<はじめに>
私は1968年~2002年まで34年間ソニー特許部に在籍して寝ても覚めても「本発明は~に関するものである。」を繰り返していましたので、多くの人には全く興味のない話が多く、参考になる話はほとんど皆無であると危惧しています。あしからずご了承下さい。
まず、私は満州ジャムスで生まれ、1歳の時に朝鮮半島を縦断して引き上げて来て伊豆長岡に4年間住み、その後、昭和24年11月から、黄金町の現在の同じ住居にずっと住んでいます。また、取り壊された旧野毛山プールから直線距離で150m位離れた場所にある「東小学校」から栄光(6年間)→早稲田電気工学科(5年間)→ソニー特許部(34年間)→信友特許事務所(5年間)→自宅勤務の技術翻訳業(フリーランス)(5年間)で栄光卒業後の49年間を過ごして現在に至っています。
私は周囲の環境に順応しようと鋭意努力してしまうタイプ?なので、栄光時代は「表裏のないまじめな?人間」を目指し、早稲田時代は「バカを賛美する野人的な?人間」を目指し、ソニー時代は「人がやらない、または、できない事にチャレンジする?人間」を目指して自分なりに尽力し、その後の特許事務所5年間とフリーランス翻訳者5年間も、とにかく、「人がやらない、または、できない事」にチャレンジしようとソニー精神の延長を心掛けて過ごしてきています。
<ソニー特許部での仕事について>
確か38歳の頃までは、人並みに出世意欲が強くて、少しでも上位の役職になろうと尽力していましたが、出世を意識すればするほど、ほとんど心身症になってしまい、鬱病の兆候が現れたため、回復するために生活態度(考え方)を改めることにし、「最終役職は1つや2つ格下げとなっても、楽しく暮らし、なおかつ、世の中に最大限影響を与える人間を目指す」ことに方向変換しました。別の言い方をすると、極めて単純であり、経営者よりは職人の方がはるかに自分には似合っていると自覚し、特許職人に徹して金儲けして、ソニーに利益をもたらそうと考えました。
特許業務でソニーに利益をもたらすことを強く頭に描いて仕事をしてきましたので、1990年頃からは「金取り役」に徹して、日本・韓国・US・欧州のメーカに特許侵害警告を発し続けた結果、私が特許技術職人として働いた分野で実質的に1000億円以上の純利益をソニーにもたらしたといつも誇らしげに?豪語しています(半分以上冗談です!)。上記のように「人がやらない、または、できない」方法で「金取り役」を実行することを独自の重山方式で行いたかったので、どうやったら簡単に、かつ、確実に「金を巻き上げられる」かの独創的な?システム作り開発を行い、その結果、
①ソニーが当時所有していた全20000件の特許を全て高速レビューして(20000件を自分で評価するのは一生以上かかってしまい、無理なので、全発明者毎に回覧して評価してもらい、それを信じてまとめて)、警告できる分野と評価(A,B,C,D)を発明者の言うなりにコンピュータ入力し、警告したい分野を入力すると、警告リストがコンピュータから評価(A,B,C,D)付きで、ぞろぞろと自動的にリストアップできるようにしたこと、および、
②当時のソニーではVTRとテレビ特許が主体でしたので、VTRを指定してリストを出力すると重要特許は2000件で、他社が実施している特許は300件というようなデータが得られ、テレビを指定すると重要特許は1000件で、他社が実施している特許は200件というようなリストが簡単に得られましたので、これらのリストを本にまとめて、日本・韓国・US・欧州のメーカに特許のご案内=侵害警告」を出し、警告後は「200件~300件」もあなたは侵害しているのだから「即支払ってくれ!」と涼しい顔で豪語(うそぶく?)を繰り返す「知的暴力団」を結成すれば良いというものでした。
ちなみに警告はいつも「きれいなカラー・カバー付の警告本」で、つまり、「本作り」を介して行いましたので、このプロジェクト名を「本作り=黄桜・プロジェクト」と命名し、警告本も「黄桜本」と命名しました。一番の成功例は「黄桜本」で日本の1メーカを警告したら、1~2週間後に契約させて下さいと先方のお偉いさんが挨拶にきたことで、これが最速の成功例です。
特許も普通は地味でつまらない仕事と思わますが、一旦警告して話がまとまりますと、直ぐに10億円とか20億円の利益(純利益)を生みますので、おいしい話となり、眉間も元気に跳ね上がります。上記の最速の成功例の他にも、例えば、2000年頃に外国の1メーカと過去分だけでいくら支払うかを技術担当の私が特別に契約担当者に変身して交渉した結果、16億円を即支払うとの答えを得たときは、今までのストレスが一気に解消して、眉間も最高潮に跳ね上がり、その後2~3ヶ月間は気分爽快であったことを昨日のように覚えています。もちろん、契約締結までに時間がかかる会社もあり、4~5年後に実利を得たこともありましたが、結論的に言うと、ソニーの技術力が高くて真に良い特許が多かったおかげで、「黄桜本」を40~50冊作成して各社に警告したのですが、「黄桜・プロジェクト」は、ほとんど100%の成功率となることを実証できました。
<ソニー引退後の仕事について>
特許業務は、「皆が苦手な分野」ゆえに、逆に、ありがたい仕事なのかもしれません。なぜなら、弁護士や公認会計士のようなむずかしい国家資格を何も得ていないのに、「皆が苦手な分野」がOKであるという理由だけで、ソニーを引退後も、特許事務所で5年間働け、さらにその後もフリーランスの技術翻訳者として現在に至るまで5年間も人気者翻訳者でいられるのですから。ちなみに、現在の翻訳システムにおいても、「人がやらない、または、できない」方法で翻訳を行っております。「黄桜・プロジェクト」のような良い(冗談がきつい?)命名が出来ていないのですが、①助詞を除く全単語事前変換方式②複数人(例えば3名)が朝昼晩に分けてリレーして翻訳するの①②を独創的な特徴として掲げ、なおかつ、サイゼリア方式(安くて、うまくて、速い)を真剣に目指しており、最近になって大手会社のClientsから仕事が押し寄せて来ており、一日12時間も仕事する日が多くなっています(これも半分以上冗談です)。
<おわりに>
ほんとうに、面白くない特許中心の話で申し訳ございませんでした。栄光時代は勉学にゆとりが全く持てずに、心を許せる友人も皆無でしたし、中学時代に比較的に仲が良かった坂根俊孝君も高校1~2年の時に洗礼を受けるか否かで口喧嘩となって、私は極度のいじっぱりなので、それ以後一度も話しかけない内に、逝去されてしまって仲直りができずに残念に思っております。私はどちらかと言うとキリスト教より20歳の時に3週間寝泊りして座禅した三島龍澤寺(臨済宗:中川宋淵)の方が向いていると、何の根拠もなく、極めて勝手に自己解釈しており、栄光時代の自分が嫌いなので、栄光はいやな学校と責任転嫁し続けた時がありましたが、最近は11会等を通じて、すばらしい同窓生が数多くいて、会話がなくても、単に遠くから眺めているだけでも勉強になるエネルギッシュで若々しい同胞が数多くいらっしゃるので、今後も11会なり、全体の同窓会などを企画していただければ、今まで通り毎回参加させて頂きます。宜しくお願い致します。