栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

【訃報】菊野俊煕先生

2017年12月28日 | ◆お知らせ・行事案内

栄光学園11期の皆さま

同窓会事務局から
菊野俊煕先生の訃報がはいりました。
転送致します。
私には、ハンサムな漢文の先生のイメージが
強く残っています。ご冥福をお祈りいたします。

     (合掌)

------------------------->
 
> 1期から18期の委員の皆様> 
> 今年も大変御世話になり有り難うございました。
> 田浦時代に、国語・漢文を教えていただいた
> 菊野俊煕先生が12月15日に83歳でお亡くなりになられたとの連絡頂きました。
> 菊野先生は栄光学園で教鞭を執られたのちに、神奈川県立高等学校に異動されて、最後は県立清水ヶ丘高等学校の校長先生でご退職されたとのことです。
>
> 先生のご冥福を心よりお祈り申しあげます。
>
>
> 同窓会事務局 吉田
>

 

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きよちゃんのエッセイ (85)”聖夜”(Okubo_Kiyokuni)

2017年12月18日 | 大久保(清)

 

 聖夜

 港の倉庫が並ぶ海岸通りの薄汚れた雑居ビルの二階。ペンキの剥げかけた低い天井に、むき出しの蛍光灯、油で黒ずんだ床板、大部屋の窓から流れ込むなまぬるい潮風にオイルの匂いが混じりこむかぎりなく場末に近い事務所で働いていた。

 フィリピン人は、インドネシア、ベトナムやタイの東南アジアの人々と比べ底抜けに明るいのだが、ノリがよい分、とてもかしましい。机の上のラジオからはタガログ語の音楽が流れ続け、絶えずわき起こる理解不能の笑い声に包まれて、頭の芯にたまった疲労感が抜けないままに毎日が過ぎてゆく。

お喋りの発信地は部屋の真ん中に座る歳を召した建築屋さんだ。浅黒く、髪がちじれた、昔、懐かしい花菱アチャコに似た容貌で、たえず笑いの渦を巻き起こし、沈黙の時間は五分とは続かない。この国ではこの種の年寄りが好まれるのだろうか、ボスも注意を与えるわけではなく、雇われの身としては逃げ場もなくあきらめの境地で淡々と積算業務をこなしていた。

ある日、アチャコさんが、めずらしく真顔になると、口から泡を飛ばさんばかりの勢いで若いエンジニアと言い争いを始めた。なにやら、トイレの話、それも、便器の仕様について議論している。現地人同士で言い合いでは、現地語になるのが相場だがエンジニア達は、英語が堪能だ。

彼の言い分は、港の労務者の便所に便座付の便器など馬鹿じゃないの・・、すぐに、蓋がなくなり、便座も取り去られ、便器は汚物でいっぱいになり掃除不能だよ、と息巻いている。結局、図面は『しゃがみこみタイプ』に差し替えられた。後日、CISの国で彼の言わんとしていたことが十分に確認できた。お喋りだが、ポイントは外さない苦労人である。

 フィリピンはキリスト教徒が多いとは知っていたが、十一月に入ると、早々とクリスマス・モードの回路が接続され始め、女性陣のテンションは上がり、見ず知らずのおばさんたちが事務室に出入りし始める。彼女らの持ち寄りの自家製のケーキを切り分けて、長話が続く。タガログの有線放送がもう一局、開設された雰囲気だ。

 ラジオのクリスマス・ソングが熱を帯びてくるなか、遠くの島へ帰省するものもあり、設計の分担業務を終えたものたちは、毎週、一人、二人といなくなる。設計が終了してから積算のまとめが始まるため、他に残業をする者もおらず、皆、早々とパーティーに繰り出して静かになった事務室で黙々と電卓をたたいていた。

だが、部屋の真ん中でもう一人、頑張っている男がいた。アチャコさんだ。建築施設はフィリピン仕様が多く、居残って助け舟を出してくれた。にやけていた口元がしまり、眉間にしわを寄せ真面顏になっていた。薄暗い部屋にポツンと卓上ランプの明かりが灯り、電卓をたたく音が鳴り響く。部屋の隅ではネズミがこぼれたケーキのかけらをかじっている。あれは、マニラの聖夜だったのかもしれない、と、男二人のクリスマス・イブを、このごろ懐かしく思い出している。

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きよちゃんのエッセイ (84)”プロポーザル”(Okubo_Kiyokuni)

2017年12月07日 | 大久保(清)

 プロポーザル (設計提案書)

 ―No Wayー、と言うや、タイプ原稿を後ろ手に隠すようにしたまま、綺麗な目を吊り上げて本気顏で睨まれた。タイプ修整が続き、タイピストも我慢の限界に達したらしい。もう修正は打ち止めよ、との意思表示である。

バンコックのシーロム通り、タニヤに近い事務所でプロポーザルを書いていた。

当時はワープロもなく、ホワイト液で修正箇所をマスキングし、その上にタイプを打ち込んでいく。幾度も重ねうちをしていくと、できもののように膨れあがり、今にも噴火しそうになる。今では想像すらできない手作りの時代の出来事だ。

タイピストとのやり取りはいつものことだが、国が変わると文化の違いも体験する。タイ国で始めての港湾案件であるため、表紙のデザインを外部の専門家に依頼した。パタヤに近い、本命案件の表紙は黒地の布装丁、ブルーとグリーンの文字をあつらえたとてもシックな出来栄えで、パリジャンも満足させるほどの自信作であったと自負していたのだが、現地コンサルの社長はご立腹だ。喪服で入札に行くのかと予想外の評価をうけた。ここには黒服の神父さんもシスターもいない仏教国なのだと気が付いたが後の祭り

穴馬として準備していた案件の表紙はピカピカの白地にブルーの文字、爽やかな結婚式カラー。現地スタッフは気に入ったのか俄然、熱が入り、こちらも頑張りすぎて、タイプ修正の拒否に至ったわけである。

  最盛期には、事務所の中は戦場さながらの機関銃のようなタイプの連打音が深夜まで響きわたり壮観な光景を呈していた。二週間に及ぶタイプの騒音も静まり、タイピスト同士の楽しそうな喋り声がフロアーに戻ってきたころ、ようやく印刷作業が始まった。

プロポーザルは入札までは極秘書類に属し、印刷は外注できない。ここで、事務所のゼロックスが活躍するわけだが、印刷枚数も数千枚に及び、連続運転をすればエンジンが焼け、ゼロックス作業はポンコツ自動車で箱根越えをするような熟練技が必要になる。

 事務所に印刷のプロがいた。小太りの雑用係のおばちゃんは、自信満々の顔つきで急坂をグイグイとアクセルをふかし続けて登っていく。絶えず掌でマシーンの温度を測りながら、一台を冷ましつつ、二台目にゼロックス用紙を入れ、ソナーを足すたびに、エンジンのニオイをかいでいた。

印刷が終了したところで、事務所にいる全員が集合し、机の上、椅子の上は勿論、床の上も、平らな場所はどこでも、一人歩けるスペースを残し、まだ生温かい用紙を隅から順に置いてゆく。全員が一列になり、一枚ずつ拾いあげながら、グルグルと一巡し終わると最終の製本位置に積み重ねる。

原始的な製本作業だが、プロポーザルに関わった人が全員で、今までの苦労を胸の内に思い出しながら、一仕事をやりおえた充実感を分かち合うとても大切な儀式である。

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