台湾の消えゆく残り火
先日台湾を旅行してきました。以下台湾レポートです。
引退後、過去に駐在したことのある大陸と台湾を、毎年旅行してきました。しかし昨今、大陸に行ってもあまり愉快なことがなさそうなので、台湾に年2回行くようになりました。
台湾に初めて出張したのは28歳の時です。当時、ビジネスはすべて日本語で済みましたし、タクシーに乗るとほとんどの運転手が日本語で話しかけてきました。午前中に顧客を訪問すると、必ずと言ってよいほど昼食をご馳走になったという記憶があります。
一方、政府当局は「日本色を一掃せよ」との方針で、日本時代の鳥居(神社は戦後すぐに撤去済)、モニュメント、墓石、「踏切注意」などの表記が一掃されていました。44歳で駐在、赴任した時、日本語でビジネスできる顧客は限られてきましたし、タクシーの運転手が日本語で話しかけてくることもなくなりました。
街はすでに「日本色」は一掃されていましたが、台湾総督府をはじめとする壮麗な建築物、学校、そして日本人が退去した日本家屋はそのまま使われていました。最近、台湾では鳥居や日本式灯篭が復活したり、映画「KANO」にも登場した烏山頭ダムを構築した「八田与一」の旧居が復元されるようになりました。
これは日本時代への懐古ではなく、台湾の自立自強への自信とみるべきでしょう。八田与一の旧居は、いまや日本でも見ることのできない昔懐かしい日本家屋で、家に上がると樟脳の香りが仄かに漂ってきました。
この家屋は早稲田大学の建築科に留学した「郭 中端」という人物が日本から図面を取り寄せ忠実に復元したそうです。
さて先般、台北の保安宮という孔子廟を散策していたときのことです。どこからともなく日本語と思しき歌声が聞こえてきました。思わず近づいてみると、付属の公園の一角で老人ホームの人たちが介護人に付き添われ「ここに幸あり」を唄っていました。
数年前のこと、この公園で元気のよい老人たちがカラオケで「骨まで愛して」を唄っていたことを思い出しました。彼らは、日本統治時代の生き証人であり、その彼らも老人ホームに入所し、いよいよ消えゆくことを実感した次第です。
我々もすでに古希を迎え、つらつら現役時代を顧みると、格別面倒を見てきた部下が必ずしも自分に感謝しているわけでもなく、反対にごく普通に接してきた部下が自分を慕ってくれていたことを知り驚くことがあります。
朝鮮と台湾を比較した場合、朝鮮は明らかに持ち出し、台湾は統治初期は持ち出し、後期回収というのが一般的評価であります。
にも拘らず、両者の相違は、まことに興味深いものがあります。陸軍統治と海軍統治、両者の国際感覚の相違が齎したという俗説をはじめ、土地生産性の差による飢餓感の有無、両者の歴史、国民性の違いなど諸説紛々です。
ところで沖縄問題は安倍政権の命取りになるやもしれず、沖縄は戦前も戦後も持ち出しで、戦前は台湾に依存し、戦後は本土に依存してきた。先に領有(この表現は適切でないかも)した琉球に、まともな鉄道は敷設されず、あとから領有した台湾には内地と同じ規格の鉄道が敷設された。沖縄に敷設するメリットがなかったからに他ならない。
台湾や朝鮮統治の教訓から、そもそも人はお金を貰ったから大人しくなるものではなく、様々な面で慎重さと機微を解するが求められるところである。
一月の同窓会で皆様にお目に掛かれれば幸いです。
(Yonezawa_Kenji)