舎-12.jpg
これが正門だと思います。 この鉄の扉は、大船にも持ってこられて、
中学校庭のフェンスに使われています。
大きな建物が通称「グリーンハウス」。 教職員住宅です。
電柱の陰の子供は、どちらかの先生のお子さんでしょう。
田浦校舎-13.jpg


フィールドです。 草ぼうぼうで、年中草むしりをしていました。
ここで体育の授業やら、体育祭やらをやったわけです。
遠くに講堂・体育館が見えます。

田浦校舎-14.jpg
フィールドを回って、校舎へ向かいます。
このあたりは、若いユーカリの並木でした。

田浦校舎-15.jpg


講堂・体育館の手前から撮影。
右手奥に中学校舎。 正面奥が理科校舎と神学校。
講堂・体育館や高校校舎は左の木の陰になっています。

田浦校舎-16.jpg


手前が講堂・体育館。 その向こうが高校校舎です。
右端の正面奥、一段上がったところに、
理科校舎と神学校が重なって見えています。

田浦校舎-29.jpg


高校校舎を過ぎると、S字にのぼる小さな坂があります。
この坂の上から、講堂・体育館、高校側を見たところ。
坂を自転車で勢いよくくだって、
曲がりきれずに、そのまま海に落ちた先輩もいたとか。



田浦校舎-26.jpg

坂の反対側を見たところ。
この道路に面して、左側手前に理科校舎、その先に神学校。
右側は手前に事務棟、その先に中学校校庭。
中学校校庭の奥に聖堂がありました。
道路の右側、中学校校庭との間は見事な桜並木でした。

田浦校舎-27.jpg
理科校舎。
ウナギの寝床みたいに奥行きのある建物でした。

田浦校舎-28.jpg
理科校舎の中に、生物部室もありました。
ここは、理科校舎の脇の「庭」で、生物部の活動場でもありました。


田浦校舎-31.jpg
生物部室と思われます。
移転直前なので、もうすべて片付け済みのようです。

田浦校舎-19.jpg
理科校舎の右隣りは神学校。

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神学校前のソテツ。 海軍時代から植えられていたのでしょう。

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道路の右側、中学校校庭の奥に聖堂が見えます。
この広い校庭で、中学生が中間体操をしました。
右手に、中学校の校舎の端が見えています。

田浦校舎-24.jpg
中学校校庭から。 右が聖堂。 山の上に旧気象台。
ゆっくり祈りながら歩く、神学生や神父様の姿を、
いつも目にしたのものです。

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中学校校庭から見た神学校。
建物の右ちょっと上の山の中腹に、トーチカが見えます。
トーチカはいくつかあり、よく登って行って遊んだものです。

田浦校舎-20.jpg
中学校校舎。

田浦校舎-21.jpg
中学校校舎。
左側に事務棟があり、ふたつの建物の間にも、
もう一つ、校庭がありました。

田浦校舎-22.jpg
その校庭の端から見た中学校舎。
左奥に見えるのが聖堂です。

田浦校舎-23.jpg
事務棟。 中学校校舎と向かいあっていました。
この中に職員室もあったはず。
一度も入ったことありませんでしたけど。

田浦校舎-30.jpg
左から講堂・体育館。 高校校舎。
中学校校庭の端から撮影したものです。その

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きよちゃんのエッセイ (42) ”タンジュンプリオクの憂鬱” (Okubo_kiyokuni)

2015年11月14日 | 大久保(清)

タンジュンプリオクの憂鬱

 タンジュンプリオクと言われても誰も知らないだろう。古くオランダ統治の時代に遡る名前は、バタビア、インドネシア最大の港である。ここで仕事をしていたが、こちらの悩みは港ではなく宿舎であった。港とジャカルタ市内は車で通える通勤圏にあるのだが、朝の交通渋滞は仕事のやる気を無くさせるほどで、港近くのホテルに泊まっていた。

 仕事を終えて、ホテルに戻ってくると、エントランスホールの横に大きな立て看板が何枚も並び、ミミズが這ったような文字でなにやら宣伝していた。インド人の結婚式が今晩あるらしいよ、と運転手は意味ありげな顔でニヤニヤしながら教えてくれる。

最近、ホテルで結婚式があったが、インドネシア人のカップルは、宗教も関係するのか、ほどほどの慎ましさはあるが、インド人は違うのだろうか、と不安な気持ちになってきた。

 心配していたが思いのほか静かだ、と訝りながらもいつもの時間にベッドに入り、夢の世界に入りかけてきたころ、何かが枕元で遠慮気味に耳を打ったような気がした。だが、その気配はすぐに消えてしまう。

静けさが戻り、眠りに戻っていくが、確かに、天井の方から何かを叩くような音が聞こえてくる。何だろうと気になり始めていたところに、ダダダンーとドラムのような音がはっきりと聞こえてきた。だが、すぐに、それも止まりまた静寂にもどる。

ゴソゴソと動くかと思えば静かになり、また、ゴソゴソと動き出す、ちょうど天井裏で鼠が這いまわるときに体感する、あのイライラ感に似た状況になってきた。気まぐれな音が気になり始め、眠るどころではない。

ドラムを打ち鳴らす弱い音は、少しずつ強さを増し、ダダダンーと何回も続いていく。やがて、リズムに熱が入ってきた。少しずつテンポが上がってきた。ダダダ、ダダダ、ダダダンーと一気にドラムの音が上り詰めると、パタッと消える。上りつめては、消えるドラムの響きは、打ち寄せては返す波のように幾度も、幾度も繰り返す。20分ぐらい続いただろうか。

どうやら、終わったらしい、やっと、これで眠れるわい、と枕に頭を沈めたのと同時に、耳を劈くようなドラムの乱打が始まった。天井も共鳴し始めた。これは、まさに、鼠村の大運動会である。ドラムの打音の間のとり方は、あのマハラジャのインド映画と似ていた。結婚式のホールではドラムが止むと、参列者はおしゃべりを始め、また、ドラムが打ち始めるや、一斉に踊り狂うのではないだろうか。

インドネシアのホテルはインド系も多いが、素人目には分かりづらい。ここがジャカルタ郊外で最大のインド系ホテルと知ったが、少し遅すぎたようだ。これから、何回、大運動会が催されるのだろうか、と憂鬱な気持ちになってきた。

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中国の汚染度 (Kurokawa_Hisao)

2015年11月05日 | 黒川・小島(四)・後藤

中国の状況に詳しい黒川君からのメールをご紹介します

中国の汚染度

 10月26日、中国語のネットを見ていたら、見つかった写真2枚。
 
”中国東北部吉林省の省都、長春(旧満州新京)で、今年、暖房開始初日の様子。”

スゴイ大気汚染の状態がよく解る。 
この辺はまだ地方なので、石炭暖房が主流。 
それにしてもこの汚れようでは、あの国で生きて行くのも難行苦行!

  2015.10.26 長春

 
 
   2015.10.26 長春

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