商店街の記憶
むかしの記憶を辿ってみると少年時代の思い出が、他の時代よりも鮮明に残っているような気がする。幼年時代の記憶はまだ人頼みのところもあり、祖母や母から聞かされた話は実体験の感覚が乏しい。こちらは小学校から高校まで神奈川県逗子市で過ごした。人口も3万人となりやっと市に昇格された頃である。
お隣の鎌倉市は著名な文化人も数多く住み、古都鎌倉として歴史のある町である。また、御用邸を構える葉山も長い海岸線をもつ別荘地の雰囲気を醸し出しているが、両地区に挟まれた逗子市は、特にとりえもなく、人の移り変わりの少ない、のんびりとした住宅地として、東京方面への通勤客も多かった。駅前から海岸通まで続く逗子銀座商店街は店ぞろいもよく、奥様達はほとんどここで買い物をすませていた。
この商店街を思い出していくと不思議なことに、海岸に向かって左側に並ぶ店屋ばかりが浮かんでくる。これは、興味のあった店が片側に偏っていたためである。左側は食べ物屋さんが多い。
中華料理屋さん、蕎麦屋さん、和菓子屋さん、パン屋さん、肉屋さん、果物屋さん。駅に近いところにある『仙満亭』では毎週1回は出前を取っていたように思う。いつも、餃子と天津どんぶり。『立花』では、そば、天丼、カレーうどん、と飽きもせずに何年も続けていた。和菓子屋は『長嶋』と『三盛楼』があったが、いつも庶民的な『三盛楼』の大福と蜜団子が定番。パン屋さんの『直角堂』では一口サイズのクリーム、あん、ジャムパンが合体した三色パンとカレーパンばかり食べていた。
食べる話はきりがないので、本屋さん。名前は『松林堂』。タダ読みするとずり落ちたメガネの上からじろっと覗いていた番台のようなチョッと高いところに座っていた少し気取った親父さんの顔が浮かんでくる。毎月、お小遣いをもらうと、おじさんの顔を気にすることなく、フクちゃんと冒険王を買い、いそいそと家に帰ってきた。木陰の縁台に寝そべり、セミの泣き声も耳に入らず読みふけっていた。
映画館が二館あった。銀座商店街の逗子銀映座、裕次郎ばかり見ていたが、便所臭い、あのニオイの感触はいまだに消えない。京急逗子駅に近いところに、逗子映画劇場があり、洋画、邦画あわせて上映していたが古いものばかりで、封切りはやはり文化の高い鎌倉の市民座まで電車に乗っていった。他に、おもちゃ屋さん『のんき屋』で記憶の収容能力が限界になり、これで高校生まで十分に楽しめたのだから、今考えてみると実にタンジュンな生活をしていたのだと思う。
長らく離れていた古巣の逗子に戻った母のお見舞いに行ったとき、昔、よく出前をしてもらったあの店に電話した。こちらが道順を説明し出すと、先方は途中まで聴いていたが、=覚えていますよ、細い道の行き止まりの家でしょ。まだ生きていましたか=と、50年前の青年が電話の向こうで応えてきた。