鹿皮のコート
まだ若い頃、皮のコートに興味を持った時期があった。馬車道通りにあるレザー専門店にやってきたが、品ぞろえが豊富で迷ってしまう。
初心者としては無難なシンプルな黒のハーフコートを手にしてレジの前に立つと、カウンターの上に陳列品のカタログがのっていた。その表紙には、とても洒落た黒いコートをまとった彫の深いハンサムな中年の外国紳士が映っていた。
棚から外してもらった実物もカタログと同じで、皮の素材が際立っている。見とれていると、鹿皮はやはりレザーとしては一級品ですよ、と誘うような店の主人の甘い声が背中から聞こえてきた。確かに風格がある、だが、羽織ってみるとずっしりと重い。少し気になったものの、なかなか似合うじゃない、との家人の囁きに力を得て思わず購入してしまった。
初めての冬。
冷たく吹きぬける木枯らしにもビクともせず、からだはいつもホカホカなのだが、通勤電車にもまれているうちに、じっとりと背中に汗がにじみだす。こらえきれずにコートを脱いで片手に抱える。まだ新品で見栄えもよく、最初に感じた違和感を、それほど意識していないというよりも、高い買い物でもありマイナス思考を意識的に遮断して、オシャレ心が肩への負担を抑え、満足感が重量感を軽減させていた。
2年目の冬、
重さというマイナス要因が暖かさのプラス要因と拮抗してきた感じだ。
3年目の冬、
重さの体感がズンズン強まってくる。オシャレもいいが、やはり少し重い。
4年目、また馬車道通りにやってきた。
もう少し軽い、2着目を探す。また、写真カタログを見せてもらう。アイボリーのコートに目がとまった。カバーオールと書いてある。とても洒落ているゆえ、すかさず購入する。家に帰り家内に見せると、
―なかなか、洒落ているけど、下に背広は無理よー
とあっさり言われて、はじめて気が付いた。薄手のセーターがせいぜいだ。通勤用に黒の薄手のハーフコートを買いに行ったのだが・・・・
それから、シカさんと定年まで、腰を踏ん張りながらも仲良く冬を過ごした。だが、皮も老齢化し皺が目立ちはじめ、こちらの体形に寄り添うように丸くなってきた。
いまでは、冬物のコート置き場の隅でいつもじっとお呼びをまっている。年に数回、外に出してもらえるが、いつも寒い冬の日没の時間帯が多い。なにやら線香のにおいが漂うこともある。めったに、昼間の明るい時間、晴れがましい受付のお姉さんの前に連れて行ってもらったことがない。いつも、寂しそうなおばさんの手にあずけられる。