栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (69)”鹿皮のコート”(Okubo_Kiyokuni)

2017年01月19日 | 大久保(清)

  鹿皮のコート

  まだ若い頃、皮のコートに興味を持った時期があった。馬車道通りにあるレザー専門店にやってきたが、品ぞろえが豊富で迷ってしまう。

初心者としては無難なシンプルな黒のハーフコートを手にしてレジの前に立つと、カウンターの上に陳列品のカタログがのっていた。その表紙には、とても洒落た黒いコートをまとった彫の深いハンサムな中年の外国紳士が映っていた。

棚から外してもらった実物もカタログと同じで、皮の素材が際立っている。見とれていると、鹿皮はやはりレザーとしては一級品ですよ、と誘うような店の主人の甘い声が背中から聞こえてきた。確かに風格がある、だが、羽織ってみるとずっしりと重い。少し気になったものの、なかなか似合うじゃない、との家人の囁きに力を得て思わず購入してしまった。

 初めての冬。

 冷たく吹きぬける木枯らしにもビクともせず、からだはいつもホカホカなのだが、通勤電車にもまれているうちに、じっとりと背中に汗がにじみだす。こらえきれずにコートを脱いで片手に抱える。まだ新品で見栄えもよく、最初に感じた違和感を、それほど意識していないというよりも、高い買い物でもありマイナス思考を意識的に遮断して、オシャレ心が肩への負担を抑え、満足感が重量感を軽減させていた。

 2年目の冬、

重さというマイナス要因が暖かさのプラス要因と拮抗してきた感じだ。

3年目の冬、

重さの体感がズンズン強まってくる。オシャレもいいが、やはり少し重い。

4年目、また馬車道通りにやってきた。

もう少し軽い、2着目を探す。また、写真カタログを見せてもらう。アイボリーのコートに目がとまった。カバーオールと書いてある。とても洒落ているゆえ、すかさず購入する。家に帰り家内に見せると、

―なかなか、洒落ているけど、下に背広は無理よー

とあっさり言われて、はじめて気が付いた。薄手のセーターがせいぜいだ。通勤用に黒の薄手のハーフコートを買いに行ったのだが・・・・

それから、シカさんと定年まで、腰を踏ん張りながらも仲良く冬を過ごした。だが、皮も老齢化し皺が目立ちはじめ、こちらの体形に寄り添うように丸くなってきた。

いまでは、冬物のコート置き場の隅でいつもじっとお呼びをまっている。年に数回、外に出してもらえるが、いつも寒い冬の日没の時間帯が多い。なにやら線香のにおいが漂うこともある。めったに、昼間の明るい時間、晴れがましい受付のお姉さんの前に連れて行ってもらったことがない。いつも、寂しそうなおばさんの手にあずけられる。

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きよちゃんのエッセイ (68)”節目”(Okubo_Kiyokuni

2017年01月02日 | 大久保(清)

 節目

 日本人は節目を大事にしてきた民族ではないだろうか。四季の変化にも恵まれ、季節の変わり目の行事に加え、歳を重ねる折の祝い事もある。幼少時代の七五三、二十歳の成人式、老人への第一歩として還暦、そして古希、喜寿と続いていく。これらの節目の行事は、己の成長を自覚し、日本人の心を形にする一つの伝統文化でもあった。

 最も大切にしていた年間行事は恐らく正月であろう。外国ではクリスマスが宗教的な祝いと共に、家族のきずなを確かめる大事な日であるが、日本は正月が年の節目の日である。『数えの歳』があった頃には、その重みは絶大であった。年寄りはいざ知らず、子供達にとって正月は一才歳が増え、お年玉に加え、大人に近づく楽しみと緊張があったはずだ。親は親なりに、これに応えて気を引き締めたものだ。残念なことにこの数えの歳は廃止された。そして、日本人が一斉に歳を意識する国として大きな節目が消滅してしまった。

 昔は、乳幼児の生存率は今と比べものにならないほど、厳しい状況であった。この時代の背景を踏まえての七五三の行事であるが、昨今、医療保健制度の目覚しい進歩のために、乳幼児の死亡率は低下し、子供らの無事に育った節目の歳への感慨も薄くなり、商業ベースの色合いが強い。

成人式は、大人の自覚を促す歳の節目であるが、歴史は浅く、自治体のセレモニー、同窓会コンペとなっている。ご隠居さんの入り口である還暦も、平均寿命の延びと共に、定年退職とは行かず、生活の糧を稼がずにはいられない状況に追い込まれ、単なるお祝い事では済まされない深刻な問題を孕んできている。一言で言えば、昔からの物差しで、従来のしきたりを踏襲し得ない時代に入ってきた。

 日本人を囲む生活環境も、高度な経済文明の進展と共に、衣食住の豊かさは異常なほど、で、正月のお祝い料理は、日々の食卓を飾り、年に一度の晴れ着は、毎日の外出着となり、昔の特別な行事の引き立て役は日常化し、特に節目を特徴付ける形が消えてしまった。科学技術も進み空調設備が、季節の温度感覚を麻痺させ、毎日の生活温度も機械に支配されつつある。季節の節目もぼやけてきた。

  この先、何か見えない世界に入り込んでいく気もする。アナログは人間の本質の中で、まだ見える場所にあったが、デジタル化は完全に機械の迷宮に入り込み、何か温かみ、人間らしい感覚が薄れていく。時代の流れが速く、過去を振り返る時間、節目を意識するゆとりもなくなった。日々の生活の営みを確認し、新たな決意を固めて進む、心の形を作ってきた節目はもう無くなっていくのだろうか。何故か、節目のないプラスチックの竹の林に迷い込んできた気もする。

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