栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

11期秋のゴルフ大会(2015年10月21日・水)参加者募集

2015年07月31日 | ◆お知らせ・行事案内

秋のゴルフ大会(2015年10月21日・水)参加者募集

1.日付 2015年10月21日(水)

2.場所 南総カントリークラブ 

   東コース イン 8時33分から5組

  〒290-0243 千葉県市原市上高根1683-1 0436-95-1816

3.集合場所・時間  クラブフロント 8時

4.費用  16,410円

  ①キャディ付きカート 

  ②コンペパック料金

   (昼食とパーティー料理付き。各,飲み物1杯付)

   (70歳以上:卒業生は全員です) 

5.会費 10月21日までに決めます。

6.出欠の連絡先・期限 

   メールにて9月末までに吉川宛にご連絡下さい。

7.幹事 吉川・大久保(清)

   

 

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自由社のHPを作りました。  (Enomoto_Shiro)

2015年07月29日 | ◆お知らせ・行事案内

 

自由社のHPを作りました

 

猛暑襲来の候、お変わりございませんでしょうか。
勤務先の自由社のHPを作りました。
 
http://www.jiyuusha.jp/
 
から入ってください。

素人っぽい拙い出来のサイトですが、
 お暇の折、ご覧いただければうれしいです。
 お気付きの点がありましたら、ご指摘いただけると
 ありがたいです。
 掲載したすべての本の編集にかかわりました。
 猛暑の折、ご自愛くださいますよう。

         ( 榎本司郎) 

  

  <榎本君が作成しました自由社HPのトップ>

 

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飲み会(2015/7/24)ご報告  (Okuyama_Iwao)

2015年07月25日 | ◆行事報告

飲み会のご報告 

猛暑、猛暑、猛暑の中、飲み会に集まったのは20人、その写真を掲載させていただきます。

 

(前列左から:相沢・榎本・佐野・下田・山口・太田・渡辺・小島)

(後列左から:重山・水野・鈴木(武)・長谷川・後藤・田村・小寺・川原・黒川・奥山・米沢)

 ======================================

久しぶりの横浜駅西口、会場の<なか一>付近(高島屋の裏側)に来ると、ビラ配りをしている男性、しゃべりながら歩いている短パン姿の若い女性が目立つ。

 幹事なので、少し早めに会場に到着、田村君が来ていた。6時開始の飲み放題を予約したのだが、「もう昔のように沢山飲めない…から、サービスして!」とお姉さんにお願いして、二人でおまけの生ビールを飲み始める。6時になったが、まだ13人しか来ていない。「割り勘の飲み会なのに!」とお金のことがちょっと気になる。

開会に先立って、飲み会にいつも参加してくれた柳原君逝去の話をして10秒間だけ黙祷し献杯。遅れた人が徐々に集まってきた。京急と東横線両方が事故で遅れているという。幹事の心がけの悪さが、こんなところに表れるものなのか。早い者勝ち、勝手に飲み始める。先日の健康診断で肝臓の数値が悪くなり医者から「アルコールを控えるように…」と言われたことが気になったが、暑い時の生ビールには勝てない。

「幹事、焼酎!ビール追加!」の声が聞こえてきた。面倒臭いので「自分達で注文して…」と返事をして無視する。徐々に人が集まってきて、予定の20人になった。それぞれが、大きな声で勝手に話しているが、何を話しているのか全く聞こえてこない。

突然、藤高君が「きょうが誕生日で、飲み屋のママさんがお祝いしてくれるので先に帰る。」と言い出した。そこで全員で<Happy Birthday Dear Fujitaka君 (^^♪>を合唱する。「ママさんがお祝いしてくれるなんて…」と羨ましく思いながら、若いママさんなのか、年取っているのか気になってしまう。

あっという間に予定の8時になってしまった。前回の飲み会で忘れていた集合写真を撮ってお開きに。写真は、東横線の事故で遅れてきたにもかかわらず、太田君が頑張って撮ってくれました。

 

 

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柳原 瑛君を偲ぶ。  (Okuyama_Iwao)

2015年07月15日 | 奥山

 

柳原 瑛君を偲ぶ 

柳原瑛君の通夜と告別式が2015年7月13日、14日に鶴見奉斎殿で執り行われ、11期からは約20人が参列していた。

私が栄光を卒業して柳原君に初めて会ったのは、7~8年程前だった。六本木交差点近くの静かな店で飲みながら二人で話していると、きちんとした身なりの紳士が近づいてきた。蒲谷亮一君だった。そしてその後から柳原君が笑いながらやってきた。近くの席で、自治省OB10人くらいで集まりをしていたところ、私の姿が見えたからだという。柳原君が公務員になったことは噂で聞いていたが、会ったのは初めてだった。柔らかい物腰と静かで落ち着いた話しぶりだった。深々と椅子に座り、上から目線で話しかける私が知っていた官僚とは大きく違っていた。

その後、飲み会で会ううちに、少しづつ話すようになった。2010年3月、柳原君と太田元夫君の3人で2泊3日の西伊豆ウオークに出かけた。柳原君が電車・バスの切符や宿の手配だけでなく、地図・観光案内・時刻表ほか種々の資料を準備してくれた。その緻密さ、心使い、手配のよさが素晴らしく,こんなに丁寧なことをしてくれる人が官僚(!)と驚いてしまった。

一緒に歩きながら、退官後に始めたという山歩きに奥さまと二人でよく出掛けること、日本にある3,000メートル越えの山(21峰)を全て踏破したことなどの話を聞いた。奥の細道を踏破した太田君に匹敵するような偉業の話だった。

  柳原君は、山に詳しいだけでなく健脚だった。登りは少し遅れ気味になるが、下りになると、一気にスピードを挙げる。下りでは、何回も大きく離されてしまった。彼に言わせると「登りは馬力で、下りは技術力」なのだそうだ。

山が好きで、お風呂が好きで、お酒が好きで、タバコが好きだった。

泊まった宿で風呂に入ったあと盛り上がり、3人で日本酒を何本も空けた。酔っぱらってくると国家政策や政治家の批評をしてくれた。官僚らしくない彼だったが、官僚としての能力の高さを感じてしまう話だった。

次は2011年2月に3人で三浦アルプスに出かけた。このときもウオーキング→ お風呂 → 飲み会だった。

2011年5月、太田君と二人で鶴見側50Kmウオークに参加した。35Kmを過ぎた辺りで、雨具でも水を通してしまい、雨具が役立たないほどの大雨となった。そんな大雨の中、柳原君はわざわざ新鶴見橋の袂まで迎えに来てくれた。私はそこで歩きを中止し柳原君と二人で近くのお風呂に入りに行った。その後、一人で雨の中をゴールまで歩き続け、戻ってきた太田君と3人でまた飲み会をしてしまった。

2013年4月29日、3人で三島から箱根まで旧街道を歩いた。美しい富士山が見える天気の良い日だった。緩やかな長い登りが続く道だった。それまで遅れたたことがない柳原君が遅れるようになった。休憩地の山中城址で待っていると、健脚の彼が遅れて到着し、そのままバターンと寝ころんだ。いま思うと、もしかしたらこの頃から体調が・・と考えてしまう。次回は「熊野古道」を約束し、柳原君が計画を立ててくれることとなった。

「熊野古道」が実現しないうちの2015年3月、小細胞肺癌で入退院を繰り返しているというメールが入った。

【=今朝犬と近所を散歩していたらしだれ桜があっという間に開花です。今年の桜は早そうです。水野君の観音崎の計画も飲み会だけになりそうですね。3月16日から3日間4回目の抗がん剤の投与をしました。といっても毎日2時間位点滴をして後は1カ月近く状態観察で何もすることありません。何をやっても構いませんし仕事もOKです。2月には肺の中の影は消えましたので、目下は再発・転移予防の治療です。4月になって、更に2回抗がん剤を続けるか決めることになりそうです。抗がん剤治療場合、副作用が問題です。ガンの種類、個人の体力等によって差が大きいようです。私の場合いまのところ大きな支障は出ていませんが、投与のたびに白血球がかなり減少し、免疫力が低下するので、出かけて人と会えないのが最大の問題です。仕方なく家の中で手足を動> かしていますが、体力は落ちますね。暖かくなりましたし、いつ外出できるようになるのかが当面の課題です。外出できるようになったらご連絡します。(女房の監視が 厳しい。)=】

話を聞くと12月に山に行ったところ突然体調が悪くなって中断した。病院に行ったところ小細胞肺癌が発見されたという。11月29日の飯野ビルの忘年会では、こんなに元気だったのに信じられなかった。

Googleで検索すると小細胞肺がんは進行が早いこと、手術ができない癌であること、脳に転移することが多く非常に難しい癌であること、が分かった。お見舞いに行くべきなのか行かない方が良いのか分からなかった。通っている放送大学で肺がんにかかった友人から「弘明寺の身代り不動のお陰で癌を克服し1.5年後に復帰した。」という話を聞いた。そこで弘明寺に行き身代わり不動のお守り貰って郵送した。1週間ほどして入院中の彼からお守りのお礼と、元気で退屈しているという電話が掛かってきた。

5月2日(土)太田君と二人で横浜東部病院にお見舞いに出かけた。顔色が少し白かったが、癌があるとは思えない程元気で太っていた。個室だったので色々な話をした。旅行した時の写真をもとに色鉛筆で書いた絵を何枚も見せてくれ、帰りには玄関まで送ってくれた。3人一緒の写真をと思ったが次に会うときはもっと元気になっていると思って写真は撮らなかった。

 5月11日に退院したのち、花川泰雄君・太田君と私に次のようなメールが来た。 

【=御無沙汰しております。いよいよ若葉の季節というところですね。私のことですが、先週金曜日に主治医とCT,ペットの検査結果を見たところ肺の中にまだ癌がのこっており、脳の方にも微小な転移が2カ所見られることから、引き続き抗がん剤の治療を続けることになりました。こんどは薬を変えて1週間ごとに3回点滴することになり、前と同じ済生会横浜市東部病院に1カ月位の入院になりそうです。前回は白血球を除き、たいした副作用でませんでしたが、今度はどうなるのか心配です。またご連絡します。先日来お願いしておりました拙宅にお越しいただく件ですが、6月30日(火)、7月1日、2日のご都合はいかがですか。皆さんのご都合のよい日で調整したいと思いますので、ご都合の悪い日をご連絡下さい。そのうえで私の方で日程を調整してご連絡します。なお、当日ですが12時にJR鶴見駅西口改札(出口は一つです。)に集合し、そこから我が家の近くのフレンチのレストランで昼食を取り、その後我が家に寄っていただこうと考えております。よろしくお願いします。=】

7月1日に、元気になった柳原君にまた会えると楽しみにしていたところ、6月28日3人宛に、次のメールが来た。

【=7月1日に開催を決めました昼食のけんですが、先週6月26日にその前の週に取ったMRIやCTの検査結果を担当医と分析しました。その結果、①肺がんの方は、治療効果が見られないから抗がん剤を替えること、②新たに頭部にガンが数カ所転移しているのが見つかったのでガンマーナイフでX線治療をすることになり、早ければ火曜に入院することになりました。(1カ月近く入院の予定です。) そんなことで残念ながら7月1日昼食はキャンセルしました。また機会を改めたいとおもいます。突然会合をキャンセルして申し訳ありません。=】

7月10日、花川君から電話とともに次のメールが来た。

【=先ほど、奥様から電話があり、今朝、柳原瑛君が帰天されたとのことでした。3日前にご自宅に電話した際、お嬢さんから容体が急変したこと、奥様からも肺がんが脳に転移し、場所が悪く手術も出来ず危険な状態となった旨お聞きし、心配していたところですが帰らぬ人になってしまったことは残念です。=】

 柳原君のことはずっと気になっていたが、このメールには驚いた。直ぐには信じられなかった。2ケ月前に病院へ行ったときはあんなに元気だったのに...残念以外に言葉が見つからなかった。

7月13日通夜、棺に入っていた柳原君は2ケ月前とは全くの別人になっていた。髪が真白、頬はこけ、痩せた柳原君だった。たった2ケ月でこんなにも変わってしまうものだろうか。棺の中の人は柳原君とは違う人のようにさえ思えた。家族から「苦しまないで息を引き取った。」という話を聞いて少しほっとした。心の中で「ご冥福を...」と祈りながら別れを告げた。

 <最後に> 

私が11期の幹事になったのは、2011年8月に故山田博君から「肺癌で余命1.5年と宣告された。イレブン会の幹事を担当して欲しい。」という電話からだった。山田博君がヘビースモーカーだったとことをあとから聞いた。そして柳原君、彼のザックにはいつも数箱の煙草が入っていた。栄光で一番親しかった57歳で亡くなった岩部晃一君もヘビースモーカーだった。いま改めて煙草の怖さを感じている。

ご冥福を心からお祈りいたします。    (合掌)

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【訃報】 柳原 瑛君

2015年07月10日 | ◆お知らせ・行事案内

◆◇◆◇◆◇◆◇

柳原君の奥様から花川君への電話連絡がありました。花川君からのメールを掲載させていただきます。(一部抜萃)

◆◇◆◇ (花川君からのメール) ◆◇◆◇

先ほど、奥様から電話があり、今朝、柳原瑛君が帰天されたとのことでした。
3日前にご自宅に電話した際、お嬢さんから容体が急変したこと、
 奥様からも肺がんが脳に転移し、場所が悪く手術も出来ず危険な
 状態となった旨お聞きし、心配していたところですが帰らぬ人になってしまいました。残念です。

◆◇◆◇◆◇◆◇


故  柳原 瑛 儀
 
通夜 7月13日(月) 午後6時より
 
葬儀 7月14日(火) 午前9時半より10時半まで

場所 鶴見ほうさい殿 

〒230-0051  横浜市鶴見区鶴見中央2-9-20
             電話 045-508-7676
アクセス JR鶴見駅東口より 徒歩7分

http://www.sougi-itabashi.co.jp/housaiden/18tsurumi/


ご供花・ご供物のご注文・お問い合わせは葬儀の板橋:
            電話 0120-20-7676
            FAX  045-958-3125
 
       (合掌)
 

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きよちゃんのエッセイ (34) ”ボスポラス海峡” (Okubo_kiyokuni)

2015年07月10日 | 大久保(清)

ボスポラス海峡

 

 地中海につながるマルマラ海と黒海とを結ぶ狭い海峡がある。ボスポラス海峡である。週末、味気ないホテルの部屋を抜け出し海のにおいをかぎに波止場までやってきた。まず、目に飛び込んできた光景は円盤型のパンを頭の上に載せ売り歩く男達の姿である。ずっしりと重い塩気のあるパンは、齧ろうとするが歯がたたないほど硬く、日本人の顎の弱体化を痛切に味わう。相棒がホテルから持参した缶ジュースと一緒にゆっくりと喉に流し込む。

トルコが東洋西洋の人種の坩堝と言われる通り、観光船のデッキでは、色々な国の言葉が飛び交い始めた。ボスポラス橋を頭上に仰ぎ、強い海風の中を一路、黒海に向け舵を切る。水際まで中世の宮殿風な建物が迫り、まるで大型庭園を散策している雰囲気を味わう。丘の斜面に張り付いた石造りの建物の群れが、朝の強い日差しを浴びてベージュ色に浮かび上がる。切り立った崖の上から、何時の時代のだろうか、古色蒼然たる風情の城壁が悠然と海峡を見下ろす。海峡をぬける強い海風を顔に受け、船の周りを飛び交うカモメの鳴き声に囲まれて、一服の絵を楽しむようにクルーズは続いていく。

 ボスポラス海峡は、日本とも縁が深い。古く、日本海海戦でロシアと戦った時、黒海艦隊はトルコが実施した海峡閉鎖で参戦できず、日本の勝利にもつながった経緯がある。この勝利を記念して目抜き通りが東郷通りと改名され、日本人ひいきは今も続く。友人の臨月の奥さんはバスの停留所でジャポネと言われ、いつも列を譲られると苦笑していた。これに近いことを、アンカラのサッカー場で体験した。入場者数の発表で、日本人一人と場内放送があり、小さな声援を受けたこともあった。

 船は、黒海の見える地点まで近づいたが、濃い霧に遮られ見晴らしが利かない。折り返し地点の波止場で下船すると、この旅一番の味に出会った。桟橋より見晴らしが良い丘に向かって歩く途中、美味しいそうな匂いに人が群がっているのが見えてくる。ホットドック屋らしい雰囲気の店だ。刻みキャベツの上に載っているのは揚げたての鯖のフィレト。サブマリンのようなパンに挟みほお張る。素朴な取り合わせだが、ボスポラスの船旅ではハンバーガーではなく鯖のサンドイッチがうまい。

 黒海を見晴らす岬の上に立つと、一瞬足を踏ん張るほどの強い海風に曝された。霧が流れ、遥かかなたの白波の向こうに静かに動く貨物船の姿が見えてくる。海峡を抜けると、まっすぐ進路をとっている。このまま進めば、黒海東岸の港へ入るはずだ。来週、現地視察に向かうグルジアの港を頭の中に描きながら、ゆっくりと東進する貨物船の航跡を追っていた。霧にかすむ黒海は暗く寂しい印象を受けるが、マルマラ海の暖かな青さはそこまでは届かず、ボスポラス海峡がふたつの世界を結んでいる気がする。

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きよちゃんのエッセイ (33) ”ホー爺さん” (Okubo_kiyokuni)

2015年07月02日 | 大久保(清)

ホー爺さん

 ここは、ベトナムのハノイ。今日は12月22日。日本と違い湿気が多く、気温より肌寒く感じる。“どう、電話した、10人部屋だよ、1時間半で、取れた、30ドル、よっし”と声が弾む。狭い作業室の中での会話。今日も、仕事が終わったら、我々は通訳のハインさんと一緒にカラオケルームに繰りだすのだ。カラオケルームで歌うのは、演歌でもなく、和洋ポップでもない。国民愛唱歌である。それも、ベトナムの愛唱歌。ベトナムの英雄であるホーおじさんを讃える歌の練習をするのだ。今日で、通算3回目の練習日である。

 我々のハノイでの仕事は、北ベトナムの有数の観光地であるハロン湾に本格的国際港を建設するための基本計画作成で、日本以外の国、例えば、韓国、オーストラリア、デンマークからの技術者も我々が間借りしているベトナム技術研究所に集まって、それぞれが様々なベトナムの開発事業に携わっている。友好を深めるべく、研究所のベトナム人が、明後日に我々外人組みを招待してクリスマス会を催してくれることになっていた。

 日本人チームは最初、日本の歌を選び始めたが、K氏が突然“なにか日越友好の歌がいいよなー”とつぶやいた。そこで、私が、通訳のハイン女史に何気なく、“我々でも歌える簡単なベトナムの歌はないかい“と聞いてみると、彼女は笑いながら、”小学校で習う『ホーおじさん』がいいかも”と言う。“俺達でも歌えるかい”すると“私が先生、あなた達は生徒さん”と言って笑い返した。このようなやり取りの後、彼女はベトナム語の“ホーおじさんを讃える歌”の歌詞をローマ字のように鉛筆で書いてくれた。今日は最終のリハーサルの日である。薄暗いカラオケルームに入り、ハイン先生の前で全員起立。一節一節、手取り足取りの反復練習が1時間半びっしりと続く。

 本番の夜。我々の前の演目は、韓国の老年のエンジニア、歌はあの“リムジン河”。日本の演歌歌手が10人かかってもかなうまい。次は、我々の童謡である。全員起立して歌詞を見つめる。ハイン先生の合図で、恐る恐る、一番の歌詞を歌い始める。発音は問題がないらしい。ベトナム人の反応は、始め“オー日本の歌じゃないな、ベトナムの歌だ”と少し戸惑った顔で聞き入っていた。それから、2番の歌詞が始まった。後ろの席に座っている誰かが歌いだした。やがて、コーラスの人数は増えてきた。3番が始まる頃には、ベトナム人全員の大コーラスが、小さな講堂一杯に広がった。最後の3番の歌詞は皆うろ覚えであったが、我々の声はかき消され、終わったときは凄い拍手が続いた。

 我々の練習中に、“ホーおじさんのところを、替え歌でいこうか”とハインに尋ねたことがあった。彼女は顔つきを変えて、“絶対にダメです”ときっぱり断った。ハイン女史はベトナム語の通訳だけではなく、ベトナム人の心の通訳でもあったのだ。

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