クライペダの散歩 (4)
フェンダー脇のポールに『日の丸』の旗が翻っている。長距離ドライブの跡を物語るように、ボディーに汚れが目立つボルボの前部座席に座り、首をひねりながらデンマーク大使への対応をしていたが、最初のお言葉は、日没は何時頃だろうか、と港への公式訪問に来られた閣下の胸の内を量りかねる質問から始まった。話の雰囲気から察するに、もちろん、リトアニアへの旅の目的はクライペダ港の現場視察であるが、時間が許せば、港から100kmほど続くロシア領カリニングラードまでの世界遺産クルシュー砂州にご興味がおありのようだ。巨大な砂漠のような砂州の散歩は地元の人に誘われるたびに逃げ回っていたのだが、閣下の希望となれば同伴せねばなるまいと覚悟を決め始めた。
首都ビリ二ウスから運輸大臣も参加した歓迎会は、港の傍の高級ホテルでつい先ほど無事に終了したばかりだが、ロビーより一歩外に出ると、生憎の雨模様。9時の日没時間までまだ十分に明るさが残る空を見上げつつ、しばし考えこんでいた大使から思わぬ提案があった。「砂州見学は取りやめて、ワインをたっぷり積んできたから、君たちと一緒にどこか静かな場所で飲みなおそう」 そう言い終えた、洒落たレインコート姿で前を歩く閣下からは先ほどまでの格式ばった雰囲気が消え去り、肩の力が抜けきった仕事帰りのスマートなおじさんになっていた。
更なる日本の援助を期待しつつ夕食会に駆けつけた運輸大臣を前にして、旧ソ連から離脱したリトアニアはこれからEUにお任せして、日本のサポートもこれで終了です、と言いづらい話を終えてホッとしているところなのだろう。これから裃を脱いで無礼講で飲みたいのだろうか、だが、ホテル住まいの身としてはワイン持ち込みの静かな場所のあてはない。急遽の一策で、仲間の一人が借りている廃屋同然のアパートに携帯電話を入れた。こちらのホテル代3日分で一か月ほど借りられる古屋ゆえ、外壁のモルタルは剥げ落ち、レンガがいたるところで顔を出している年代物だ。だが、部屋に一歩入ると、家具は古びているものの、ゆったりとくつろげそうな空間が広がっていた。まずは大使の希望に添えて一安心。
本国より持参されたワインはさすが、大使が保証する一級品ばかり。ホテルの歓迎会でかなり飲んでいた面々も、あの有名なカナの結婚披露宴ではないが、=後からこれほどの上質のワインが出てくるとは=、と聖書の一節を字で行くような嬉しい時間が続いた。大使とお別れし、大量のワインを運ぶためには、やっぱり、ボルボの応援が必要だったのだのだな~、と酔いが回った頭が勝手に考え始めたのだが、車の中で、絶えず電話が鳴っていた事を思い出す。秘書らしき女性の声が聞こえていた。おそらく車がコペンハーゲンの大使館の執務室の代わりなのだ。地図を広げてみると、フェリーでバルト海を渡ればデンマークはとても近い。ワインを運ぶためだけではなかった、と、酔った男は誰にも言えずに一人、深く反省し、納得する。