栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

横浜観光スポットウオーク(11月21日)ご報告 (Okuyama_Iwao)

2013年12月20日 | 奥山

11月21日(木) 晴れ。全員の心がけが良いせいか、文字通りの秋晴れ、素晴らし天気。関内駅9:00に集まったのは久しぶりの佐野君、強歩会コースを一緒に歩いた中澤君、力也君、水野君、太田君と奥山の6人。

 

    左から 奥山・太田・佐野・水野・中澤・山口

改札口を出 て南に向かう。「港はこっち、道が違うのでは?」という質問、「いいえこちらです。」と言いながら反対方向の大通公園へ。

  

伊勢佐木町・長者町駅付近を左折する。水野君からパチンコの話を聞きながら山手の丘を目指す。彼は50年間で1,800万円くらい投資したそうだ。同期のF君にこの話しをしたところ、F君から「俺は50年でその10倍くらい飲み代を払った。しかも肝臓病つきだ。」と言われたとか。遊びとは金がかかるものだ。

山元町で右折し根岸森林公園に向かう。道路に出ていた森林公園への案内看板を無視して狭い道へ入る。我々は裏口から入って表口から出るのだ。階段を登ると古くて大きな建物が突然現れた。幕末に横浜の居留人向けの娯楽施設として開設し、第二次世界大戦の激化で閉鎖された根岸競馬場の建物だ。

  

元が競馬場だったこともあって森林公園は広い。歩いている私たちを練習中のランナーが追い抜いていく。紅葉が始まり秋を感じさせる落着いた景色。生物学に詳しい水野君が木や花の名前ばかりでなく、その性質や特徴を丁寧に説明してくれる。しかし素養のない私は聞いるそばから忘れてしまう。桜の木が沢山ある場所で「春になったら、きっと桜が綺麗だ、ここでお花見をしよう。」と水野君。「桜は南太田近くの大岡川が一番きれい。花見をするなら大岡川」と私。「いやここの方が綺麗なはずだ。」と引き下がらない彼。大岡川の桜を見てもいない癖に頑固なやつだ。

   

    

     根岸森林公園 

中澤君はしきりにあちこちで写真を撮っている。趣味が水彩画の彼は、あとで写真を見ながら画を描くそうだ。トイレ休憩ののちイタリア山庭園へ向かう。庭園の下の方も案内しようとすると「降りたらまたここを登って戻るの?さっきは、もう登りはないといった筈!」とあちこちから不満の声

   

    イタリア山庭園

仕方なしにその場所から引き返し山手の丘を歩き続ける。しばらくすると横浜の男子中学・高校生がその前を通ると必ずドキドキするフェリス女学院が見えてきた。この付近はフェリスだけでなく雙葉・共立と女学校が並んでいて中学・高校男子生徒の憧れの聖地。その昔、フェリスのテニス部に入っていた従妹から聞いた話を思い出した。「山口力也さんって知っている?クラブで人気なの。」その話を力也君に伝えると「大学時代フェリスのテニス部コーチをしていた。」ことを話しただけでなく、更に「清泉女学院でも教えていた。」と付け加えた。一人だけいい思いをしながらいままで黙っていたとは汚い奴だ。しかし羨ましい大学生活を送ったものだ。

  フェリス女学院

対抗意識が働いて、目の前に有る横浜山手カトリック教会を示して「横浜の住人は、この教会で結婚式をするのが理想なんだ。ここは映画にも良く出てくるんだ。僕の結婚式はここだったんだ。」と自慢するが誰も聞いてくれない。

 

   横浜山手教会

小島君・荒木君との待ち合わせ時間(12:00)が迫ってきた。少し歩くスピードを上げる。太田君に先に待ち合わせ場所に行くことをお願いする。困ったときの太田君頼み。気のいい彼は何でも聞いてくれる。

港の見える公園~フランス山を過ぎて、石の公園ともよばれている山下公園の一番端へ。有名な山下公園もこの辺りまで来る人は少ない。どうも我々は裏口からばかり入っているようだ。

荒木君・小島君と合流し8人になって公園前で昼食。先着20名までという海鮮丼(1,030円)を注文した。具が沢山乗っていて確かに安くて美味い。ただこの海鮮丼は先着20人限定で、これで8人が決まってしまった。かなり混んでいたが「他のお客さんたちは?」と少し気になってしまう。何人かが生ビールを注文した。そのあと更に追加の生ビールを注文したのは太田君と私の二人だけだった。

     

午前中は仕事で午後から参加の吉川君から電話があり13:30分水上警察署前で待ち合わせすることにした。リュックを担ぎ野球帽をかぶった吉川君が現れた。仕事 = スーツ姿を思い浮かべてしまう私、思い込みが激しくなってきた。9人になって大桟橋へ。

 

 小島君から「高校時代サッカー部の彼が試合に出るときは、大勢の女学生が見に来てキャーキャーとよく言われた。追っかけまでいた。」いう話を聞いた。サッカー部ということは知っていたが、彼が女学生に<もてた>という話を聞いたことが無い。誰も覚えていない高校時代の話、まあ好きなことを言わせておこう。

大桟橋を過ぎ赤レンガ倉庫へ。ここが初めての佐野君や中澤君が中に入る。あんなに狭苦しくて暗い場所に入る気もしない私は待ち合わせ時間を設定して辺りをぶらぶらする。 

 再び集合し海上保安庁前から海岸線をMM地区へ向かう。横浜に来る観光客があまり通らない道。インターコンティネンタルホテルの裏側に行きぷかり桟橋横を通り臨港パークへ。

  

目の前に芝生が広がっている。「MM21にこんな所があるんだ。初めて来た。」と荒木君。そろそろ疲れてきてベンチで座る人が増えてきた。急きょ予定コース変更しUターンしてパシフィコ横浜裏から万葉の湯へ。お風呂に入っていい気分になったところで反省会。生ビールが美味い。天気が良く気持ちがいい一日だった。合計28,000歩

 最後に、参加された佐野君からメール、中澤君から葉書が届きました。披露させていただきます。

(佐野君からのメール)

昨日は幹事役ご苦労様でした。お世話になりました。 また早速の写真、有難うございました。 15㎞の長丁場を歩いたのは何年ぶりだったろうか? 皆さんとのワイワイ楽しい会話についつられて、気が付いたら完歩出来ていました。やはり若いとき同じ釜の飯を食った仲間いいものですね。 お陰様で今日は足の痛みは全くありません(が、やはり「腰痛は」普段よりきついようです)。これに懲りずまた参加しますので宜しくお願いします。 来年の桜の季節が待ち遠しいですね (^Λ^)

 

(中澤君からの葉書)

横浜散策ありがとうございます。写真もお礼致します。初めて歩く道で絵になる美しいポイントが沢山撮れて愉快なWalkingでした。無機的な東京の風景と違って横浜の街は手作り感が残っているのが気に入りました。事前に下調べで歩いていただき感動感謝しています。現役時代の念を入れる奥山さんの仕事ぶりが想像され感じ入りました。三浦半島も写真で3ケ月水彩を楽しみましたが横浜は半年楽しめそうです。

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山田くんを偲ぶ(その2)  (Okuyama_Iwao)

2013年12月13日 | 奥山

 

と山田君は、彼が横須賀、私が横浜ということもあり栄光時代も卒業後もほとんど付き合いが無かった。2011年(2年前) 8月のある日の夕方電話がかかってきた。「山田です。」山田さんという名前に心当たりがない私「どちらの山田さんですか?」「栄光学園で一緒だった山田です。」それでもすぐに思い出せなかった。

 話しているうちに、背が高い山田君の姿が浮かんできた。電話は「いままで幹事をしてきた栄光11会の幹事を、関口君と二人で引き受けてほしい。」という話だった。突然のことでよくわからなかった。誘われて横須賀(お太幸)の飲み会に1、2度出席したことがあるが、栄光11会が何かもわからず、またどうして私が幹事にと思い詳しく聞くと「肺がんにかかり余命1.5年と宣告された。いままで自分がしていた幹事を他の人に引き継いでいる。11会の幹事を是非お願いしたい。」という内容だった。このような依頼を断るわけにもいかず、幹事を引き受けることにした。そこで関口君に幹事を引き受けたこと及び連絡用にブログを開設することを電話連絡した。

 2011年8月25日、横須賀(お太幸)で栄光11会が開催され、その席で山田君から幹事交代の説明があった。その時の様子が『栄光11会ブログ』の第1回目の記事(2011/8/25)である。山田君は元気そうに挨拶をしていたが、時々疲れた表情を見せ壁に寄りかかって座っていた。

 その後、山田君と連絡を取り合うようになった。カラオケとパチンコが好きで、時々奥様と一緒にでかけていることがわかった。ブログへ何回(*1)も投稿してくれた。2011年10月横須賀へ神輿担ぎに出掛けた時、関口君と3人で会うことにした。待ち合わせ場所に行くと山田君は来ていなかった。体調が悪くなって途中で帰ってしまったことを聞いた。その後何回か電話をしたがいつも明るく元気な声が返ってくるので安心していた。 

 2012年12月22日、関口君から「山田君が衣笠のホスピスに入院した。これから見舞いに行く。」という電話を受けた。見舞いに行った方が良いかどうか迷ったが、関口君の様子を聞いてからと思い自重した。12月23日、関口君から個室にいて話ができるという連絡があった。そこで奥様の了解を得て12月24日水野君・太田君の3人で病院に行った。山田君は疲れた様子だったが、ベッドから起き上がり椅子に座って待っていてくれた。水野君がパチンコの話をすると笑いながら相槌を打ち、奥様は泣きながら笑っていた。これだけ元気ならば大丈夫ということで、その日はすぐに帰った。

 12月29日山田君が亡くなったという電話を受けた。24日に3人で行った時はあんなに元気だったのに、どこか信じられなかった。告別式は12月31日だった。近親者のみの葬儀と聞いていたが大勢の11期の仲間が参列した。迷惑を掛けてはいけないということで関口君と蒲谷君だけが残り、他の人は焼香してすぐに退席した。後日、水野君から「何故、出棺まで立ち会わなかった。どうして校歌・千里の波涛を歌って送り出さなかった。」とのお叱りを受けた。後悔先に立たず。なぜあの時、最後まで立ち会わなかったのかと悔やんでも始まらない。

 年が明けて翌日、山田君から「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。平成25年 ガンばって元気に過ごしています。」と書かれた年賀状が届いた。亡くなった人から届いた初めての手紙だった。仲間の一人が、「天国から届いた年賀状、非常にめでたいことだ。」と話していた。

いまこの文章を書きながら山田君の投稿を読み直し、元気な頃の写真を見ていると、また明るい声で「山田で~す。」と電話がかかってきそうな気がしてならない。

  (*1) 山田君からの投稿

 ◎近況報告   2011/09/08

 ◎城廻りの旅  2012/05/07

 ◎趣味をつなぐ 2012/06/08

       

        山田君からの年賀状

 

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【故長井輝元君の葬儀について】

2013年12月08日 | ◆お知らせ・行事案内

栄光11期の皆様


 栄光11期長井輝元君が、先月25日脳出血のため亡くなられたことは、先にニューヨーク在住で三菱商事の同僚でもあった増山正晴君による訃報を一部同期の方々にご連絡するとともに、葬儀告別式の日程について、増山君から連絡を頂きました。
 長井君のご冥福をお祈りします。
                           今井義典

◆◇◆◇◆◇◆
 栄光11期のみなさま、
 ニューヨーク増山正晴発
 
本日、長井君の奥様から直接メールでのご連絡があり、ご葬儀の日程が下記の通り決まったとのお知らせをいただきました。
 
 
通夜式  12月13日(金) 18時~19時
 告別式  12月14日(土) 10時30分~11時30分(出棺)
 式場 延命寺 遍照閣
    神奈川県逗子市逗子3-1-17
    Tel: 046-873-9322


 奥様からは「場所で選んだ延命寺でしたが、偶然 長井の菩提寺と同じ宗派でした。不思議です。」との付言がありました。
 
日本でのご葬儀となったのは、長井君が一旦回復されて家族の皆さんと普通に話が出来るようになった時に、「年末日本に帰れるかなあ、帰りたいなあ」と言っおられた由で、ご家族としては遺体のまま日本に運び日本で葬儀を執り行うことにお決めになったとのことです。
 
私はご葬儀への出席は叶いませんが、皆さんの中から多くの方が出席されて弔っていただきたいと思います。
 
尚、納棺などをされたロスアンゼルスの葬儀社でメモリアルビデオを作ってくださったとのことで、そのウェブサイトを奥様から伺いました。 彼の生前の楽しそうな様子をご覧ください。
 
このウェブサイトから入ってください。 パスワードは" shoji58 " です。
 
http://www.fukuimortuary.com/fh/obituaries/family_login.cfm?&fh_id=10203&o_i
 d=2342772&mode=view
 
 
       合掌。    増山

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山田君を偲ぶ(Sekiguchi_Susumu)

2013年12月07日 | 鈴木(武)・関口・高野

 もうすぐ、山田博君の命日が近づきます。わたしは祈ります。そうして語ります。「安心して見ているかい?」クラスの中には私以上に彼と交際した仲間たちがおります。その仲間たちが同様に語っているはずです。その語りは、仲間の友情で大きく強く、高く広く伸びて届くでしょう。そう思っております。そして、私は、私の語りをつづりたいと思います。

  中国、広東省、深玔の工場に勤めていた私は、8年前5月に退職して帰国しました。当時、年齢を食って覚えた中国語が離れずに、どこへ行っても中国語が出てしまい、女房から緒中怒られていました。「おあいそ!」「お勘定!」の言葉がすぐに出てこない。つい「マイタン!」と言ってしまったり、「おいくらですか?」と聞くところをつい「ドーシャオ?」、「向こうだよ!」と言うところを「トイメンだ」、「悪い、悪い」を「トイブウチ、トイブウチ」、「あらまあ!」を「ウエーイ」など、食事や買い物に外出するのがいやになって、家でぶらぶら、ボーっと呆けた毎日を過ごしておりました。

 6月も中旬になって、ボケが少し取れてきた頃、散歩から帰ると女房から「山田さんから電話があったわよ。」と言われました。さて、「どこの山田さんかな?」「それまでいた会社が山田電機工業だから、社長かな。そんなことはあり得ないな。自衛隊時代では山田調理員長がいたな。」などと思いめぐらすがどうもしっくりきません。とりあえず電話してみるかということでメモに会った電話番号を回しました。

「山田だよ。」元気な声が返って来ました。わたしが返事に少し戸惑っていたらすぐに「栄光クラスの山田だよ。」そこで「ああそうか」と納得。こんな調子で山田君との再会がスタートしたわけです。本当にボケた話だと思います。

 栄光イレブン会に初参加したのは、平成17年7月2日(火)のお多幸でした。出席者はわたしを含めて20名、2列の席に満員、顔は覚えていても名前が出ないのですが、それでも宴たけなわを過ぎると思い出してくるから不思議なものです。

 山田君からは、6月に行われた横須賀市長選挙に蒲谷君が初当選した祝勝会だという説明がありました。蒲谷君は遅れて参加の予定だったのですが、どうもまだ周囲の目があり結局来られなかったと思います。

 山田君が栄光イレブン会を立ち上げたいきさつは、すでに皆様にお知らせしたところであります。それは前年の16年です。沢田市長の引退の後を蒲谷君が引き継ぐことになり、栄光クラスとしてまとめたいという意図があったと思います。ですから横須賀に住む方々が中心のイレブン会になったのでしょう。

 その年の年末でしたか、山田君からカラオケの誘いがありました。奥様と一緒にということでしたので、私たちも夫婦でご一緒しました。実は、山田君の歌は余り上手ではありません。奥様の方は上手で、歌心をつかんでいます。

ところが山田君の歌はなんともはや楽しいのです。皆を楽しく和やかにさせる歌なのです。山田君はまじめです。決して歌を飾ろうとはしません。それでいて皆が笑顔になる、言うなれば聞かせる歌なのです。本当に芯から歌が好きなのです。そうでないとそんな風には歌えないとわたしは感激しました。

 山田君はビールで、私は焼酎で、わたしは酔わないと歌えないタイプですが、山田君は酔わなくても歌います。美空ひばり、北島三郎、森進一、五木ひろし、加山雄三、小林旭、石原裕次郎などなど。デュエットも豊富で、奥様と一緒に本当に楽しそうに歌っていました。

 そして2回目に誘われた時でした。「関口君が前歌った歌はこれだ。」と、私が何も言わないうちに次々とセットしてくれました。「山田君の記憶力はすごいな。」と感心したものです。当然ながらわたしは山田君が歌った歌は1,2曲しか覚えていません。山田君は、よう覚えているなあ。感心するよ。」

 私がそう言うと、山田君は笑いながらカバンの中からメモ帳を取り出し、種明かしをしてくれました。「カラオケに来る前に君の歌をチェックしたんだよ。」

 

 その手帳を見せてもらうと、何ということでしょう、何月何日にだれが何を歌ったか、記録が克明に描かれていました。山田君の持ち歌も40・50曲、細かい字で書かれていましたし、わたしや家内の歌も全部書かれていました。「この人は、メモ魔なのよ。何でもメモしておかないと気が済まないのよね。」奥さまの一言に、山田君が「そうだ。そうだ。」というように笑顔でうなずいていたのを思い出します。わたしは、少々悔しくなって、メモに書かれていない歌を探しては歌いました。でも、それも次の会の時にはメモに書かれていて、そうして、そのうちわたしの歌切れとなりました。

 山田君のメモは、カラオケだけではありません。イレブン会の記録もきれいに整理されて残っています。その記録を表にしてみました。

 栄光イレブン会

期  日

場 所

会員数

参加者

備  考

H16.10.21

お太幸

22名

14名

 

H16.12.22

お太幸

22名

13名

 

H17.7.12

お太幸

24名

20名

 

H18.3.7

お太幸

27名

21名

北村、有賀君初参加

H18.12.15

お太幸

33名

17名

長島、小野(哲)君初参加

H19.3.27

お太幸

 

6名

鈴木頴一君を囲む

H19.11.16

お太幸

24名

19名

重山、奥山、黒川君初参加

H20.3.16

お太幸

 

33名

田浦見学会(旧校舎、潜水艦)

H20.3.16

お太幸

 

35名

見学に続き宴会

H21.3.26

お太幸

31名

18名

政治資金パーティー

H21.9.6

雪園

32名

17名

軍港めぐり、三笠見学

H21.12.22

お太幸

 

19名

 

H22.3.30

お太幸

 

19名

 

H22.7.12

八雲八景

 

27名

 

H22.10.9

お太幸

52名

12名

 

H23.8.25

お太幸

 

24名

幹事交替

H24.3.3

聘珍樓

 

67名

卒業50周年記念同窓会

 山田君から癌のことを聞いたのは、平成23年の春のことだったと思います。それでも抗がん剤を打ちながら気持ちは元気で、奥様と一緒にパチンコやカラオケを楽しんでいました。

抗がん剤も身体に合うのと合わないのがあるということでいろいろ試していたようですが、いずれにせよ山田君は「長生きするだとか死ぬなどということは一切考えない」と言っておりました。「生き死には神様が決めること、わたしはその場を精一杯幸せにすること」山田君の心情でした。

防大時代から潜水艦時代も一緒で定年退職後も親交していた親友が癌になり、友達に会うことを一切やめてしまった者がおりました。わたしは無理矢理にその親友に会うため広島まででかけました。彼は玄関で出迎えてくれましたが、やせ衰え、顔も無残に真っ黒く変色し、昔の面影は少しもありませんでした。それでも昔話をし、わずかな酒を酌み交わすと笑い顔が復活しました。その彼も半年で葬儀に駆けつけなければなりませんでした。それを思うと、山田君は強い男です。自らの環境を受け入れ、苦はあっても明るさをなくさない強さがありました。周囲に病気を感じさせない強さがありました。

山田君とわたしの夫婦のカラオケ会合は続きました。山田君の酒は少し減りました。しかし、山田君の笑顔はいつものとおりでした。

奥様も気丈な方です。並の奥様ならご主人の病気を気にするあまり外出を控えさせたり、「あれをしてはいけない。これをしてはダメ。」などと何かと抑えようとするのでしょうが、まったく山田君の思いのとおりにさせていました。「その方が、本人のためになるのよ。幸せな充実感が命の元よ。」わたしの家内に話したそうです。23年夏の会の時に彼の口から癌の話が出ました。その時は少し疲れた様子で、あまり席を動かずに皆と話に花を咲かせておりましたが、明るい顔は崩しませんでした。

そしてその年12月初めに両夫婦で紅葉の箱根に行きました。この時の旅行記はブログに乗せていただきました。彼と奥様の明るい顔が印象的でした。箱根から東京スカイツリーを見ることができる日は年に数回ほどなのに、それを見ることができたし、「スリバン」の話が今でもわたしの心に残っています。

さて、イレブン会ですが、山田君が幹事をしてくれていたからこそ、7年余りもこの会が続きました。年に2回、本当に近くて気楽に楽しんでくれる仲間が集まっての会でした。幹事が交替して、横須賀では2年イレブン会を実施しておりません。去年春に卒業50周年記念の同窓会を実施しました。山田君もこれを楽しみにしていました。

わたしは、その年の夏は熱海に行こうと誘っていましたから、同窓会で意気を上げ、熱海の汐風でさわやかにと思っておりました。それも残念ながら・・・で、気力に欠けていたわたしの不精もそうですが、言い訳になるかもしれないけれど喪に伏していたと思ってください。

わたしにとって山田君はそれほど心に残る親友でした。交際、それ自体は人生の何十分の一ですが、彼の生き方に深く感激しました。いつまでも心に残ります。横須賀でイレブン会をやるたびに皆が思い起こすことでしょう。

 そして、山田君の意志を継いで、来年1月には第18回目のイレブン会をいつものとおりお太幸で実施する予定にしています。

      

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New York へSports観戦旅行 (その8:帰国 JFK発) (Ota_Motoo)

2013年12月01日 | 太田

 (その8)帰国 JFK発 (9月4日)

 いよいよ帰国の日である。この日は雲ひとつ無い快晴で、空気も乾燥していて爽やかである。フライトは帰りもデルタ航空で、JFK発14:00のDL173便である。

 この便が空いていることは解っていたが、余裕を観て、9時35分、ホテル発のシャトルバスで空港へ向かう。費用的には、2人分だとタクシーとそう変わらない。しかし、運転はタクシー同様乱暴で、しっかりとシートベルトを締める。

 

 La Guardia Airport 経由でJFKに行ったが、かかった時間は1時間ほどであった。デルタ航空のチェックインは大変空いており、すぐに済む。次の搭乗時のセキュリティチェックでは、初めて靴を脱がされる。空いているので時間はかからなかったが、混雑時はさぞ大変だろうと思った。中に入って最後の買物をし、ビールとビーフサンドの昼食を済ませ、1時過ぎに搭乗するが、搭乗率は50%ほどであろうか。

    

 ここまでは至極順調だったが、ここからが少し問題だった。まず、定刻になっても動き出さない。そのうちに、機の不具合が見つかったので、点検整備に30分ほどかかるとのアナウンスがあった。次にエアコンの効き具合が悪くなり、機内が蒸し暑くなる。30分経っても直らず、今度は油圧系統の故障とのアナウンスがあり、蒸し暑いのでペットボトル入りの水が配られる。暫くするとエアコンが効き始め、間もなく出発とのアナウンスがあり、3時45分頃、動き始める。

 離陸は4時17分頃であった。油圧系統の故障ということで、少し嫌な気分であったが、離陸してからは特に問題なかった。ごくたまに揺れたが、心配するほどでなく、逆に日本の上空に入ってからの方が揺れがひどかった。

 着陸は6時半頃で、出発の遅れをそのまま引きずった形であった。 入国審査はそう混まず、通関も問題なかった。

 成田からは、7時35分発のリムジンバスで箱崎まで出て、水天宮から半蔵門線で帰宅した。帰宅は、9時過ぎであった。

 今回のNY旅行は、片桐さん、増山君に大変世話になったおかげで、実に楽しい1週間であった。時間的にも余裕があったため、NYでの時間がゆったりと流れていき、誠に幸せな1週間であった。

 

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