栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

鈴木穎一君の短歌がNHKでテレビ放映されます。

2014年04月04日 | 重山・下田・鈴木(穎)

NHK短歌に鈴木穎一君が入選しテレビ放映されます。

NHK短歌 小島ゆかり選 題「靴」
     四月六日(日)六時放送、 
     四月八日(火)十五時再放送

【入選歌】

 買ひ立てのお姉ちやんの靴を
         幼子は暗き玄関にひとり履きゐる 

                   鈴木頴一

【作品の背景】

三男の家族に姉妹の孫がいます。三年程前のことになりますが、姉が五歳の誕生日に家内が靴を買ってやりました。 
私も一緒だったのですが、それは紫のしゃれた靴でした。 
妹の方はその時二歳でした。まだまだ幼いので何もわからないだろうと、たかを括っていたところ、自分の靴がないと大声で泣き出しました。宥めすかしても、泣きやみません。 
暫くして、やっとおとなしくなったなと思ったら、暗い玄関に居て、ひとりでその靴を履いていました。

これまで何度かその光景を歌に詠みたいと思っていたのですが、
孫に対する感情移入が激しくて、歌になりませんでした。 
今回、題が靴ということで再度試みたところ、
客観的に見たところのままを歌にすることができたのではないかと思っています。 

     

 2014/4/4 浦賀ウオーク:湯楽の里にて 左から鈴木君、荒木君、黒川君

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インドの食文化 (Suzuki_Eiichi)

2012年12月25日 | 重山・下田・鈴木(穎)

15年ほど前になりますか、インドから顧客が6人来日しました。そのトップが菜食主義者で、しかも厳しい菜食主義者でした。牛肉はもちろん豚肉も鳥肉も駄目、しかも肉の汁はおろか、牛乳の類も駄目、したがってチーズやバターも駄目というものでした

どこの国でもそうですが、トップがそういうことであれば、部下は泣く泣く従わざるを得ません。日比谷の聘珍樓にお願いしました。当日は鍋皿を十分に洗い、肉の痕跡を残さぬように、また他の客の肉料理と兼用することの無いようにお願いしました。流石は聘珍樓、工夫を凝らし結構いける料理を準備してくれました。また食べたいとも思いませんが。

後日、もっと厳しい菜食主義者がいると聞かされました。ゾロアスター教徒(拝火教徒)に多いそうですが、彼らは地上の植物しか食べない、つまり根菜の類、地中の芋の類も食べないというのです。何故、地面を掘り起こせば、地中の生物、虫らを殺すことになるというのです。このような客を迎えることになれば、手の打ちようがありません。

  私が懇意としたインド人の顧客は牛肉こそ食べませんが、鳥、魚は大丈夫でかなり緩やかな菜食主義者でした。彼は炉辺焼きを好みました。食材の肉、魚、野菜の類がずらりと炉辺に並べてあり、目で見て選ぶことができるから安心なのです。流石に野菜の味の良し悪しはきっちりしています。少々値は張りますが、銀座の「田舎や」が彼の好みでした。そこで一番の魚「きんき」を注文してあげた時の事です。調理人がきんきを鉄串で刺そうとすると苦笑いをしながら目を背けるのです。そして出来上がった見事な姿焼きにまた目を背け、小声で、ばらして姿かたちが分からぬようにしてくれというのです。命に対して優しい人だなとある意味感じ入りました。彼は標準的なヒンドゥー教徒かもしれません。

 あるとき私の部下が彼を京都観光に案内することになりました。そして、貴船に連れて行き、川床料理をご馳走したのです。関西人の部下から見れば大事な顧客を日本人でもなかなか行くことのできぬ川床料理であれば間違い無かろうと気合を入れて連れて行ったのでしょう。あにはからんや、出てくる料理、出てくる料理が食べられないと大騒ぎになってしまったそうです。カレーに舌の馴染んだ彼にとって、京都の微妙な味わいを理解することができなかったのでしょう。結局店の人を拝み倒して、鳥の唐揚げを注文し、その場を凌いだというお粗末な一席となってしまいました。とんでもなく高い鳥の唐揚げとなりました。

  しかし、インド人がみな、日本料理が苦手という事ではありません。インド人の友人夫婦と奥さんの母親を家に招待した時の事です。サリーを来てわが家にやって来た母親は当時65歳くらい、魚は好きだけど刺身は食べたことがないというのです。ところが家内の調理した鯛のこぶ締めを美味しいと言って食べたのです。もちろん実質は生であることを充分説明したうえでのことでした。 刺身を食べるか否かは清潔であるかどうかによるのでしょう。事実、最近は日本に来たら刺身を食べるインド人も増えてきました。   以上

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インド 短歌に詠む。(Suziki_Eiichi))

2012年12月15日 | 重山・下田・鈴木(穎)

  2010年の2月インドのムンバイ、デリー訪問時の短歌

 

①  物乞ひもカースト制度の職業ぞ抱く幼子はレンタルと聞く

②  やせ細る幼子を抱く物乞ひは汚るる手を出づムンバイの街に 

  何度訪問しても物乞いには慣れません。特に赤子を抱く女性は直視に耐えません。駐在員ともなると毎朝の通勤時に、(当然運転手つきの車通勤ですが)路上に待ち受ける十歳くらいの姉妹にチップを渡すのを楽しみだと言っていました。私も車に同乗してその子らに会いましたが、目元のパッチリしたかわいらしい子たちでした。そういえばこの十年で路上に生活する子供達の服装が良くなっていることに気が付きました。やはりこんなところにも経済の発展が表れているのでしょう。

 ③  牛車やら馬車やらラクダに人力車(リキシャ)まで蠢き通るデリーの車道

 ④  ムンバイの大気は重く澱みゐて聳ゆるビルもシルエットのみ

  すさまじい渋滞といってもムンバイの路上に犇めいているのは自動車の類とオートバイの類です。しかるにデリーは、とくにオールドデリーですが、ありとあらゆる乗り物が蠢いています。そこで自動車を降りて、人力車で行くこととなりました。日本から伝わったのでしょうか、人力車をリキシャといいます。インド人の友に言われるままにリキシャに乗りましたが、不思議にも、結構すいすいと車の波を躱して、意外に早く目的地に着くことができました。

 空気の汚れは半端ではありません。中国の上海の汚れは油臭い感じですが、ムンバイは埃です。何か、焼けた埃が充満しているような感じです、ムンバイの人達がモンスーンの到来を心待ちにするのもむべなるかなです。

 ⑤  山の上に鳥ら群るるはムンバイの拝火教徒の鳥葬なるべし

 ⑥ シャンプーの語源はインドと聞かされて匂ひの強きを敢へて使ひぬ

⑦   舌も鼻もインド料理に慣らされぬ十度を超ゆる出張重ねて

 中東に行けば、多くのインド、パキスタン人が出稼ぎに来ているが、インドの西海岸にはパールシーとよばれるペルシア人が10万人ほどゐて上級社会を形成しています。彼らはゾロアスター教(拝火教)の信者で清浄を尊び、自然を汚す火葬、土葬、水葬を禁じ鳥葬を行っています。アラビア海はその昔ダウ船が行き交い、活発な交易がなされた証左をこんなところにも見ることができます。                

                            以上

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インドとのよもやま話(2) (Suzuki_Eiichi))

2012年12月08日 | 重山・下田・鈴木(穎)

 

カースト制はバラノン(神職)、クシャトリア(貴族・武士)、バイシャ(平民)、シュードラ(奴隷)の4つに大別され、それぞれの身分はさらに細かく分類され、3,000は超えると言われています。カースト以下の身分としてアンタッチャブルと呼ばれる身分があることご承知のとおりです。カーストでは肌の色の白いほど上のカーストと思って間違いないそうです。アーリア人は白く、原住民は黒いということがその答えです。一時日本の娘さんの中ではやった顔黒(ガングロ)ほど彼らの理解を超えるものはないそうです。わざわざ下層のカーストに自らを貶めているからです。

 下層のカーストが社会的に成功を収めることは極めてまれです。カーストで職業が決まってしまうからです。のし上がろうという意欲もありません。ヒンドゥ教には輪廻思想があり、現カーストで我慢をすれば次の世では上のカーストに生まれ変わることができると思っているのです。上部のカーストにとってこれほど都合の良い制度はありません。しかし、下層のカーストにとっても職業を守るという点でカーストは役立っています。乞食も立派な職業です。誰でもできる職業ですが、上のカーストからの進出を免れているのです。

都市では赤子を抱いた乞食をよく見かけますが、その赤子は実は借り物であることが多いのです。そのくらい乞食は職業として確立しているのです。

 近年カーストも変わりつつあります。一つは新しい職業です。たとえばIT産業、これにはカーストの成約はありません。能力次第で、職を得ることができます。しかし、下層のカーストは教育水準が低く、狭き門です。政府も下層のカーストにより良い教育、より良い職業を与えようと彼らに優先権を与える制度、すなわちRESERVE SYSTEMを導入しました。大学、企業に彼らを受け入れる専用の枠、例えば20%とかを設けました。能力水準の低下など問題はあるようですが、この枠の設定はインドに根付いており、その枠の拡大が進みつつあります。もう一つは都市化です。3000以上に細分化されたカーストは出身地、居住区域を明かさぬ限り他人にはわからぬそうです。都市の住民にとっては他人のカーストは無関心になりつつある。

  中国では経済の発展が進めば農村から2億とか3億の人達が大きなうねりとなって都市に押し寄せて来ます。政府に政策あれば、人民に対策ありです。経済が鈍化すれば、これが逆流し、大きな社会問題を引き起こすことになるわけですが、インドではこういうことは起こりにくいのではないかと思います。その理由はカースト制度の存在です。貧富の差に中国では不満を抱き、インドでは甘んじるというか耐えてしまうのです。カースト制度が揺らぎつつあることが経済の発展にどのような影響を与えるか、また経済の発展がカースト制度にいかなる影響を与えていくか、興味深い問題である。  

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インドよもやま話(1) (Suzuki_Eiichi)

2012年10月14日 | 重山・下田・鈴木(穎)

 

 中国とインド、同じ経済新興国として一番の違いはインフラの整備状況であろう。20年前は空港から北京や上海の中心部、あるは空港からデリーやムンバイの中心部までどちらも渋滞がひどく辟易としたものであったが、最近では中国の道路事情が格段とよくなり空港からの時間もかなり短縮された

しかしながらインドの方はそれがますます悪化している。中国では良きにつけ悪しきにつけ社会主義のスピードが好結果をもたらし、インドでは民主主義下のスローデシジョンが経済発展のスピードについていけてないという事実がその原因である。それに加えてインド人の公に対する無関心、私に対する異常なまでの執着が公共事業への投資が上がらない大きな理由の一つでもある

  インドの高層のコンドミニアムは、築年数はそんなに立っていないようでも、外見は埃まみれのところが多いが、インドの知人曰く、内部は非常にきれいだと。コンドミニアムの共通部分に金を積み立てるという日本のマンションの管理費用、修繕積立金的発想がなく、共通部分はほったらかしで、自分の部屋に金をかけているそうである。

オフィスビルにせよコンドミニアムにせよ近代的ビルの周囲はバラックが密集している、ビルから俯瞰すればバラックの屋根を覆ている青いビニールシートの海に囲まれている光景である。バラックの立ち退き料を決定するのに時間がかかるそうである。ここが、言うことを聞かなければブルドーザーで地ならしをしてしまう中国と違うところで、交渉に時間をかけざるを得ないのが民主主義である。聞くところによると、ちっぽけなバラックでも居住者が一生暮らせるような値段を払うそうである。インドの知人の一人は妙に政府の要人と関係が深く、その言によると、1千万円位払うバラックもあるそうで、時間のかかるのもやむなしと納得した次第である。

 インドの金持ちの暮らしは想像を絶している。郊外に一戸建ての大邸宅をもち、都心部には高層ビルをいくつも保有し、事務所兼私的目的に使用している。ある財閥の総帥に招かれたのはそうした一室で、まさにペントハウスであった。その空中楼閣で彼らは下を見ずに生活を楽しんでいる。ビルの下にはバラックの青い海が広がっていること先に述べたとおりであるが、彼らは独自の世界を楽しんでいるのである。機会があれば、カーストについて書きたいと思うが、カーストの上の人達は下の人達を慮ることをしないというか、彼らは別世界にいるのである。 

ある時は、仕事仲間のインド人の金持ちの家に招待されたが、家の周囲にはバラックが迫り、外見もパッとしなかったが、いったん中にはいるとそのゴージャスさには驚いた。私には悪趣味に見えて、あまり感心しなかったが、銀製のブランコには正直参ってしまった、それは三人が一度に腰かけられるほどの大きさがあり、柱も何もかもすべて銀製、思はずそれに座って記念写真を撮ってもらう羽目となった。                                   以上

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インドとの商談(Suzuki_Eiichi))

2012年09月09日 | 重山・下田・鈴木(穎)

 

 川崎汽船という外航海運会社に勤務していた私のインドとの関わりは20年以上前に遡ります。製鉄業の副原料である石炭コークスを日本から輸出する話でした。ある商社を介しての商談でしたが、決まりそうになっては、ボシャリを繰り返し結局成約を見ることができませんでした。意思決定が小田原評定であったこと、つまるところ原因は決定権のある人物を捕まえていなかったことにつきたと思います。それと停電の多い国という印象が残りました。 

  次の商談は15年ほど前から始まりました。インドの国家プロジェクトーー不足する電力を賄うためLNG火力発電所の建設――への参画でした。そのLNGを輸入するためのLNG船を建造し、運航するためインドの国営船会社と合弁会社を創ろうというものでした。この商談はまとまり、現在でもLNGを輸送し続けています。この成約には過去の経験が生きました。相手はSCI(SHIPPING CORPORATION OF INDIA)というインドの国営船会社でしたが、会議になると同じような肩書の、同じような年齢の人達が7人も8人も出席してきて、誰もが自分に権限があるのだという調子で意見をいうのです。アメリカにはインド人には喋らすな、日本人には喋らせろという諺あると聞きますが、とにかく彼らは喋ります。喋りたいから喋るといった調子です。 

インドでは会長にしか決定権がないとおぼろげにわかっていましたので、誰が会長に意見の具申ができるのか、必死に探しました。選んだ男は営業マンではなく財務をつかさどる部長でした。その後、彼は次の会長に選ばれました。この事実をもってしても私の目に狂いはなかったと自慢しています。今でも後輩がインドに行きSCIを訪問すると会長自ら出席してくれ、私を懐かしんでくれるそうです。

   その後、2002年に川崎汽船から子会社に移り、2006年に復帰しました。その頃の海運市況は好況の真っただ中にあり、業績を拡大する好機でありました、営業を束ねる責任者として、中国の次は間違いなくインドという信念で、インドとの商売を拡大する目標を掲げました。景気の良い時には大儲けを期待するよりは長き将来にわたっての関係を構築することが肝要だからです。

このときはある新興の財閥に目をつけ、とんとん拍子に契約を重ねることができました。それは財閥の総帥と懇意になることができたからです。最初に会った時からお互いに好意を持ち、何回か会うことによってお互いの信頼をたかめることができた結果です。

 このように話して来ますと、何かどこかの国と似ていませんか?? そうです日本と似ているのです。それも一昔前の日本の企業に酷似しているのです。     (以上)      

                         2012/08/23  

       

  

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近況報告(Shigeyama_Tadashi)

2012年04月01日 | 重山・下田・鈴木(穎)

 

<はじめに>

 私は1968年~2002年まで34年間ソニー特許部に在籍して寝ても覚めても「本発明は~に関するものである。」を繰り返していましたので、多くの人には全く興味のない話が多く、参考になる話はほとんど皆無であると危惧しています。あしからずご了承下さい。

 まず、私は満州ジャムスで生まれ、1歳の時に朝鮮半島を縦断して引き上げて来て伊豆長岡に4年間住み、その後、昭和24年11月から、黄金町の現在の同じ住居にずっと住んでいます。また、取り壊された旧野毛山プールから直線距離で150m位離れた場所にある「東小学校」から栄光(6年間)→早稲田電気工学科(5年間)→ソニー特許部(34年間)→信友特許事務所(5年間)→自宅勤務の技術翻訳業(フリーランス)(5年間)で栄光卒業後の49年間を過ごして現在に至っています。

私は周囲の環境に順応しようと鋭意努力してしまうタイプ?なので、栄光時代は「表裏のないまじめな?人間」を目指し、早稲田時代は「バカを賛美する野人的な?人間」を目指し、ソニー時代は「人がやらない、または、できない事にチャレンジする?人間」を目指して自分なりに尽力し、その後の特許事務所5年間とフリーランス翻訳者5年間も、とにかく、「人がやらない、または、できない事」にチャレンジしようとソニー精神の延長を心掛けて過ごしてきています。

<ソニー特許部での仕事について>

 確か38歳の頃までは、人並みに出世意欲が強くて、少しでも上位の役職になろうと尽力していましたが、出世を意識すればするほど、ほとんど心身症になってしまい、鬱病の兆候が現れたため、回復するために生活態度(考え方)を改めることにし、「最終役職は1つや2つ格下げとなっても、楽しく暮らし、なおかつ、世の中に最大限影響を与える人間を目指す」ことに方向変換しました。別の言い方をすると、極めて単純であり、経営者よりは職人の方がはるかに自分には似合っていると自覚し、特許職人に徹して金儲けして、ソニーに利益をもたらそうと考えました。

 特許業務でソニーに利益をもたらすことを強く頭に描いて仕事をしてきましたので、1990年頃からは「金取り役」に徹して、日本・韓国・US・欧州のメーカに特許侵害警告を発し続けた結果、私が特許技術職人として働いた分野で実質的に1000億円以上の純利益をソニーにもたらしたといつも誇らしげに?豪語しています(半分以上冗談です!)。上記のように「人がやらない、または、できない」方法で「金取り役」を実行することを独自の重山方式で行いたかったので、どうやったら簡単に、かつ、確実に「金を巻き上げられる」かの独創的な?システム作り開発を行い、その結果、

①ソニーが当時所有していた全20000件の特許を全て高速レビューして(20000件を自分で評価するのは一生以上かかってしまい、無理なので、全発明者毎に回覧して評価してもらい、それを信じてまとめて)、警告できる分野と評価(A,B,C,D)を発明者の言うなりにコンピュータ入力し、警告したい分野を入力すると、警告リストがコンピュータから評価(A,B,C,D)付きで、ぞろぞろと自動的にリストアップできるようにしたこと、および、

②当時のソニーではVTRとテレビ特許が主体でしたので、VTRを指定してリストを出力すると重要特許は2000件で、他社が実施している特許は300件というようなデータが得られ、テレビを指定すると重要特許は1000件で、他社が実施している特許は200件というようなリストが簡単に得られましたので、これらのリストを本にまとめて、日本・韓国・US・欧州のメーカに特許のご案内=侵害警告」を出し、警告後は「200件~300件」もあなたは侵害しているのだから「即支払ってくれ!」と涼しい顔で豪語(うそぶく?)を繰り返す「知的暴力団」を結成すれば良いというものでした。

ちなみに警告はいつも「きれいなカラー・カバー付の警告本」で、つまり、「本作り」を介して行いましたので、このプロジェクト名を「本作り=黄桜・プロジェクト」と命名し、警告本も「黄桜本」と命名しました。一番の成功例は「黄桜本」で日本の1メーカを警告したら、1~2週間後に契約させて下さいと先方のお偉いさんが挨拶にきたことで、これが最速の成功例です。

 特許も普通は地味でつまらない仕事と思わますが、一旦警告して話がまとまりますと、直ぐに10億円とか20億円の利益(純利益)を生みますので、おいしい話となり、眉間も元気に跳ね上がります。上記の最速の成功例の他にも、例えば、2000年頃に外国の1メーカと過去分だけでいくら支払うかを技術担当の私が特別に契約担当者に変身して交渉した結果、16億円を即支払うとの答えを得たときは、今までのストレスが一気に解消して、眉間も最高潮に跳ね上がり、その後2~3ヶ月間は気分爽快であったことを昨日のように覚えています。もちろん、契約締結までに時間がかかる会社もあり、4~5年後に実利を得たこともありましたが、結論的に言うと、ソニーの技術力が高くて真に良い特許が多かったおかげで、「黄桜本」を40~50冊作成して各社に警告したのですが、「黄桜・プロジェクト」は、ほとんど100%の成功率となることを実証できました。

 

<ソニー引退後の仕事について>

  特許業務は、「皆が苦手な分野」ゆえに、逆に、ありがたい仕事なのかもしれません。なぜなら、弁護士や公認会計士のようなむずかしい国家資格を何も得ていないのに、「皆が苦手な分野」がOKであるという理由だけで、ソニーを引退後も、特許事務所で5年間働け、さらにその後もフリーランスの技術翻訳者として現在に至るまで5年間も人気者翻訳者でいられるのですから。ちなみに、現在の翻訳システムにおいても、「人がやらない、または、できない」方法で翻訳を行っております。「黄桜・プロジェクト」のような良い(冗談がきつい?)命名が出来ていないのですが、①助詞を除く全単語事前変換方式②複数人(例えば3名)が朝昼晩に分けてリレーして翻訳するの①②を独創的な特徴として掲げ、なおかつ、サイゼリア方式(安くて、うまくて、速い)を真剣に目指しており、最近になって大手会社のClientsから仕事が押し寄せて来ており、一日12時間も仕事する日が多くなっています(これも半分以上冗談です)。

<おわりに>

 ほんとうに、面白くない特許中心の話で申し訳ございませんでした。栄光時代は勉学にゆとりが全く持てずに、心を許せる友人も皆無でしたし、中学時代に比較的に仲が良かった坂根俊孝君も高校1~2年の時に洗礼を受けるか否かで口喧嘩となって、私は極度のいじっぱりなので、それ以後一度も話しかけない内に、逝去されてしまって仲直りができずに残念に思っております。私はどちらかと言うとキリスト教より20歳の時に3週間寝泊りして座禅した三島龍澤寺(臨済宗:中川宋淵)の方が向いていると、何の根拠もなく、極めて勝手に自己解釈しており、栄光時代の自分が嫌いなので、栄光はいやな学校と責任転嫁し続けた時がありましたが、最近は11会等を通じて、すばらしい同窓生が数多くいて、会話がなくても、単に遠くから眺めているだけでも勉強になるエネルギッシュで若々しい同胞が数多くいらっしゃるので、今後も11会なり、全体の同窓会などを企画していただければ、今まで通り毎回参加させて頂きます。宜しくお願い致します。

                               

 

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近況報告(Shimoda_Haruhisa)

2011年12月18日 | 重山・下田・鈴木(穎)

奥山さんからは早く書けと言われていましたが、ここのところ極めて忙しく、遅くなりました。皆さんと同じように、大学卒辺りから書こうと思います。

 

大学、大学院を卒業し、どこに行こうかと思っていたところ、研究室の先輩から東海大に来ないかと言われました。メーカに行こうかと思っていたのですが、ちょっとどこに行くか迷っていたところだったので、とりあえず数年ならということで東海大に行くことになりました。それからはや40年、早いものです。

 

大学院では主として固体物性の研究をやっていたので、東海大でも続けて行くつもりでした。しかし予算の関係などもあり、中々難しいと思っていたところで、リモートセンシングをやって見ないかと言われました。

 

当時、世界で最初のリモートセンシング衛星、Landsat(打ち上げ当初はERTSと呼ばれていました)が打ち上げられてすぐで、新しい分野なので、ちょっとやってみようと言うことになりました。それに関連して、東海大にリモートセンシングと画像処理のための研究所を立ち上げることになり、1974年に立ち上がりました(東海大学情報技術センター(TRIC))。その頃日本に入ってきていたデータは写真だったのですが、アメリカに視察旅行に行った際、EROSデータセンターというところで、ディジタルデータを入手することができました。ちなみにEROSデータセンターは南ダコタのスーフォールズというところで、町から車で1時間ほど走った、何もないところにあります。

 

持ち帰ったディジタルデータは当時日本には無かったもので、一緒に行った東大の村井先生の所と私たちの所だけにしかありませんでした。その後、フォーマットなどの点で、読むのに苦労しましたが、ようやく読めるようになった頃、TRICにも画像処理システムが入ることになり、それを使って本格的な研究を始めることができました。今までやってきた実験物理に比べると、ソフトウェア開発は精神的に実に楽なものでした。実験では極めて微弱な電流(フェムトアンペア)を測っていたため、本当の信号を測っているのか、その付近の雑音を測っているのかが中々分からず、苦しい思いもしましたが、ソフトウェアの場合は、間違っていれば明らかに本人の責任なので、気分的には楽なものです。

 

しばらく、主にリモートセンシングデータを対象とした画像処理をやっていたところ、ある日、突然NHKの技術の人が訪ねてきました。我々の解析した画像をテレビに出せないかというのです。我々の画像処理システムのディスプレイ信号は、テレビ信号と似てはいますが若干違うため、技術的にはちょっと難しいところです。こちら側の信号のフォーマットを説明したところ、NHK側で何とかテレビ信号に変換できると言うことで、テレビ番組を作ることになりました。その後、数年にわたって、正月のテレビ癌組の制作に協力しました。その頃は、私も時々出演したので、ご覧になった方もいるかもしれません。

 

主としてリモートセンシング画像を対象とした画像処理の研究を続けていたところ、今度はある日突然、通産省(当時)の方が見えました。現在、大気、特に温室効果ガスを測るセンサの研究会をやっているが、参加してくれないかというのです。大気は専門でないし、大気を測るセンサも専門ではないと言ったのですが、とにかく参加してくれと言うことで、研究会に参加することになりました。その研究会に1年参加して、適当に意見を言っていたところ、予算が付いたので開発することになった。ついては主査をやってくれないかという話が来ました。前と同じ事を言って断ったのですが、メンバーに難しい人がいるので、調整をやってくれればよいとのことで、引き受けることになりました。センサ開発のための委員会が始まってしばらくした頃です。通産省の人と一緒に車に乗っていたところ、このセンサが成功するもしないも先生次第ですからねと言われました。話が違うと思いましたが、乗りかかった船、仕方がないと覚悟を決めました。このとき開発したセンサはIMGと言って、世界で初めての宇宙用高スペクトル分解能フーリエ変換分光計です。

 

IMGの開発をやっていたとき、今度は宇宙開発事業団(NASDA)からIMGが搭載されるADEOSという衛星のプログラムサイエンティストをやってくれないかという話がありました。プログラムサイエンティストというのはその衛星のデータを利用するサイエンス全体を統括する仕事です。それまでNASDAの衛星にはプログラムサイエンティストがいなかったのですが、NASAを見て、必要だと言っていた手前、これも断れず引き受けることになりました。ADEOSにはNASDAのセンサが2つ、通産省のセンサが1つ、環境庁(当時)のセンサが2つ、NASAのセンサが2つ、フランスのCNESのセンサが1つと計8つのセンサが搭載されており、地球環境の全体(陸、海、空)を観測できるすばらしい衛星でした。10ヶ月で電源計の故障により運用を停止したことは今でも残念です。こうして、個人的には東海大と、NASDA2つの機関で働くことになりました。

 

65になったとき、大学は定年になりました。その後、特任教授として1年契約で働いていますが、給与が3分の1になったのに、仕事は変わっていません。NASDAの方はその後、JAXA(宇宙航空研究開発機構)に変わり、ADEOS後、GCOM(全球変動観測ミッション)という、計衛星6機のプロジェクトのプログラムサイエンティストをやっています。又、温室効果気体を計測するGOSATという衛星でも、研究者のとりまとめをやっています。

 

今回のブログは藤高さんからの紹介でやることになりました。実は藤高さんには山のように世話になっています。大学院時代、高感度の測定機を作ってもらったのに始まり、東海大でも画像処理システムの開発などでは、ずいぶんお世話になりました。現在でも色々頼んでいるのですが、これほど役に立つ人はめったにいません。今病院の方々も喜んでいることと思います。そんな関係で、藤高さんからの紹介は断れませんでした。少し長くなりましたが、この辺で終わりにしたいと思います。

                                   

 

 

   次回の近況報告は柳原 瑛さんにお願いいたします。

 

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