栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

浦賀・馬堀ハイク報告 (Mizuno_Nobuyoshi)

2014年04月08日 | 増山・松信・水野

      浦賀・馬堀ハイク報告(2014/4/3)

4月3日、実施しました。参加者は、太田、奥山、鈴木(頴)、佐野、山口(力)、黒川、重山、荒木(之)、稲森、水野の10名。

当日の天気予報は、まずは曇、そのうち午前中雨のち曇りになり> 実際はかなり強い雨でした。

まず、浦賀ドックを元従業員の案内で見学しました。

          大きな乾ドックの底まで下り説明を受け、そのあと雨の中、船台(ここで船を作り 進水する。)、潜水艦用乾ドックなどを興味深く見学しました。雨の中丁寧な説明で一同満足でした。

  

     (乾ドック)

 

   (雨の中乾ドックは下まで降りて説明して貰いました。)

雨で皆ぬれねずみでしたので、すぐ近くの鈴木(荘)宅の訪問、渡し船

 ・・・・・そして私が見せたかった走水水源地の桜もあきらめて、タクシーで「湯楽の里」へ直行し、露天風呂、泡風呂、サウナでくつろいだ後、和気あいあいの宴会でしめました。

  

   

   

  

  楽しい会で命の洗濯になった思いです。またの機会がありましたら、多数の参加をお願いします。

最後に実は私は昔から雨男でして、水野が企画すると雨というジンクスがありました。   

 

 

 

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刑務所よい所一度はおいで(Mizuno_Nobuyoshi)

2012年10月28日 | 増山・松信・水野

 

食う、寝る、ただ・・・しかし、ねえちゃんはいないし、酒・タバコはだめ 

再びフーテンの登場で眉をひそめる方もおられるでしょうが、なにしろ藤島尊師の指名で、断ったらポアされかねませんので、猛暑が収まった今投稿します。

私は、久里浜刑務所で園芸を教えています。塀の中は、シャバとは全く違う世界です。もう6年になりますが、はじめに「久里浜刑務所は軽犯罪の初犯で暴力団でない人が収容されています。」と説明されましたが、ちょうどいかにも暴力団風のものが手錠をかけられて通り過ぎ、「いや今の者は未決で未決の場合は暴力団もいる。」との説明でした。しかし、体操でランニング姿になると刺青は普通にみられ、シャバとは違う雰囲気です。横浜から来た刑務官の話ですと、「久里浜は食事がよい。」とのことで、多分外人もかなり収容されているせいかと思います。塀の中では、刑務官同士がすれちがうと大声で敬礼して挨拶をかわしますが、その声はなんと言っているかわかりません。

園芸は2時間講義、2時間実技となっています。2時間休みなしで話しますが居眠りすることもなくノートにメモをとっています。もっとも刑務官がつねに後ろで見ているので居眠りするわけにはいかないようです。規律は厳しく、服役者は帽子をとるにも刑務官の許可を得てからとります。水を飲む、トイレに行くなどもちろん許可が必要でその間も刑務間官は目を離しません。園芸を受講する人は規律違反をすると即受講停止になりますが、その内容がシャバでは考えられない理由で、支給品のハミガキのブラシを賭けの対象にした、出所する人から物を貰った、サクランボの実を食べた、など多岐にわたり、はじめ5名でスタートし六ヶ月で終了しますが、途中で脱落者がでるので5名全員が終了というケースはまれです。

外作業の実技を教えていて思うのですが、服役者は真冬でも木綿の下着、シャツ、ジャンパーと薄着で初めて冬を迎える人は、鼻水をたらしてブルブル震えていますが次の冬になると平気な顔をしています。一年鍛えられて平気になったのですが、われわれシャバのものはいかにぬくぬくと温室育ちになっているかと思います。

脱獄にはもっとも神経を配っているので、ここまでするのということがあります。竹を使ってエンドウの栽培をしたら、竹に全部割れ目をいれられ、ヒモでトンネル栽培をしたら全部きられ、背の高いトウモロコシは隠れる場所になるのでだめ、トマトのようにすぐに食べれるものもだめなどです。実技の終りの挨拶で刺青の男に「先生どうぞ気をつけておかえりください。」と言われると、暴力団の親分になったような気がします。

最近、初犯の人がへっており作業がきついとのことで、義侠心があつい11期の仲間で前科がなく、暴力団員でもない人は、塀の中にきませんか。無銭飲食程度の軽犯罪なら久里浜に入れます。私が無料で親しく園芸を教えてあげます。

 

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近況報告(Matsunobu_Hiroshi)

2012年07月05日 | 増山・松信・水野

奥山さん等のご尽力により、11期のホームページが立派に運営されていることにまずはお礼を申し上げます。

 近況報告をということで吉川晋平さんから耳打ちされた時は、ハイハイと軽い乗りで引き受けたのですが、近況報告といっても誰も興味をもってくれないしなー、などと気が進まず、原稿が遅れてしまいまずはお詫び申し上げます。 しょうがないので卒業以来のことを簡単に綴ってみます。

  吉野さんの算数が全く分からず、成績不良で高校に進めないかも知れないと親が呼び出しを食らった割には、たいしたことはないけど順調に過ごして来ました。浪人もせず慶応、朝日新聞社に入り、丁度27年半勤務しておりました。灰野さんと一緒で朝日の営業職の試験を受けたわけですが、当時夢見た有楽町の本社の玄関をくぐることなく西部本社の販売部に配属されました。西部とは大阪・関西と思っていたのですがなんと九州。縁もゆかりもない土地で、勤務は結局11年にわたり、カミサンも子供二人も九州産ということになりました。

 33歳、バブルの真っ最中に東京へ転勤。一緒に『朝風3号』に乗って西部に渡った営業の仲間は結局九州で定年を迎えたので、まずはラッキーだったのでしょう。東京の着地は宣伝部。当時有楽町から築地に本社が移転をし、鉛を使った製作工程からCPによる製作への大転換の時で、部ごと消滅という部門が出てきたわけですが、大量に出現した社内失業者(失礼)の受け皿として、仕事を作る仕事といった今では考えられない業務も経験しました。でも時はバブル。面白い企画を立てスポンサーを探せば過分な協賛金を得ることも出来、若さもあって毎晩遅くまで働き、飲んで遊んで、今振り返れば一番面白かった時代かも知れません。

  国際営業部を作るから初代部長になれとか甘言に誘われてふたを開ければ英字新聞のドメスティック販売部長とか、アエラ発行室のメンバーになったのはいいけど、仕事は発行までにウン万人の固定読者を作れとか、まあ、人並みに色々経験をさせられました。灰野さんも書いていましたが、バブルの頃は新聞配達をする学生なぞ払底し、中国に20回くらいは就学生の募集にも行って来ました。 念願かなってやっと宣伝部長になって半年、有隣堂の社長をしていた父が脳溢血で倒れ、仕方なしに朝日を退社し、給料の安い有隣堂に移って来ました。

 1994年、ちょうど50歳。既にバブルは崩壊し、それまで販売額が伸びていた出版物の売り上げが初めてマイナスに転じた記念すべき年となります。以来現在に至るまで出版物の販売額は毎年減り続け、書店の数も当時の半分以下にまで減ってしまい、銀行によれば、『出版業界は不況業種』とまで言われるようになってしまいました。 

現在68歳。このような状況下でまだ働いているわけです。アマゾンの台頭、電子書籍の急速な普及、事務用品等B2B用品のEC化、お役所に税収が不足しているがためのリバースオークション等購買方式の変更などなど、地方の一小売店としては対処できかねるような難題ばかりが毎日押し寄せています。

 幸い、結構な多角経営のせいか、従来の枠の中や業界の中では生き残れているのかなーとも思いますが、ホント生き残り競争とはよく言ったものだと思います。デジタルなんぞ分からない小生は『紙の本は決してなくならない』などと業界の呻きに合わせたことを言ってはおりますが、果たして明日はどうなることやら。

 足腰の立つうちにリタイアーしたいものです。

              

            

 

 

 

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ブログを見て思う。(Mizuno_Nobuyoshi)

2011年11月21日 | 増山・松信・水野

 ブログを見て思う、「どれもまともだ。」兄貴から「お前はフーテンの寅だ。」といわれた身としては、むしけらなどのうめきを少々吐露しなければと思い書きました。

先日山道を歩いていたら、これから冬に向かうというのに、セミの幼虫がふらついていて、訴えてきました。「私が頼りにしていた木々が急傾斜対策事業とかで全部切られてしまい汁液が吸えなくなり、腹がへってしょうがない。周りにいたミミズも、ムカデも棲家をうばわれた。古来日本人は、我々の棲家を奪う時は地鎮祭をして我々に許しを請うたものだが、最近はいきなり強行してくる。あげくのはて以前は熱を吸収した緑地が、熱を発するコンクリの壁に変わってしまう。もう冬はこせない。」

 そういえばわが町のセミの声がいささか静かになったと思いつつ、歩いていくと小川にでました。その川は三面張りでちょろちょろの流れに痩せて睡眠不足の眼をしたウナギがいました。「三面張りなのでエサとなるヨシノボリもヌマエビも棲めなくなり、カワムシもめっきりへった。また、私たちがねぐらとしていた石の下、石積の隙間がなくなってしまったので寝ることもできない。これでは産卵にはるか南の海になどとうてい行けない。」と嘆いていました。

 昔は沢山いたゲンジボタルもめっきり減ったと思いつつ更に歩いていくと、大きな川にでました。すると今度は8月というのにシコイワシのようにこぶりのアユ達が口々に文句を言ってきました。「河川改修とかで大きな石を川の両岸に押しやってしまい、流れはザラ瀬ばかりなって我々が食べるコケが十分確保できない。まともに産卵できるか心配だ。」もっともだなと思い川を下ると海にでた。恵み多い海だとほっとしていると、今度ははらぼてのカレイが思案顔でうろうろしていました。「最近は浅い海がすくなくなり、卵を産んでも子供達が育つ場所がない。もっと適当な場所を探そうかな。」と思案しているとの事。するとやはりはらぼてのハゼが「私も困っているんだ。海底で産卵用のトンネルを掘ろうとしても海底がヘドロ化しているのでトンネルが崩れてしまうので産卵ができない。」

どこにいっても愚痴を聞かされるばかりなので、フーテンの信の足はやもうえずパチンコ屋に向かうのでした。その時、フーテンの信の頭をよぎるなはなぜか釈迦の姿でした。

            

 

 

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近況報告(Masuyama_Masaharu)

2011年10月28日 | 増山・松信・水野


つい先週の土曜日、息子が高校を卒業して20年目のリユニオンから戻って、「久しぶりに同級生に会ったらずいぶんと子持ちも多くなったし、中年太りだぜみんな」と電話で話していました。 その親父である我々の世代はお互いに顔を合わせると、孫が何人になった、コレステロールが高くて・・みたいな話題が圧倒的に多くなっているんですね、最近は。

さて、近況報告のご指名が今井、千種、両君からありましたので私の越し方来歴を簡単に振り返りつつご紹介します。

68年大学を出て、理科系からの入社は少なかった三菱商事に入り、活況を呈し始めていたプラント輸出部門に配属となり、五年目にニューヨークに赴任しました。 その二年前に結婚していましたが、辞令が出た73年初めは息子が女房の腹の中でした。 あの当時はお腹の子の性別は生まれるまで判らなかったですから、赴任の手続書類の子供の性別の欄に「?」を書いて、こりゃなんだと言われたのを思い出します。

ニューヨークに五年半居て、日本に帰任が決まった78年は日中技術交流が盛んになっていた時で、東京に戻れば中国関係の仕事をすることが決まっていたので、ニューヨークを発つ前から中国語のレッスンを受け、翌年の79年は大半を上海と北京で過ごました。 公司の担当者に覚えてもらおうと思って髭を生やし、「英語を話す、髭面の変な日本人」で通っていましたが、一年過ぎた頃には中国の外貨不足が表面化して、日本に発注していた大型石化プラントが次々にキャンセルになるという情況の変化に遭遇、あっと言う間に「面壁して為すことなし」の情況になってしまいました。 

その欝々とした髭面の顔を覚えていたらしい他部門の役員からサウジでの石化事業に引っ張り込まれ、それから三年は日本とサウジを往復する日々でした。 仕事は面白かったし、良い経験をさせて貰いましたが、当時まだ組合員だった私は三年以上の出向はだめということで本社に戻ってまた鬱々としていたら、今度はニューヨークの現法の社長から「俺の業務秘書でニューヨークに来い」と言われたのが1985年夏。 息子が栄光を受験しようと四谷大塚に通っていた6年生の夏休みだったので、息子と女房はこれで中学受験はなくなる!!やったあ!と大喜びでした。 従って、二代にわたる栄光生は実現せず、息子は小学校というものを卒業しないまま大人になる羽目に陥りました。

それから26年、ずっとニューヨーク生活です。 もっとも三菱商事は1994年に日本への帰国を言い渡された時に辞めて、自分でコンサルの会社を始めましたので、独立して17年経つことになります。

独立以来、主として日本の中小企業の対米進出を手伝う仕事をやっていますが、定年は自分で決めるので、まだ現役です。 この夏もニューヨークのトレードショーに出展する複数の日本の会社を支援して展示の仕方や顧客を掘り出し方のアドバイスなどを付きっ切りでコーチしましたが、昨今の超円高の下ではかなり知恵を絞らないと目的達成が出来ないので、枯れかけた頭脳をアルコールに浸しながらやっています。 

最後に付け加えますと、当地には「ニューヨーク栄光会」というのが1970年ごろからあって今でも卒業生が1期生から46期生に渉って30人近くおりますが、その世話役を6期の村瀬さんから引き継いでやっています。 (2011年10月26日)
                               (増山*正晴)

 
2011/6/24
そして、次の近況報告は同じく米国在住で私より十倍以上波乱万丈の藤村道男君にお願いします



2010/8/23 有賀夫妻と

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