栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

12月18日(日)メサイア演奏会を開催

2011年10月31日 | ◆お知らせ・行事案内


来る12月18日(日)14時開演、栄光の聖堂でメサイアの演奏会をやります。年々盛況さを増し、一昨年は聖堂外に溢れるお客様が来てくださったため、昨年から整理券方式にしました。


約250席しかありませんが、30人程のオーケストラと80人程の
合唱で、2時間余りの演奏会です。

 整理券をご入用の方は、私にお申し付けください。無料です。
ソリストはプロを招聘しますし、聖堂は響きも良いので、
聞き応えのある演奏会になると思います。」

           (田中石城)

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本年3回目の月下美人がさきました。(Sekiguchi_Susumu)

2011年10月31日 | 鈴木(武)・関口・高野





今年3度目の月下美人です。家内がもう十年以上育てておりますが、
10月末に咲いたのは初めてです。昼間の気温が20℃前後、夜間12~3℃の状態で
よく咲いたものだと感激しております。

美人薄命、確かに一夜の花の命ですが、その命を厳しい気象環境の中で細々ながら育て
最後には可憐な花を咲かせた力には感服です。

東北大震災で壊滅的打撃を受けても、少しづつ持ち直している日本人の底力を見るようです。
10数個あったつぼみが毎日数個づつ花開いてもう三日になり7個が開きました。
まだ、6個ありますので、あと二日は楽しめそうです。
今晩も 花見酒と行きますか。
                 (関口*進)

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10月28日Forum11が開催されました。(Tanaka_Iwaki)

2011年10月30日 | 田中(石)・田村・千種


「10月28日(金)19時から日比谷のシーボニアメンズクラブにて
後藤・柳原両君の合同幹事によりForum11が開催されました。

 いつもは、持ち回りによりテーマを決めての勉強会ですが、
今回ははるばる米国から藤村道男君が一時帰国していたことと、
これまで多忙を極めていた今井義典君がようやくNHK副会長を
退任して少しは暇になったらしいとのことから、特にテーマは
設けず、それぞれに近況報告をということで推移しました。

 参加者の写真を添付します。ただし、柳原幹事が遅刻したので
写真を撮ったときに彼はいませんでした。全員が揃ってからは、
カメラマンが酔っ払ってしまい、カメラを取り出すことを失念
してしまいました。
                    (田中*石城)



(2011/10/28)



Forum11の活動に関しては、後藤典彦君または花島克彦君にお問い合わせください。

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栄光イレブン会について(Sekiguchi_Okuyama)

2011年10月29日 | 鈴木(武)・関口・高野


「栄光イレブン会」の発足は、10年以上前 蒲谷亮一君が横須賀市助役に異動してきた時に遡ります。当時三浦藤沢信用金庫に勤務していた山田博君が蒲谷君を銀行関係の方々に紹介した際、そこで出会った栄光学園11期の人達との懇親会を開催しました。この懇親会を「栄光イレブン会」と名付けたことが会の始まりです。当初は、横須賀付近に住んでいる11期の仲間を口コミで集める小さな会でしたが、開催を重ねるにつれて参加者が増え、今では会員が53名になっています。「栄光イレブン会」には、会費や会則はありません。中学・高校時代を一緒に過ごした仲間が集まり、酒を酌み交わしながら好きなことを語り合う場所で、山田博君一人で幹事を担当してきました。(山田博君談)

 本年8月25日の栄光イレブン会で山田君から「身体的理由から幹事を関口と奥山に譲る。」という説明があり、新幹事に指名された奥山から「会員相互の親睦、連絡用に、ブログを開設したい。」と提案いたしました。出席者全員の賛同が得られ現在に至っています。ブログを開設して2ケ月、いままで音信がなかった人との連絡がとれ、栄光時代の仲間の近況がわかるようになりました。徐々に運用が定着してきました。これからはもっと親しんでいただき、もっと投稿したくなるような場に、報告、伝達だけでなく意見交換ができる場に改善していきたいと思っています。

 次回の「栄光イレブン会」は来春、横浜での開催を考えています。メールでご連絡するほか、「栄光イレブン会」の会員でメールアドレスが無い方、不明な方には郵便で、その他ブログ、電話、口コミでお知らせする予定です。
これからも名簿及びメールアドレスの整理を行っていきます。
皆様のご協力とご支援をお願い申し上げます。
   
           平成23年10月
                 「栄光イレブン会」幹事   関口*進、奥山*巌

コメント (1)
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近況報告(Masuyama_Masaharu)

2011年10月28日 | 増山・松信・水野


つい先週の土曜日、息子が高校を卒業して20年目のリユニオンから戻って、「久しぶりに同級生に会ったらずいぶんと子持ちも多くなったし、中年太りだぜみんな」と電話で話していました。 その親父である我々の世代はお互いに顔を合わせると、孫が何人になった、コレステロールが高くて・・みたいな話題が圧倒的に多くなっているんですね、最近は。

さて、近況報告のご指名が今井、千種、両君からありましたので私の越し方来歴を簡単に振り返りつつご紹介します。

68年大学を出て、理科系からの入社は少なかった三菱商事に入り、活況を呈し始めていたプラント輸出部門に配属となり、五年目にニューヨークに赴任しました。 その二年前に結婚していましたが、辞令が出た73年初めは息子が女房の腹の中でした。 あの当時はお腹の子の性別は生まれるまで判らなかったですから、赴任の手続書類の子供の性別の欄に「?」を書いて、こりゃなんだと言われたのを思い出します。

ニューヨークに五年半居て、日本に帰任が決まった78年は日中技術交流が盛んになっていた時で、東京に戻れば中国関係の仕事をすることが決まっていたので、ニューヨークを発つ前から中国語のレッスンを受け、翌年の79年は大半を上海と北京で過ごました。 公司の担当者に覚えてもらおうと思って髭を生やし、「英語を話す、髭面の変な日本人」で通っていましたが、一年過ぎた頃には中国の外貨不足が表面化して、日本に発注していた大型石化プラントが次々にキャンセルになるという情況の変化に遭遇、あっと言う間に「面壁して為すことなし」の情況になってしまいました。 

その欝々とした髭面の顔を覚えていたらしい他部門の役員からサウジでの石化事業に引っ張り込まれ、それから三年は日本とサウジを往復する日々でした。 仕事は面白かったし、良い経験をさせて貰いましたが、当時まだ組合員だった私は三年以上の出向はだめということで本社に戻ってまた鬱々としていたら、今度はニューヨークの現法の社長から「俺の業務秘書でニューヨークに来い」と言われたのが1985年夏。 息子が栄光を受験しようと四谷大塚に通っていた6年生の夏休みだったので、息子と女房はこれで中学受験はなくなる!!やったあ!と大喜びでした。 従って、二代にわたる栄光生は実現せず、息子は小学校というものを卒業しないまま大人になる羽目に陥りました。

それから26年、ずっとニューヨーク生活です。 もっとも三菱商事は1994年に日本への帰国を言い渡された時に辞めて、自分でコンサルの会社を始めましたので、独立して17年経つことになります。

独立以来、主として日本の中小企業の対米進出を手伝う仕事をやっていますが、定年は自分で決めるので、まだ現役です。 この夏もニューヨークのトレードショーに出展する複数の日本の会社を支援して展示の仕方や顧客を掘り出し方のアドバイスなどを付きっ切りでコーチしましたが、昨今の超円高の下ではかなり知恵を絞らないと目的達成が出来ないので、枯れかけた頭脳をアルコールに浸しながらやっています。 

最後に付け加えますと、当地には「ニューヨーク栄光会」というのが1970年ごろからあって今でも卒業生が1期生から46期生に渉って30人近くおりますが、その世話役を6期の村瀬さんから引き継いでやっています。 (2011年10月26日)
                               (増山*正晴)

 
2011/6/24
そして、次の近況報告は同じく米国在住で私より十倍以上波乱万丈の藤村道男君にお願いします



2010/8/23 有賀夫妻と

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近況報告(Chigusa_Tadaaki)

2011年10月22日 | 田中(石)・田村・千種

 私の近況を語るには9年前の8月13日に戻る必要があります。同日の夜8時、友人と食事を終えてレストランを出たところで、後頭部にガンと打たれるような激しい痛みを感じ、そのまま病院に救急車で運ばれました。これが、9日間の危篤状態のはじまりです。病名はワレンベルグ症候群、ひらたく言うと中枢神経を司る延髄の脳梗塞です。その後は食べることも出来ず、水を飲むこともまったく出来ない嚥下不全となりました。その前3月に会社を辞め開放感に浸りきり、真夏の20日間ぶっ続けに遊んだ報いです。ひと月がたち、点滴での生命維持も限界になり医者から胃に穴を開けて直接栄養剤を入れる事を言い渡されました。しかし、食への希望が絶ちきれない私は断固拒否。その後は私を励ますためか目の前で家族が楽しく夕飯を食べるのを横目でにらみながら、私も「いただきます」と言って、自分の手で口から胃へ管を通し大きな注射器で栄養剤を注入する毎日でした。そのような折、リハビリのつもりでうどんなど麺類を一本ずつ盗んでは食べる真似をして努力、ついに10月16日ラーメン一杯を食べてしまいました。結果、すべて解消!

脳梗塞はその後の私の生活を一変させ今日に至っております。2ヶ月間の飢餓状態の反動から、まず喰い意地道をまい進しました。例えば、一昨シーズン(冬の事)は熊、アナグマ、イノシシ、鹿から野兎、キジバトまでケダモノ類を十数種類食べました。天然キノコも同じくらい食べましたが、今年は手に入りません。どうもセシウムが蓄積するので売るのを控えているらしく、大変残念です。

病後からだの様子を見ながら、友人が関係するケーブルテレビの経営をぼちぼち手伝うことにしました。ところが2004年の春に会社の若い人が来て、どうせここまで見てくれたのだから、週一日でよいから社長をやってくれと言われました。見た目は楽な仕事でしたので、引き受けたのがとんでもない落とし穴でした。会社がアブク銭で食っていることは知っていましたが、社長になってみると、社員が「金を使うな」、「働くな」と教育されていることが分かりました。その後は体力と競争しながら社員教育に忙しく働きました。
最も印象に残ったのは、今年7月24日の「地デジ化」に向けて全25万世帯のお客様の内、9万世帯と新たに契約を結び直さなければならない事態になったことです。そこで一昨年の秋に自ら営業本部長になり生まれて初めてと言ってよいくらい一生懸命働きました。7月24日のDデーには1万世帯にのぼる地デジ難民の発生が予想されましたが、幸い大きな混乱もなく無事に地デジ化を乗り越える事が出来てホットしているところです。同時に社員が達成感からか、明るく良く働くようになったのは大きな成果です。

9月にNHKが原発に関する素晴らしいシリーズ番組を放送しました。ちょうど良い機会でしたので“原発性鬱症状”と題して評論を書き、今井君にお送りしたところ、彼のお目に留まり今回のご指名になったようです。しかし、原発の話は重いので別途ブログを立ち上げましたので、ご興味がおありの方はhttp://tchigusa.blogspot.com/をご覧ください。

次回の近況報告は原発に悩む日本を離れて、アメリカから明るい近況を増山君にお願いしたいと思います。よろしく!

                       
    
(エデンと軽井沢 2011冬)

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近況報告(Imai_Yoshinori)

2011年10月17日 | 相澤・有賀・稲森・今井


昭和43年に入って43年間、「生涯一記者」のつもりで仕事をしてきましたが、最後の3年間、図らずも公共放送の経営に関わって今年1月に退任しました。かつての「記者」に戻るつもりで、作った名刺の肩書は「ジャーナリスト」、外人記者クラブの登録変更も“Free Lance Journalist”にしましたが、どうも看板倒れのような気がします。

退職後、ご縁のあった京都の立命館大学で4月から教壇に立っています。学生を教えるためには、まず錆を落とし、拙い経験に肉付けしていかなければならない、それが同時に本業の「リハビリ」になると考えたからです。「三つ子の魂百まで」のはずだったのですが、この3年間、組織の改革、職員のコンプライアンスとモラール、国際展開、対外折衝、将来展望などかかわっているうちにどこかに置き忘れてしまったのか、リハビリにはまだ時間がかかります。
しかしいざ教え始めてみて、非常に大事な仕事だと気が付いたのは、次の世代を担う若者たちに世界の現実に目を向けさせ、一人一人が立ち向かう勇気をつけることです。口で言うほどやさしいことではありませんが、少しずつ手応えも感じるようになってきて、週に一度の新幹線通勤を楽しんでいます。

もう一つ、思わぬ展開がありました。6月から生まれて初めて民間企業に非常勤の監査役として籍を置くことになったのです。財務も経理もまったく知らないで何ができるのか、いまのところ「社会の常識で」という経営側のことばに甘えているばかりです。
「どこの会社か」って?JTこと「日本たばこ産業」です。たばこを吸ったのは大学入学から10年ほど、やめてからは37年、自分でも「まさか」と思いましたが、これもいろいろなご縁があって、チャレンジすることにしました。
JTは海外展開という点では日本企業の先頭集団にいますし、食品や医薬への進出による多角化にも懸命に取り組んでいます。たばこ税も政府保有株も大震災と原発事故からの復興財源に挙げられていて、グローバル化の中で大きな転換点に立ち向かおうとしています。

それにしても東日本大震災と原発事故は私の心の中で大きな重荷です。32年前、アメリカのスリーマイル島原発事故の現場で取材にあたった数少ない記者の一人として自分自身は、そしてメディアは、「安全」についていったい何をしていたのか、忸怩たる思いが残ります。

最近は内外の様々な活動にかかわる機会が増えました。強く感じるのは私たちよりも年長の世代も含めて、日本と世界の未来のために、そして何よりも次の時代を担う人たちのために、私心を捨てて取り組んでいる人たちが沢山いることです。
“Man for Others” 今も母校に脈々と流れる言葉を思い出す今日この頃です。
                        (2011/10/16)

次回の担当者には、千種忠昭君を指名します。原発問題では、自動車設計者の経験を
踏まえつつ、メディアの経営者として貴重な意見をお持ちです。
「近況報告」ではなく、原発問題で特別寄稿を依頼することもありうるかもしれませんね。
その場合の「近況報告」はニューヨーク在住の増山君にお願いしたいと思います。

                          



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