栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

岩部晃一君を思う。(Okuyama_Iwao)

2012年04月24日 | 奥山

  もうすぐ5月7日がくる。岩部晃一君の命日だ。彼が亡くなったのは2000年5月7日、早いもので今年は13回忌になる。私と岩部君は栄光時代に同じ電車で通っていたこと、大学が同じだったがことなどから、社会へ出てからも時々連絡を取り合って一緒に飲みに行ったり、カラオケで歌ったりしていた。

 彼は、資生堂に入社した時から新横浜近くの研究所に通い、転勤もなく優雅に自動車で通勤していた。時々右手に包帯を巻いているので、その理由を聞くと「自分の肌で実験している。肌で実験する都度、給料とは別に特別の手当てが出て結構お小遣いになるんだ。」と話していた。またなかなか結婚しない彼に「美女に囲まれた生活をしているのにどうして結婚しないのだ!」と聞くと「研究所は女性が少なくて、いるのは怖い叔母さんばかり。」と言っていた。

 確か40歳の頃だと思うが、資生堂から「不老林」という育毛剤が発売された。髪の衰えが気になりだした私は、少しでも衰えを遅らせようと早速この「不老林」使ってみた。そんな折に彼と会った。彼は、前から見ると目立たないが、後頭部が薄くなり始めていた。そこで「不老林を使っているのかい?」と尋ねると「毛を生やすのは簡単だが、必要な場所だけに生やすことはかなり難しい。」というのが答だった。この答と、彼の後頭部を見て、私は「不老林」を使うのをやめた。

 土曜日か日曜日だと思うが、庭で雑草を採っていると家の中から「岩部さんから電話」の声。電話に出てみると若い女性の小さな声で「・・・・が亡くなりました。」よく聞きとれなかった。彼は当時、高齢のお母さんと二人で暮らしていたので、てっきりお母さんが亡くなったと思ってしまった。それにしても「岩部君ではなくどうして妹さんからの電話かなあ。」と思って話を続けていくうちに岩部晃一君、本人が病気で亡くなったことが分かった。

全く信じられない話だった。確か去年の12月頃に会ったときは元気だったのにと思いながらすぐに上大岡の彼の家に行った。そこには、痩せて小さくて黒くなった岩部君が眠っていた。5ケ月前とは全く違い、岩部君とはわからないような衰えた姿だった。肝臓がんだった。わずか5ケ月間でこんなに変わってしまったことが信じられなかった。「何故、もっと早く知らせてくれなかったのですか?」というと妹さんは「兄から、衰えた自分の姿を見せたくない。連絡しないでくれ。」と言われていました。お母さんは「年末から疲れた、疲れたよく言っていたが、ちょうど家を建て替えていた時期なのでこれが原因かと思っていた。」「2月頃急に体調が悪くなり病院へ行った時は、手遅れだった。」と話してくれた。そのあと、どのようにして家に帰ったか覚えていない。

 数日して岩部君の告別式が行われた。彼はカトリック信者だったが、仏式による横浜・弘明寺というお寺での葬儀だった。大勢の11期の仲間が参列した。参列者の中に医者の友人がいたので「資生堂という大きな会社だから定期健診や人間ドックがあったと思うが、こんなになるまで癌は発見できないものなのか?」と聞いてみた。答は、「CTスキャンでも癌の部位に当たらなければ発見できないことがある。」だった。

  いま、彼は京急弘明寺駅から歩いて1~2分ところに眠っている。その後、命日近くに何回か彼のお墓に花を持っていった。お墓にお線香の跡が残っているのを見ると「彼の高齢のお母さんは、まだお元気でおられる。」と思い少しほっとする。

  何度となく一緒に遊んでいながら岩部君の写真が一枚もない。かわりと言っては少しおかしいが、昨日(2012/4/22)我が家に咲いたばかりの牡丹の花の写真を掲載する。とても大きな花で、雨に打たれると花が折れそうになるので、花を支える棒だけでなく雨に当たらないように傘をさしています。

                                   (奥山*巖)

 

 

 

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近況報告(Ariga_Hideki)

2012年04月19日 | 相澤・有賀・稲森・今井

   有賀*英樹

昭和43年に大学を卒業して三菱銀行に入りました。30年間勤務した内、13年近くを海外で過ごしました。全てアジア地域で、香港に(2度に亘って)5年、ジャカルタに2年、北京に2年、そして最後に上海に4年です。

 北京(1989年~1991年)では赴任してしばらくして天安門事件に遭遇しました。民主化を求めて集まった市民を軍が武力弾圧し、多くの死傷者が出た事件です。事件後、治安が悪化し内乱の恐れが発生したため、邦人に帰国勧告が出てANAの特別便で深夜に一時帰国しました。羽田に着いたのは午前3時過ぎで、空港は出迎えの家族やカメラを構えた報道陣でごった返していました。朝の某テレビ局のニュースで私が大きく写っていたらしく、親類や友人たちから無事を喜ぶ連絡をもらいました。天安門事件によって、中国は国際的な経済制裁を受ける等、一時的には痛手を蒙りましたが、その後の高度成長と発展振りを見ると、その影響は既に克服したように思えます。

最後の海外勤務は上海(1993年~1997年)で、三菱銀行が戦後初めて中国に支店を開設したのに伴い、初代支店長として赴任しました。ちょうど中国の対外開放政策が本格的に軌道に乗り始めた時で、特に上海は、前年に小平の『これからは上海に力を入れる!』との鶴の一声によって、急激な上海ブームが起こり、各国からの投資も最高潮に達した時期に当たり、私の銀行生活で最も忙しく、且つ最もエキサイティングな4年間でした。

 支店をオープンした当初は、日本人3名、現地スタッフ12名という小さな所帯だったのが、日本から上海への企業進出が相次ぎ、それに比例して店もどんどん大きくなり、4年後に私が帰国する時には(その間、東京銀行と合併したこともありますが、)人数は100人以上に膨れ上がっていました。20年たった現在、行員数は千数百人を擁する世界でも最大級の支店になっています。初期のころ三菱で採用した現地行員も何人か残っていて、(もちろん皆偉くなっていますが、)私が出張で上海に行ったりすると当時の仲間が集まって同窓会(というより“戦友会”)を開いてくれるのは嬉しい限りです。

 53歳で銀行を辞めてからは、二度目のお勤め先として東京産業(株)という三菱重工関連の機械専門商社に10年間お世話になりました。ここでも日本国内のビジネスの伸びが期待できないことから中国市場に活路を開くことになったものの、社内に中国経験のある人が誰もいないため、私が中心になって上海に現法を立ち上げて、なんとか中国ビジネスを軌道に乗せることが出来ました。

その後、現在は三度目のお勤め先として、同期の大河原毅君が代表をしている(株)ジェーシー・コムサと、もう1社(エンジニアリング会社)に顧問として週3日ほど勤務しています。ここでも事情は同じで、国内は少子高齢化と景気低迷によって市場拡大余力は乏しく、先行きの成長性が期待できないことから、中国市場の開拓を目指すこととなり、目下、助っ人として新規事業の開発に携わっております。なんにしても、この歳になって中国での経験を仕事の面でまだまだ活かせることが出来るのはありがたいことです。

 仕事以外のことについても少し触れておきますと、「横浜黒船研究会」という歴史研究会で、横浜の歴史をさまざまな角度から掘り起こす活動をしています。数年前にこの会の発表会で、かつて上海で見聞きした私の経験を基に、横浜・上海両都市の「開港」の捉え方の違いについて講演をしたことがありました。

内容は、『横浜と上海はともに19世紀中ごろ外圧によって港を開いた点で共通しているが、その後、一方は半植民地化し、一方は主権を保持しつつ近代化を推進し強国になった。いったい何が両都市の運命を分けたのか? 日本はなぜ植民地にならずにすんだのか?』といったものですが、これが意外に大きな反響を呼び、たまたま翌年(2009年)、横浜が開港150周年を迎えるに当たって、会としてなにかイベントを行いたいと考えていましたので、私の話しを下敷きにして、『横浜開港の世界史的意義 -なぜ植民地化を免れたか?』とのテーマにより記念シンポジウムを行うことになりました。半年の準備を経て、2009年5月に、開港記念事業にふさわしく横浜市開港記念会館において、400名近くの参加者を得て熱気あふれる雰囲気の中、横浜市大の元学長加藤祐三氏の基調講演を皮切りに、横浜開港150周年の記念シンポジウムが開催され、私もパネリストの一人として参加しました。おかげさまでこのシンポジウムは、開港150周年に真にふさわしい文化イベントとして横浜市や、地元の新聞・テレビで高い評価を受けることが出来ました。11期の友人の方たちにも何人か出席していただけたのは大変ありがたく嬉しいことでした。

 中国での延べ10年以上に亘る駐在勤務は、中国ビジネスの難しさを痛感させられただけでなく、絶えず神経を使うことが多く、また家族とも離れての単身生活が長かったため、本当に心身共に疲れましたが、そのおかげで、このように銀行を辞めた後も、仕事の面のみならず、趣味の面でも、中国での経験を活かすことによって、まだ多少なりとも人の、そして社会のお役に立っていると実感できることは何よりと思っています。

次は、吉川晋平君にお願いしたいと思います。

 

2009年横浜開港150周年記念シンポジウムにて檀上右端が有賀君

 

 

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近況報告 - 闘病記 -(Aizawa_Masahiro)

2012年04月07日 | 相澤・有賀・稲森・今井

  相澤*雅博

 2010年3月1日に内腸骨動脈瘤の切除手術を受けてから丸2年、ようやく生き抜けたと感じるこの頃です。一部の方には年賀状などで報告しましたが、改めて当時の手帳をめくりながら振り返ってみると結構いろいろあった2年間でした。

 ホームドクターの指示で2010年1月8日に自宅近くの病院でCT検査を受け15日に右側に53mm、左側に26mmの内腸骨動脈瘤が見つかった。内腸骨動脈は直径10mm程度なので即手術が必要な大きさ。その病院では手術設備がないため横浜労災病院を紹介されたが、手術例20件程度と少ないので、手術例300件以上と日本一の治療実績を誇る川崎幸病院の大動脈センターに変更してもらい、23日に同センターの山本晋医師(TVの医療番組に登場する有名な医師)の診察を受けた。

診察の結果、手術時間30分、入院1週間の簡単な手術と診断され、あらうれしや早く時限爆弾を取り除いてもらいたいと期待していたところ、3日後に山本医師から携帯に電話。曰く検討の結果動脈瘤が非常に難しい位置にあるため同病院では手に負えない、東京医大病院の重松教授への紹介状を自宅に郵送するから診てもらいなさいと告げられてしまった。

1月30日に重松教授(日本血管学会会長)に受診し、2月25日入院、3月1日手術と決まった。26日に執刀医の駒井講師から手術説明を受け成功率99.2%と聞き安心する。いよいよ3月1日、手術開始13時の予定が遅れに遅れ手術室に入ったのは16時、全身麻酔で本人は眠ったまま手術が終わったのは翌2日の午前2時、10時間の大手術だった。終了間際の1時間は右足に血栓が出来てしまったためそれを掻き出す作業だったとのこと。午前2時に家内と娘が手術説明を受けた。

執刀医の第一声は「お助けできました。」とのこと。動脈瘤が発見されたのもラッキーで手術成功もラッキーだったと。右側の瘤は虫垂に癒着し左側の瘤は骨盤の奥底と極めて難しい手術だった。ICUで目覚めたのが午前6時、気管から呼吸パイプを抜き取るのが苦しかったが順調に回復し3日後には見舞いに来てくれた義兄と従弟とは談話室で会うほど元気だったが、10日に感染症で39度の高熱が出て再び開腹手術で膿を掻き出しまたICUへ、一般病室に戻った5日後の3月15日の教授回診日の午前9時に腹部のドレーンパイプから突然大出血し緊急手術。

手術は5時間ほどだったが麻酔が覚めたのは午後6時過ぎで救命救急センター(ER)の個室だった。2週間で3回もの開腹手術を受け食事は30日間栄養剤の点滴のみだったので、手術前66キロだった体重がみるみる減り続け55キロを割り込み、はたして退院し歩けるようになれるのかと不安だったが、1周150歩の病棟廊下を10周20週と歩き続け体力回復を図った。まだ下腹部にはドレーンパイプの穴が開いたままだったが入院60日目の4月25日に退院させてもらった。すでに桜の花は散ってしまっていたが新緑がまぶしく、やっとシャバに帰れた喜びに浸った。

 退院後下腹部の傷を消毒しながら毎日30分ほどの散歩で体力の回復に努めた。5月12日に重松教授の診察を受け帰宅後19:45頃、夕食中にドレーン孔から鮮血が噴き出た。再び動脈破裂かと119番通報、20:00救急車到着。直ちに東京医大病院に搬送を頼むが、医大側では前回のような動脈破裂なら西新宿への搬送は危険だとして近くの病院への搬送を指示。救急隊員が3か所の病院に連絡するがいずれも受け入れを断られ、結局救急車は20分後に医大病院に向け出発した。

首都高速をとばし21:00に医大病院に到着できた。血管外科の医師ほぼ全員が待っていてERに運び込まれた。幸なことに動脈からの出血ではなくドレーン孔の細い血管からの出血だったためCT検査後ERの病室に収容され絶対安静を命じられた。血管外科の一般病棟に戻ったのが1週間後、再発を恐れた医師たちはドレーン孔が完全に塞がるまで傷の消毒以外何もせずひたすらベッドに寝かせたままの状態が続いた。

再入院後30日目の6月11日に退院できたが、すっかり両膝が固まっていまだに畳に座ることができない。しかし退院後毎朝1時間、4㎞ほどの散歩を続けた結果、今ではゴルフが出来るまでに歩行力は回復した。昨年6月には3年越しの希望が叶い10泊12日間のスイス旅行に参加し、アイガーグレッチャー→クライネシャイディック→メンリッヘンのハイキングコースをアイガー、メンヒ、ユングフラウのベルニナ・オーバーランド3山の絶景と多くの高山植物を眺めながら3時間ほど歩くことが出来たのは感激であった。

 破裂する前に動脈瘤が見つかり手術が成功したのは誠に幸運で、生かされた命を大切にして行きたいと思っている。以上が我が闘病記です。動脈瘤は自覚症状もなく破裂するまで分からない厄介な病気です。小生も高血圧でもなかったのでよく見つかったと思っています。普通の健康診断では見つからないので、皆さんもCT検査を受けるようにお勧めします。腹部の瘤はエコー検査でも見つかるので、エコー検査を受ける際ひとこと動脈瘤も診てくださいと頼むとよろしいようです。

さて最近のニュースとしては高2の頃数学を教えていただいた吉野正二先生(通称カレーパン)のご次男靖彦さんが4月7日の復活の徹夜祭で洗礼を受ける予定で、小生が代父を務めることになりました。高3の時にネメシュ師から洗礼を授けていただいてから50年目に恩師の息子さんの代父になるとは。これも生き抜けたお陰と神に感謝している次第です。

 

    

   2012年1月 富山県大牧温泉

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近況報告(Shigeyama_Tadashi)

2012年04月01日 | 重山・下田・鈴木(穎)

 

<はじめに>

 私は1968年~2002年まで34年間ソニー特許部に在籍して寝ても覚めても「本発明は~に関するものである。」を繰り返していましたので、多くの人には全く興味のない話が多く、参考になる話はほとんど皆無であると危惧しています。あしからずご了承下さい。

 まず、私は満州ジャムスで生まれ、1歳の時に朝鮮半島を縦断して引き上げて来て伊豆長岡に4年間住み、その後、昭和24年11月から、黄金町の現在の同じ住居にずっと住んでいます。また、取り壊された旧野毛山プールから直線距離で150m位離れた場所にある「東小学校」から栄光(6年間)→早稲田電気工学科(5年間)→ソニー特許部(34年間)→信友特許事務所(5年間)→自宅勤務の技術翻訳業(フリーランス)(5年間)で栄光卒業後の49年間を過ごして現在に至っています。

私は周囲の環境に順応しようと鋭意努力してしまうタイプ?なので、栄光時代は「表裏のないまじめな?人間」を目指し、早稲田時代は「バカを賛美する野人的な?人間」を目指し、ソニー時代は「人がやらない、または、できない事にチャレンジする?人間」を目指して自分なりに尽力し、その後の特許事務所5年間とフリーランス翻訳者5年間も、とにかく、「人がやらない、または、できない事」にチャレンジしようとソニー精神の延長を心掛けて過ごしてきています。

<ソニー特許部での仕事について>

 確か38歳の頃までは、人並みに出世意欲が強くて、少しでも上位の役職になろうと尽力していましたが、出世を意識すればするほど、ほとんど心身症になってしまい、鬱病の兆候が現れたため、回復するために生活態度(考え方)を改めることにし、「最終役職は1つや2つ格下げとなっても、楽しく暮らし、なおかつ、世の中に最大限影響を与える人間を目指す」ことに方向変換しました。別の言い方をすると、極めて単純であり、経営者よりは職人の方がはるかに自分には似合っていると自覚し、特許職人に徹して金儲けして、ソニーに利益をもたらそうと考えました。

 特許業務でソニーに利益をもたらすことを強く頭に描いて仕事をしてきましたので、1990年頃からは「金取り役」に徹して、日本・韓国・US・欧州のメーカに特許侵害警告を発し続けた結果、私が特許技術職人として働いた分野で実質的に1000億円以上の純利益をソニーにもたらしたといつも誇らしげに?豪語しています(半分以上冗談です!)。上記のように「人がやらない、または、できない」方法で「金取り役」を実行することを独自の重山方式で行いたかったので、どうやったら簡単に、かつ、確実に「金を巻き上げられる」かの独創的な?システム作り開発を行い、その結果、

①ソニーが当時所有していた全20000件の特許を全て高速レビューして(20000件を自分で評価するのは一生以上かかってしまい、無理なので、全発明者毎に回覧して評価してもらい、それを信じてまとめて)、警告できる分野と評価(A,B,C,D)を発明者の言うなりにコンピュータ入力し、警告したい分野を入力すると、警告リストがコンピュータから評価(A,B,C,D)付きで、ぞろぞろと自動的にリストアップできるようにしたこと、および、

②当時のソニーではVTRとテレビ特許が主体でしたので、VTRを指定してリストを出力すると重要特許は2000件で、他社が実施している特許は300件というようなデータが得られ、テレビを指定すると重要特許は1000件で、他社が実施している特許は200件というようなリストが簡単に得られましたので、これらのリストを本にまとめて、日本・韓国・US・欧州のメーカに特許のご案内=侵害警告」を出し、警告後は「200件~300件」もあなたは侵害しているのだから「即支払ってくれ!」と涼しい顔で豪語(うそぶく?)を繰り返す「知的暴力団」を結成すれば良いというものでした。

ちなみに警告はいつも「きれいなカラー・カバー付の警告本」で、つまり、「本作り」を介して行いましたので、このプロジェクト名を「本作り=黄桜・プロジェクト」と命名し、警告本も「黄桜本」と命名しました。一番の成功例は「黄桜本」で日本の1メーカを警告したら、1~2週間後に契約させて下さいと先方のお偉いさんが挨拶にきたことで、これが最速の成功例です。

 特許も普通は地味でつまらない仕事と思わますが、一旦警告して話がまとまりますと、直ぐに10億円とか20億円の利益(純利益)を生みますので、おいしい話となり、眉間も元気に跳ね上がります。上記の最速の成功例の他にも、例えば、2000年頃に外国の1メーカと過去分だけでいくら支払うかを技術担当の私が特別に契約担当者に変身して交渉した結果、16億円を即支払うとの答えを得たときは、今までのストレスが一気に解消して、眉間も最高潮に跳ね上がり、その後2~3ヶ月間は気分爽快であったことを昨日のように覚えています。もちろん、契約締結までに時間がかかる会社もあり、4~5年後に実利を得たこともありましたが、結論的に言うと、ソニーの技術力が高くて真に良い特許が多かったおかげで、「黄桜本」を40~50冊作成して各社に警告したのですが、「黄桜・プロジェクト」は、ほとんど100%の成功率となることを実証できました。

 

<ソニー引退後の仕事について>

  特許業務は、「皆が苦手な分野」ゆえに、逆に、ありがたい仕事なのかもしれません。なぜなら、弁護士や公認会計士のようなむずかしい国家資格を何も得ていないのに、「皆が苦手な分野」がOKであるという理由だけで、ソニーを引退後も、特許事務所で5年間働け、さらにその後もフリーランスの技術翻訳者として現在に至るまで5年間も人気者翻訳者でいられるのですから。ちなみに、現在の翻訳システムにおいても、「人がやらない、または、できない」方法で翻訳を行っております。「黄桜・プロジェクト」のような良い(冗談がきつい?)命名が出来ていないのですが、①助詞を除く全単語事前変換方式②複数人(例えば3名)が朝昼晩に分けてリレーして翻訳するの①②を独創的な特徴として掲げ、なおかつ、サイゼリア方式(安くて、うまくて、速い)を真剣に目指しており、最近になって大手会社のClientsから仕事が押し寄せて来ており、一日12時間も仕事する日が多くなっています(これも半分以上冗談です)。

<おわりに>

 ほんとうに、面白くない特許中心の話で申し訳ございませんでした。栄光時代は勉学にゆとりが全く持てずに、心を許せる友人も皆無でしたし、中学時代に比較的に仲が良かった坂根俊孝君も高校1~2年の時に洗礼を受けるか否かで口喧嘩となって、私は極度のいじっぱりなので、それ以後一度も話しかけない内に、逝去されてしまって仲直りができずに残念に思っております。私はどちらかと言うとキリスト教より20歳の時に3週間寝泊りして座禅した三島龍澤寺(臨済宗:中川宋淵)の方が向いていると、何の根拠もなく、極めて勝手に自己解釈しており、栄光時代の自分が嫌いなので、栄光はいやな学校と責任転嫁し続けた時がありましたが、最近は11会等を通じて、すばらしい同窓生が数多くいて、会話がなくても、単に遠くから眺めているだけでも勉強になるエネルギッシュで若々しい同胞が数多くいらっしゃるので、今後も11会なり、全体の同窓会などを企画していただければ、今まで通り毎回参加させて頂きます。宜しくお願い致します。

                               

 

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