栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (165) "筍(たけのこ)”(Okubo_Kiyokuni)

2023年03月28日 | 大久保(清)

 筍(たけのこ)

夕方にこんなメールが飛び込んできた。『たけのこ、お好きですか、本日、たけのこ堀りに行ってきました、何本か採れまして、今、ゆでています、よろしければお届けに上がります』 この掛け声に反応したのか、半世紀前の、同じような懐かしい光景がふっと脳みそに蘇ってきた。『フキノトウたくさんもらってさ、天ぷら揚げているんだけど、食べてくれる、あとでもっていくから』と、お隣さんの庭先から大きな声。向こう三軒両隣の時代、こんなやりとりは夕方の定番。さっき別れたばかりの遊び仲間が嬉しそうに、大皿一杯に盛られた天ぷらを運んでくる。すると、母が慌てて、台所から我が家の夕食で見栄えがよさそうなものを一品選んでお返しに持って帰ってもらう。これで、どちらもおかずが一品増える。我が家のいつもの定番料理と一味違う、出前の味がとても楽しみだった。他に、何をご馳走になったのか、覚えていないが、それは昭和の時代のとても懐かしい夕暮れどきの風物詩だった。

歳を重ねると頭のめぐりは遅くなり、からだの動きも衰えるのだが、その分、なぜか、四季の変化に敏感になってくる。生存本能は依然として健在ゆえ、行きつくところは、季節の到来を目で知らせてくれる食べ物へ関心を強まってゆく。この結果、若い時には特段の興味がわかなかった旬の野菜が気になり始める。春を知らせる、新じゃが、新玉ネギ、新ゴボウ、春キャベツ、・・。どれもこれも、みずみずしく、柔らかく、甘みがあり、薄味で素材をそのまま生かした季節の味を丸ごといただく。この当たり前が貴重なのだと、このごろやっと気が付き始めた。やがて、土に還ってゆく我が身が遅ればせながら、土のにおいを意識し始めたのかもしれない、老人のからだが自然に受けつける生理現象なのだろう。温暖化のせいか、ハウス栽培の技術が進歩したためか、近頃、季節の輪郭がぼやけ、市場に出回る期間も間延びしてきた感じだ。そんな中で、天然ものは年ごとに市場に現れる時期が微妙に変化し、その期間も短い。一年間、待ちわびていた分、食感がとても鋭敏なせいか、その味は一味も、二味も違う。

家に届けられた初堀りのたけのこは、とても柔らかく、ほんのりとした甘みが舌先に残り、だし汁で炊き込んだご飯に混ぜて食すると、爽やかな春の香りが口いっぱいに広がった。旬のいただき物は、自然が育てた風味に加えて、贈り手の真心も一緒に味あわせてもらうためか、いつも特別な味がする。

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きよちゃんのエッセイ (164) "タイムトンネル”(Okubo_Kiyokuni)

2023年03月24日 | 大久保(清)

 タイムトンネル

今日は横浜市内で有効の敬老パスが使えず、青葉台駅から東急線を乗り継ぐ久しぶりのパスモでの外出である。昔々、渋谷から山手線で目黒に出たのだが、大井町線が溝の口まで迎えにきていた。乗り継ぐたびにお上りさんのような落ち着かぬ心境で、ホームの案内板を何度も確認しなから、ようやく大岡山駅で乗り換えて、昔の国電目黒駅との位置関係も判らぬままに、ともかく目黒に到着した。今日の目的地は白金の庭園美術館。義妹から美術展の優待券をもらい訪問するのだが、興味の先は陳列品ではなく、それを納めている建物。出不精の男が重い腰をあげてやってきたのにはそれなりに理由があった。これは思い出探しの小さな旅かもしれない。四十七年ぶりのご対面だ。美術館の旧名称は『白金プリンスホテル』(旧朝香宮邸)、上げ底の世界に生きていた若かりし時代、高輪教会で結婚式を挙げ、ここで結婚披露宴を催したのだ。

目黒の駅に降り立つと、目の前をとても広い道路が走っている。『目黒通り』と書かれているが、記憶がなく、美術館への始めの一歩をどちらの方向に踏み出すかわからない。まるで浦島太郎の世界。改札口にもどり駅員さんに道順を尋ねると、庭園美術館への小さな地図を手渡しながら、右に出てまっすぐですよ、と方向音痴の老人にもわかるアドバイスをしてくれた。高速道路をくぐり、公園らしきものを視野にとらえると、久しぶりの東京のためか、なぜか興奮気味で、浅くなってきていた息がようやく深く吸えるようになってくる。

手入れの行きとどいた高くそびえる木々の緑に囲まれた庭園にそろりと足を踏み入れてゆくと、通りからの騒音が消え、前方に、美術館の正面玄関が見えてきた。この風景は見覚えがある。ここで披露宴をやったのです、と、受付のおばさんに余計な台詞を吐いたばかりに、妙に気分が高揚したまま、タイムトンネルに入っていく。格調のあるアールデコの造りであるためか、時代に取り残された、どことなく古めかしい空気が館内に満ちていた。思いでさがしの身には、陳列された作品は単なる古びた装飾品の枠を出ず、目の先は、半世紀前に繰り広げられたはずの宴の痕跡を探し求めていく。色あせてくすみかけた壁の模様、埃のかぶったシャンデリヤにもはや輝きがなく、ここが披露宴の場所であった大食堂と推測されるのだが、思いのほかに狭い。ここが、控えの間だったのだろうか、本当に、五十人余りがテーブルを囲んだのだろうか。大広間の天井を眺めまわしながら、シャンパングラスのぶつかりあう音を耳に呼び起こそうとするのだが・・・・ 久しぶりの遠出から戻り、納戸の奥から取り出してきたうっすらと埃のかぶった披露宴のアルバムを開く、ページをめくりながら、もう会うことがかなわなくなった懐かしい人たちの話声に耳をそばだてる。

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きよちゃんのエッセイ (163) ”雨宿り”(Okubo_Kiyokuni)

2023年03月18日 | 大久保(清)

 雨宿り

久しぶりに雨宿りをした。それも、二日続けて。台風が上陸するとのことで、さきほどから空模様が落ちつかない。忙し気に横切ってゆく白い雲の間から、時折、強い陽射しを投げかけていた青空がみるみるうちに黒雲にその陣地を奪われてゆく。黒い雨雲の出現で日影ができ、頬にあたる風も涼しさを増してきた川の土手道をゆっくりと歩いてきたが、前方から近づいてくる二人連れも、うしろから追い抜いてゆく若者も手には傘を携えて足早に離れてゆく。ツバメが川面を低く飛び始めた。天気予報のお姉さんの言葉は正しかったようだ。ポツリポツリと降り出した小粒の雨がバラバラと音を立て、地面にたたきつける豪雨にかわってゆく。

たっぷりと水を含んだ麦藁帽から滴り落ちる雨粒が目に入り視界が効かない。手をかざし雨宿りの木を求めてあたりに目を配る。白くけむる雨のカーテンの先に畑の仮小屋らしきものを発見。必死にかけ寄ると、栗の大木に寄りそうように建てられた農機具置き場には小さなトラクターの他に、農具らしきものが薄よごれたブルーシートで覆われてぎっしりと詰め込まれていた。かび臭い農機具の隙間にからだを押し込んで、雨を眺めているうちに、なぜか、少年時代の雨宿りのにおいが鼻先に漂ってきた。それは雨に追われて逃げ込んだ倉庫のにおい、校庭の雨を見ながら嗅いでいた下駄箱のにおい。そして、ラジオから流れる 『夕方、ところにより俄雨があります』 との、あっさりとしたアナウンサーの声も、なぜか懐かしく耳元に聞こえてきた。

昨今の天気予報はご丁寧に雨傘の準備まで知らせるせいか、川道に目を向けると、みな、しっかりと傘をさしながら歩いてゆく。要は、天気予報を注意深く聴くか、聴かないかないか、その違いの表れだろうか、と馬鹿な考えを巡らしているうちに、目の前の栗のイガから落ちる水滴が途切れ始めた。

薄日が差し始めた空を見上げながら、川道に繰り出してゆく、その目の前に塩辛トンボが飛んできた。鳥も虫もとても天候の変化に敏感だ。なぜか、歳をとると、昔馴染んだ鳥や虫たちの動きを信じたくなる。もうすぐ、真夏の太陽がまたギラギラと輝き始めるはずだ。

昨日は雨に降られたばかりのはずなのに、ボケ爺さんは、今朝もまた傘ナシで出発した。なんだか、また、雨とにらめっこする、あの少し退屈な、でも、どこか懐かしい時間をもう一度、味わって見たくって。お~、そろそろ降り出す気配だぞ、と、橋の下に駆け込み、しばし雨宿りしてから歩き出す、お~、また来るぞ、と、パチンコ店の野外駐車場の下にもぐり込み、雨宿りの綱渡りしながら家路に向かう。鶴見川沿いには恩田川の畑の小屋の風情はないが、ゲリラ豪雨のカクレ場には事欠かない。これも川沿いの散歩を楽しむ裏技か、と、暇を持て余す老人は雨を相手にひとり遊びを楽しんでいる。

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きよちゃんのエッセイ (162) ”カモメ”(Okubo_Kiyokuni)

2023年03月15日 | 大久保(清)

 カモメ

田園都市線の田奈駅近くの橋にさしかかるや、視野全体が白い鳥の乱舞に埋まってしまった。朝陽を浴びて白く輝く鳩の群れが中空を楽しげに飛びまわり、川面に降りたった仲間たちはクルッ、クルッと向きを変えながらゼンマイ仕掛けの鳥のように忙しく泳ぎまわる。この華やかな鳩の動きに目を奪われていたが、なんだか少し違和感を覚え始めた。鳩は水に浮かんで泳ぐだろうか・・・

目の前のフェンスにとまった灰白色の鳩をじっくりと観察し始めた。少し離れたとこでヒョコヒョコと歩く鳩と少し違う気もする。この鳩は赤いくちばしに赤い足、可愛らしいというよりも、どこか、剽軽な、とぼけた小さな目、この目の傍に、もうひとつ小さな目があるような黒っぽい羽模様がある、尾羽は黒や白や鼠色とそれぞれ色は違う。鳩たちに餌をやっているお婆ちゃんが得意げに教えてくれた。「今日のように晴れた日にはね、いつもやってきてここで遊ぶのよ、陸カモメという種類よ」 それから数週間たったころ、川のフェンス際に三脚をすえ、シャッターを切っているおじいさんに問うてみた。これは俗にいう陸カモメなのでしょうか? カメラのレンズから目を離した爺さんは、親しみのこもった顔でゆっくりと話し始める。これはねーユリカモメと言って、冬場に海の方から川に沿って上がってくるんだよ」ユリカモメはよく知っている名前である。まだ仕事をしていた頃、この名前の電車に乗り港湾局の現場事務所に何度も足を運んでいた。夢の島の護岸設計を担当していたが、東京湾の柔らかい土層の上に建設するため滑りやすく、頭を悩ませていた時のことが目の前に蘇ってきた。陸にいるので陸カモメとの名称で十分満足していたのだが、博学のおじさんに教えられたばかりに、散歩の心地よさが消えかけてきたのだが、パソコンで検索してみると、面白い発見をした。この鳥の和名はあの日本文学に登場する由緒ある『都鳥』と書かれている。和泉式部も詠みあげた、あの鳥とおなじらしい。十二単の絵巻物の世界で貴族たちが愛でた、その鳥の末裔が我が町の恩田川で平成の老人の目を楽しませている。そう想像するや、ユリカモメの可愛らしさがにわかに増してきた。今日もいつもの陽だまりでお婆さんがパン屑を投げ与えている。海でもまれて育った都鳥の動きはとても敏捷だ。鳩は豆鉄砲をくらったかのようにぱちくりして、カラスの軍団は川には近づけず電線にとまり、永年棲みつく鯉たちも口をパクパクしたまま餌をとられっぱなし。おっとりした川育ちの住人には少し迷惑かもしれないが、冬の一時、この白い軍団の乱舞は恩田川の散歩人にとって楽しみの一つになってきた。

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きよちゃんのエッセイ (161) ”料理”(Okubo_Kiyokuni)

2023年03月03日 | 大久保(清)

料理の本

年の瀬になると、我が家の台所に必ず現れる本がある。それは『主婦の友』が発行した料理の本。家人の嫁入り道具で持ち込まれてから50年も経過しているためか、黄ばんだページはめくれ上がり、背表紙は消え失せ、装丁は崩れ、セロハンで何重にもとめられてかろうじて形をとどめている。表紙の色も飛鳥古墳の壁画なみに色褪せてきているが、家人はお正月料理をする際に、物覚えが悪くなったのか、今でも、必ず、お正月のページを開き復習をしてから料理にとりかかる。律儀というか、まだ覚えられないのか、よくわからない。使い込まれた料理本を眺めていると、まだ結婚してから日の浅いころを思い出してきた。帰宅して、夕飯のテーブルにつくと、なぜか茶碗蒸しがのっていた。嫁入り道具の食器セットには、茶わん蒸しの碗がついていたためなのか、母親に教えられたのか、旅館ではないのだから、そこまですることはないけどな、と思いつつも、美味しそうな顔をして、黙ってスプーンですくっていた。これは、おそらく、父親が欠かさなかった習慣であったのだろう、それに見慣れていた家人は、男というものは晩酌を嗜むものだと頭に刻みこまれたのかもしれない、毎晩、お燗をした酒が食膳に並べられた。歳をとると、小さな食堂で味わった懐かしい光景が蘇ってくる。結婚五十年、このくすんだ料理本には、彼女の想いがしみ込んでいるかもしれない。子供たちの誕生会、会社仲間を招待した夕食、夏の暑い日、冬の寒い、雪の降る日、こちらと喧嘩をして口をきかなかった日、・・・風邪を引き熱のある日、・・・・。彼女の胸の内を一手に引き受けて、黙って一緒についてきた、思い出がいっぱい詰まった本だろう。本のページの間には、様々なレシピが挟み込まれ、たくさんメモが書かれている。この本は彼女の人生そのものかもしれない、と思いつつ、指の動くままにページをめくっていると、巻末にあるはずのページが突然、姿を現した。

『主婦の友社』定価590円

献立とおかずの365日

昭和44年11月発行

そうなんだ、この本で今まで食わせてもらったのか、と、本に鼻を近づけて、昭和のかおりをあらためてかがせてもらった。

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