筍(たけのこ)
夕方にこんなメールが飛び込んできた。『たけのこ、お好きですか、本日、たけのこ堀りに行ってきました、何本か採れまして、今、ゆでています、よろしければお届けに上がります』 この掛け声に反応したのか、半世紀前の、同じような懐かしい光景がふっと脳みそに蘇ってきた。『フキノトウたくさんもらってさ、天ぷら揚げているんだけど、食べてくれる、あとでもっていくから』と、お隣さんの庭先から大きな声。向こう三軒両隣の時代、こんなやりとりは夕方の定番。さっき別れたばかりの遊び仲間が嬉しそうに、大皿一杯に盛られた天ぷらを運んでくる。すると、母が慌てて、台所から我が家の夕食で見栄えがよさそうなものを一品選んでお返しに持って帰ってもらう。これで、どちらもおかずが一品増える。我が家のいつもの定番料理と一味違う、出前の味がとても楽しみだった。他に、何をご馳走になったのか、覚えていないが、それは昭和の時代のとても懐かしい夕暮れどきの風物詩だった。
歳を重ねると頭のめぐりは遅くなり、からだの動きも衰えるのだが、その分、なぜか、四季の変化に敏感になってくる。生存本能は依然として健在ゆえ、行きつくところは、季節の到来を目で知らせてくれる食べ物へ関心を強まってゆく。この結果、若い時には特段の興味がわかなかった旬の野菜が気になり始める。春を知らせる、新じゃが、新玉ネギ、新ゴボウ、春キャベツ、・・。どれもこれも、みずみずしく、柔らかく、甘みがあり、薄味で素材をそのまま生かした季節の味を丸ごといただく。この当たり前が貴重なのだと、このごろやっと気が付き始めた。やがて、土に還ってゆく我が身が遅ればせながら、土のにおいを意識し始めたのかもしれない、老人のからだが自然に受けつける生理現象なのだろう。温暖化のせいか、ハウス栽培の技術が進歩したためか、近頃、季節の輪郭がぼやけ、市場に出回る期間も間延びしてきた感じだ。そんな中で、天然ものは年ごとに市場に現れる時期が微妙に変化し、その期間も短い。一年間、待ちわびていた分、食感がとても鋭敏なせいか、その味は一味も、二味も違う。
家に届けられた初堀りのたけのこは、とても柔らかく、ほんのりとした甘みが舌先に残り、だし汁で炊き込んだご飯に混ぜて食すると、爽やかな春の香りが口いっぱいに広がった。旬のいただき物は、自然が育てた風味に加えて、贈り手の真心も一緒に味あわせてもらうためか、いつも特別な味がする。