栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

近況報告(Fujitaka_Ichiro))

2011年11月29日 | 藤高・藤村・牧野

 

持ち上げられたのか貶されたのか分かりませんが、藤村氏からのご指名なので、近況を報告します。

 

大学卒業以来、NECの半導体部門で働き、米国子会社の技術支援で頻繁にシリコンバレーに行っていました。いつ頃だったかは失念しましたが、サンフランシスコから帰国する便で、偶然に藤村氏と遭遇しました。栄光卒業の後は別の道を歩み、没交渉だった旧友とバッタリ遭遇すると言う出来事に興奮したものです。それ以来、私がNECを退職するまで、米国で公私共にお世話になりました。

 

さて、私自身ですが、NECで担当していた組織の将来構想で上司と意見が対立し、54歳の時にNECを退職、仙台に本社のあるトーキンと言う電子部品メーカーに移りました。この会社では、部品素材を利用した「電波暗室(電波の無響室)」と言う建設事業を展開しており、その設計と施工を数年間経験しました。子供の頃から、機械や電気の工作が飯より好きだった私にとっては、長い会社生活の中で一番楽しかった時期でした。

 

トーキン時代は、日本的経営に固執する老害排除のため、役員の60歳停年制を推進し、私自身も 60歳で退職しました。それ以後は、ずっと年金生活者で過ごしております。最近になり、昔世話になった会社も、日立の半導体部門との合併など、時代の荒波にもまれて大変な状況になり、のんきに年金で生活しているのが何か申し訳ない気がしています。

 

退職後は、地元の地域活動に色々顔を出すようになり、昔は全く無縁だった地域の人との人脈が広がっています。全く違う経歴をもつ近隣の人々と縁ができるのは、なかなか楽しいものです。具体的には;

・地域の病院の備品(点滴スタンド、薬品ワゴン)などの、点検、清掃のボランティア

・大地震発生時の避難所開設、運営に関わる運営委員会委員

・地域の高齢者生活支援活動

・市主催の「学習講座」でDIY教室の講師

などを頼まれ、結構忙しい日々を送っています。

 

レクリエーションは、私はゴルフはやらないのですが、海のそばで育った影響で学生時代に始めたヨットを今でも楽しんでいます。最近の若い人は体が汚れるスキーやマリンスポーツを敬遠する人が増え、ヨットハーバーも一部のお金持ちを除けば昔から顔見知りの老人ばかりになり、後継者不足に悩んでいます。

 

体の方は、3年前から前立腺癌のマーカーであるPSAが上昇し、何度も組織検査を受けさせられ、昨年やっと癌細胞が見つかりました。手術は避けて放射線治療を選択し、今年の春に治療を終え現在経過観察中。まあ、再発しても、進行が遅い癌なので、私の寿命の方が先に訪れるらしいです。

 

私個人の近況はこんなところですが、最近どうしても腹に据えかねる事があるので一言。311の大震災で被災した東電福島原発で、千種さんが詳細な経過分析をされていますが・・。事故後の飛散物質の処理について、税金が浪費されている事に憤りを感じます。

 

そもそも、今回の事故でばら撒かれた放射性物質の拡散元は「東電」でしょう。これは歴史的に考察すれば、明らかな“公害”です。でも原発を推進した政府、官庁は、天下りの受け皿になっている東電を擁護して、一切“公害”と言う言葉を使いません。その政府に嫌われたくないのでメディアも、“公害”と言う表現を使わないのでしょうか?

熊本水俣のメチル水銀化合物や、富山イタイイタイ病のカドミウムと、今回東電がばらまいたセシウムなどの放射性物質は同じでしょう。なぜ誰も「公害」と言わないのでしょう。

 

さらに言えば、各地の土壌、作物を放射線で汚染したのは、東電の原発事故が原因であることは自明です。自動車のリコールを見れば明らかなように、市場にばら撒いた問題因子を回収するのは、その因子を発生させたメーカーの責任ですよね。現在、各地で放射線で汚染された土壌や焼却灰の処理に、なぜ税金を使って苦労しているのですか?

 

冷静に考えれば回答は明らか。処理に困っていると言うこれらの廃棄物は、その拡散元の「東電」に引き取らせれば良いだけの話です。かつての公害事件では、すべてそのような解決策が取られているのに、東電の事故だけはなぜそのルールを適用しないで各自治体が苦労しているのでしょう?東電は、東京ドームが何十個にもなる広大な土地を所有しているのですから、放射線残土などを引き取る事に何の問題もないはずなのですが。

この政府主導の情報統制と東電擁護の話は先が長いので、この辺で止めておきます。

                             (藤高*一郎)

 

 

        2011/10   兵庫県玄武洞にて  手に持っているのは山登り用の杖

さて、次回の近況報告は、リモートセンシングで日本をリードしてきた、下田陽久さんにお願いします。

 

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ブログを見て思う。(Mizuno_Nobuyoshi)

2011年11月21日 | 増山・松信・水野

 ブログを見て思う、「どれもまともだ。」兄貴から「お前はフーテンの寅だ。」といわれた身としては、むしけらなどのうめきを少々吐露しなければと思い書きました。

先日山道を歩いていたら、これから冬に向かうというのに、セミの幼虫がふらついていて、訴えてきました。「私が頼りにしていた木々が急傾斜対策事業とかで全部切られてしまい汁液が吸えなくなり、腹がへってしょうがない。周りにいたミミズも、ムカデも棲家をうばわれた。古来日本人は、我々の棲家を奪う時は地鎮祭をして我々に許しを請うたものだが、最近はいきなり強行してくる。あげくのはて以前は熱を吸収した緑地が、熱を発するコンクリの壁に変わってしまう。もう冬はこせない。」

 そういえばわが町のセミの声がいささか静かになったと思いつつ、歩いていくと小川にでました。その川は三面張りでちょろちょろの流れに痩せて睡眠不足の眼をしたウナギがいました。「三面張りなのでエサとなるヨシノボリもヌマエビも棲めなくなり、カワムシもめっきりへった。また、私たちがねぐらとしていた石の下、石積の隙間がなくなってしまったので寝ることもできない。これでは産卵にはるか南の海になどとうてい行けない。」と嘆いていました。

 昔は沢山いたゲンジボタルもめっきり減ったと思いつつ更に歩いていくと、大きな川にでました。すると今度は8月というのにシコイワシのようにこぶりのアユ達が口々に文句を言ってきました。「河川改修とかで大きな石を川の両岸に押しやってしまい、流れはザラ瀬ばかりなって我々が食べるコケが十分確保できない。まともに産卵できるか心配だ。」もっともだなと思い川を下ると海にでた。恵み多い海だとほっとしていると、今度ははらぼてのカレイが思案顔でうろうろしていました。「最近は浅い海がすくなくなり、卵を産んでも子供達が育つ場所がない。もっと適当な場所を探そうかな。」と思案しているとの事。するとやはりはらぼてのハゼが「私も困っているんだ。海底で産卵用のトンネルを掘ろうとしても海底がヘドロ化しているのでトンネルが崩れてしまうので産卵ができない。」

どこにいっても愚痴を聞かされるばかりなので、フーテンの信の足はやもうえずパチンコ屋に向かうのでした。その時、フーテンの信の頭をよぎるなはなぜか釈迦の姿でした。

            

 

 

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近況報告(Fujimura_Michio)

2011年11月12日 | 藤高・藤村・牧野

卒業以来、ホンの一握りの同窓生以外、お目にかかる機会が無く、近況報告と言っても増山さん同様、卒業まで遡らざるを得ません。 

大木神父様のご指導の下、卒業したら神父になる事を目指して上智の哲学科に行く予定にしていましたが、神父になる前「受験戦争経験」ぐらいはしておくべきだ、と受験した中央大学からも合格通知を受け取っていました。つまりはお袋の絶妙な策略に嵌って、神父への道を一旦棚上げして、中央大学の法律へ進みました。一つ事に嵌って仕舞う私の事ですので、今度は司法試験に大学生活を賭けてしまいます。しかし、それも卒業間際に沸き起こった「青年法律家協会」問題で日本法曹界への失望感から就職への道を選ぶことになり、入った先がイタリアの事務機メーカー、オリベッティーの日本法人です。

先の司法試験同様、矢張り一つ事に嵌った私はオリベッティーでも置かれた立場で他に負けたくない為頑張りすぎた様です。2年連続記録的な営業成績を残しましたが、其のお陰で身体を壊し、マーケティングへ移されました。でもそこは私の将来を決定付ける部署になりました。其の頃丁度オリベッティーは欧米で「電子計算機」を事務機に組み入れた商品を出した直後で、配属先は日本での販売準備を始めた最前線の部隊でした。日本での導入を模索するため、オーストラリアを始め欧米各地に此の商品の販売方法やアプリを調査に行き、無事74年に日本での販売を成功させました。此の成功は其の後、丹下健三氏がデザインしたオリベッティー港北技術センターに商品の名を冠して「TC800ビル」と呼ばれました。 

 

私自身は其の直後の75年から80年までイタリア本社中央研究所に移籍し、通信ネットワークの開発を担当すると同時に、通信ネットワークの国際標準化に絡んだり、シリコンバレーの研究所の創設を行いました。そのシリコンバレーでの経験がやがて私自身シリコンバレーに移る決意をさせて呉れました。つまり、オリベッティーの仲間数人と一緒にシリコンバレーで1983年に会社を設立致しました。此の会社(DAVID Systems社)は会社としては成功しませんでしたが、現在のITや通信に大変大きな影響を与えた10/100BaseTSwitched Ethernetといった技術を世に出しました。

 

その時の経験を生かし、1988年から15年間シリコンバレーで会社設立や資金調達等、起業家をお手伝いする仕事(Vanguard Systems Consulting社)をしました。その最後の年、つまり還暦を一年後に控え、どの様に引退生活をおくれるか悩んだ末、機関投資家より資金をお預かりする事を決め、所謂ハイテク・スタート・アップ企業に投資をするベンチャー・キャピタル(ATA Ventures社)を2004年に設立しました。現在まで$450Mの資金を運用しています。仕事柄、2019年までは現役でいなければ成りませんので、せいぜい身体には気をつけてやって行く積もりです。

 

もし私のより詳細な経歴やATAの投資先等にご興味が有りましたら、ataventures.comをお訪ね頂き、ご笑読下さい。

最後に、一時期ではありますが我々同期で唯一人一緒に仕事をし、その仕事ぶりをシッカリ拝見させて貰い、日本人には中々見かけない歯に衣着せない物言いで、私の人生に大変大きな影響を与えた藤高君に次の近況報告をお願いします。

                                (2011/11/12)  藤村道男

                         ATA Ventures のHPよりダウンロード。 右端が藤村君

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2011年秋 11期ゴルフコンペ報告

2011年11月01日 | ◆行事報告

2011年10月20日、葉山国際カンツリ-クラブにて、11期ゴルフコンペが開催されました。

朝7時前からプレイヤーが続々登場し、久しぶりに顔を合わせた人たちで、それぞれ近況報告に花を咲かせました。

米国から急きょ戻って参加された方や、卒業以来48年ぶりの再会など、スタート前にさっそく楽しいひと時を過ごしました。 8時には参加者13名が全員顔をそろえ、記念撮影の後コンペがスタートしました。

強風に悩まされ、またアップダウンのきつい葉山国際の難コースに悪戦苦闘しつつも全員無事にホールアウトしました。終わってみれば、適度の曇天で暑くも寒くもなく快適なゴルフでした。スコアはベストグロスの86から118までと、ばらつきがありましたが、皆それなりにラウンドを楽しみました。

その後のパーティでは、まず会費・罰金の徴収、賞金の贈呈で盛り上がり、懇談の時を過ごしました。最後にお互いの健康を祝し合い、再会を約してお開きとなりました。ご参加の皆様、ありがとうございました。

 次回は2012年5月17日(木)です。皆様のご参加をお待ちしております。

                                      (渡辺正輝)

 

 

 

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