栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

きよちゃんのエッセイ (56)”祖母の小包”(Okubo_Kiyokuni)

2016年05月31日 | 大久保(清)

祖母の小包

 想いでは歳とともに少しずつ薄れていくが、食べ物の記憶はいつまでも消えないものだ。祖母との食べ物の想いではたくさんあるが、これは、いつも郵便小包で送られてきた。

 海の向こうの雪国で勉学に励んでいた頃、たまっていた洗濯物も干し終わり、行くとこもなくぼんやりとラジオを聴いている休日、薄茶色の厚紙に包まれた書留小包が届く。小包の表にはしっかりとした毛筆でこちらの宛先が書かれ、その字を見ると懐かしい皺だらけの祖母の顔が目の中に浮かんできた。

包み紐をほどく手ももどかしく、夢中で包装紙を解くと、のり、お茶などの贈答品を入れる化粧缶が現れる。蓋を開けると、ぷーんと、甘い匂いが漂う。甘納豆、麦こがし、かりんとう、五家宝、金平糖・・・どれも駄菓子の類であるが、みんな大好物だ。

 雪の降りしきる津軽海峡を渡るとき、船の甲板から雪のかけらが蒼黒い海面に溶け込む様を見ていると、本州を離れ、最果ての地にきたな、との思いはあったが、祖母も北海道は未開発地との情報もあり、甘い菓子などはなく、厳しい土地で一人寂しく生活していると思っていたのだろう。

石油ストーブにあたり、水蒸気で曇る窓ガラス越しに、寒々とした雪景色を眺めつつ、甘い香りを鼻いっぱいに吸い込み、少しずつ摘まんでいくと、一人住まいの祖母の居間のぬくもりが、味気ない下宿部屋にゆっくりと満ちてきた。

 お菓子便は、社会人になっても続いた。南の国ニューギニアでの一年にも及ぶ現場生活をしていたとき、始めての横文字の宛名書きだろう、一文字ずつ、アルファベットの大文字が万年筆で何度もなぞる様に綴られていた。輸送中にぶつけられ角がつぶれ、少し凹んだ缶の包み紙の上には、切手が帯のように貼られていた。切手代は菓子代をはるかに越えていたはずだ。

先の戦争で多くの兵士がジャングルの中で飢えとマラリアで死んでいる。明治の生まれの祖母のニューギニアでのイメージは、戦時中の記録映画の世界とだぶらせていたのではないだろうか。小包は慰問袋の気持が込められていた気もする。必ず、一枚の手紙が添えられ、季節のたよりが書かれていた。 

 南国の真っ青な空を眺めつつ、飢えの苦しみもなく、宿舎の庭で椰子の葉をゆらす風の音を聞きながら懐かしい甘みを咀嚼していると、灼熱の太陽にのみこまれ、なぜか、北国で体感した微妙な風味は伝わらなかった。だが、祖母の思いを必死に運んできたいびつになった缶を見ていると、擦りきれた赤茶の小包が、とても頼もしく、いじらしく思えてきたことを今も鮮明に覚えている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾訪問記 (Yonezawa_Kenji)

2016年05月22日 | 米澤・渡辺(正)

台湾訪問記

4月中旬、台湾を訪問してまいりました。愈々5月20日に「蔡英文」総統が就任いたしますので、その直前偵察ともいうべきものです。

「蔡英文」総統は多くの人々の支持と、期待を担っての就任ですが、なかなか前途は多難なのではないかと思われます。就任に当たり、大陸政府は執拗に「92合意」を迫っていますが「蔡英文」氏は、「馬英九」政権時代に92合意があったという事実を受け入れているものの、自らは、92合意に対して曖昧な態度に終始しています。

92合意とは「中国は一つであり、その一つの中国とは、両岸の政府が自らが正当と認める政府、すなわち大陸政府は「中華人民共和国」であり、台湾政府は「中華民国」ということになるのです。ならば、何故中華民国はオリンピックで「青天白日旗」を掲げることができず、「チャイニーズ台北」という得体の知れない旗を強要されているのか疑問なのです。

そもそも「一国両制」や「92合意」なるものは、支那的なマヤカシであり、この「チャイニーズ台北」旗の強要にマヤカシの本質が見え隠れするのです。とはいえ、すでに台湾経済は大陸なしに存在し得ず(実は我が国も)、大陸がその気になれば、台湾経済は危機に瀕し、民進党への期待は失せ、巷に怨嗟が満ちることとなります。

一方、大陸も一枚岩というわけではなく、今後如何なる展開になるのか全く予断を許しません。さて対日関係について、基本的には親日政権とみてよいのですが、大衆迎合型政権であることから、案外つまらない案件で拗れてしまう懸念もあるのです。

意外にも国民党政権においては、知日派が層をなしていましたが、民進党政権には知日派が少ないというのも気がかりです。巷の評判では「蔡英文」氏は極めて聡明な人物であり、これから山積する困難を乗り越えていくであろうと期待されています。

以前にも、レポートしたと記憶していますが、「蔡英文」氏には結婚歴はありません。若き日、将来を共にすると決めた人物がいたそうですが、早逝したため、そのまま独り身を通しているそうです。

祖父は原住民すなわち高砂族で、母親は台湾人とのことです。戦後蒋介石とともに台湾に渡来した外省籍の人々とは明らかに容貌を異にしています。日本語は一年半ほど勉強したそうですが、本人曰く「あまり上手くない」とのことです。しかし優れた脳漿の持ち主ですから、恐らく我々の想像するレベル以上であろうと推察しています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年春のゴルフコンペ報告 (Ota_Motoo)

2016年05月18日 | ◆行事報告

 

2016年 春のゴルフコンペ報告

  題記のコンペが、以下の要領で行なわれる予定であった。

日程:2016年5月17日(火)

コース:リバーサカワ

参加者:12名(敬称略)

第1組:大久保(清)、小山、吉川、 太田

第2組:大河原、奥山、山口、相澤

第3組 有賀、花川、大久保(武)、田村

  ところが、1週間以上前から、天気予報では17日だけが雨でその前後は問題ないという表示であった。どうせ、予報は少しずれるだろうと半分たかをくくっていたところ、当日は未明から雨である。

 それでも、一応ゴルフ場に行って見れば、なんとかなるかもしれないと淡い期待を抱きつつゴルフ場に向う。

 集合時刻の8時に、参加予定者全員が揃うが、雨はしっかり降っている。暫く様子を見るが、良くなる気配は一向に出てこないばかりか、気のせいか益々ひどい降りになってきた気がする。

 幹事の田村君とこのコースのメンバーである大久保(清)君が、グリーンまで出向き、様子を見てきたところ、もう少しで水が浮いてきそうな気配とのことであった。

 ロビーのTVで現地の天気予報を確認したところ、午後3時過ぎにならないと雨が小降りにならないことが判り、残念ながら本日のコンペは中止にすることにした。

 

 次回のコンペの日程を参加者の都合を参考にして、

  日程:10月19日(水)

  コース:今回と同じリバーサカワゴルフクラブ

スタート:9:06 in

次回幹事:田村、太田(今回と同じ)

と決め、9時半過ぎにゴルフ場を後にした。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きよちゃんのエッセイ (55)”幼児の笑顔”(Okubo_Kiyokuni)

2016年05月16日 | 大久保(清)

幼児の笑顔

 休日の街の散歩はいつもと違う顔ぶれにお目にかかれる。平日は、まるで、祖父さん、婆さんデーの雰囲気なので、老人観察にはこと欠かないが、合わせ鏡の感もしないではない。この頃、少しめいってきた。余り夢がないようにも思われてくる。余命の世界を妄想するより、未来に向けて何かを無意識に感じながら、けなげに生きている子供の姿に接するほうが、数倍気持ちが和む気がする。彼らの生まれたままの愛らしい素顔に触れるとき、心の安らぎを貰う。このチャンスはめったに巡ってこないが、まるで、暖かな春風に顔を撫でられたような、仄々とした幸せ感を味わう。

 今日は、通りすがりの一瞬に春風が吹いた。若いお母さんに連れられた幼い姉妹がデパートには入っていく。一人先を行くお姉さんと離れ、お母さんを独占し、手を握りしめお母さんの顔を見上げながら、話しかけている妹のなんともいえない幸せそうな笑顔に吸い込まれてしまった。余所行きの服を着て久しぶりのオデカケ、少し上気した興奮気味の顔、少女の無邪気な眼差しを見て、ふっと、自分の幼年時代に体験したオデカケの懐かしい記憶が呼び覚まされた。余り大きな希望の箱をもたず、身の丈にあった小さな箱に、はみ出さんばかりの幸せを味わうオデカケの嬉しさだ。おねだりしたものが、本当に今日手に入るのだと、わくわくしながらも、まだ少し心配な気持ちが交錯する。

 平日に体験できる幸せタイムもある。それは、駅前にある沢山の保育所から街に繰り出してくる小人の軍団だ。一人でいる時は大人の影に隠れて目立たなくなってしまう幼児達が五人、十人と紐で結ばれ手をつなぎ街の雑踏の中を歩き出すと、デズニーランドの世界から小人達が、いっせいに抜け出てきたような錯覚に陥る。幼児の顔は純真無垢と言うのか、目の前に映るほんの少しの対象物に集中し、何も疑うことのない澄んだ眼差しで見返してくる。この目の前を通る妖精たちに、思わず言葉をかけてしまった。

 あまりに可愛く、生まれたままの無心の気配に反応し、――仏様みたいだーと思わず呟いてしまった。これは、一緒に付き添っていた若い保母さんには正しく伝わらなかったようだ。――縁起でもない、とでも言うような顔でそそくさと去っていった。仏と言う字は、日本では何通りもの意味を持つが、これから気おつけないと失言が続く気もする。今様の言葉は、――天使みたいーがいいのかもしれない。

 人間は歳をとると幼児返りするといわれるが、確かに、人生のしがらみを少しずつ、取り除き、人生の損得の欲もかなぐり捨てていくと、人間が生まれてきた時に、抱いていた無心の気持ちに立ち戻る習性があるのだろうか。これから、身体の方も幼児返りする予定だが、ほどほどのところで自然の胎内に戻れればと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河原 毅君が同窓会HPに掲載されました。

2016年05月05日 | 栄光学園同窓会

同窓会のHP「栄光の軌跡 あの卒業生を訪れて」の第1回に大河原毅君が掲載されました。本人の了解を得ましたので11会ブログに転載いたします。

 

 栄光11期の大河原毅氏を訪れました。 誰もが知るあの「ケンタッキー・フライド・チキン」を育てた方です。 本企画「栄光の軌跡 あの卒業生を訪れて」の初回に相応しい、「栄光愛」に満ち溢れたインタビューとなりました。

栄光で心に残ったことはと質問すると、出てきた答えは、『落第』でした。 正直意外でした。 ケンタッキー・フライド・チキンの元社長で、今は、上場企業ジェイシー・コムサのCEOという錚々たる経歴の方から、まさか『落第』という言葉が出てくるとは思いもしませんでした。

大河原さんは、実は栄光に入学した中学1年生の時から、既に初代フォス校長にかわいがられていたそうです。 それもそのはず、7つ歳上の兄が栄光2期生におり、地元でも名家で知られる大河原家でPTA会が行われていたとのことで、ご自宅にいつもフォス校長がジープに乗っていらしていたそうです。

ところが、中学時代真面目に授業を受けても、いつも成績は学年でビリで、学校から「落第」の判子を突き付けられてしまいました。 しかし、その時、人生を変える一言が父親からありました。 「君は奥手だから」と。

兄は東大。 自分は、栄光でも成績ビリ。 父がなぜ、その言葉を使ったかは、いまだに判らないそうですが、自分なりに非常に納得をした言葉だったそうです。

「そうか、兄はウサギ、自分はカメなんだ。」 そう解釈をした大河原さんは、『今、自分は落ちこぼれていても、絶対に大学はケンブリッジ、ハーバード、オックスフォードのどれかに行こう!』と決めたそうです。

栄光でのエピソードを、大河原さんは話し始めました。 「あのころ、放課後になるとスポーツをやっている連中は、掃除の時間なのにコート取りに向かっちゃうんだよね。 自分ひとり残って何をしたかというと、雑巾洗いをしていたんだよ。 数枚の雑巾じゃない。 教室に20枚ぐらいの汚い雑巾があってね、それを毎日、ピカピカになるまで1人で洗って、水道のところにかけていったんだ」

誰から言われたわけでもなく、ほんとうに「掃除=趣味」だったそうで、黙々とやっていたとのこと。 実は、この「掃除」が今の経営学でも活きているそうです。

小さいことでもコツコツと積み上げていくということ。

「自分はあるとき気が付いたんだ。 同じ学校の中で、同じことを先生が言っているのを聞いて、それでも自分は180人中ビリ。 頭のいい人は本当にいるものだと。 世の中でも、頭のいい人は上から目線で思ったり、話したりする人もいるかもしれない。 でも、最初から僕は違ったんだよね。 ビリだったから、上から目線なんて出来ない。 僕は、本当に一番下だったので、「いいところを見つける」「自分より魅力ある人と一緒にやっていきたい」って気持ちが自然と身についたんだと思う。

出来る人は、瞬時に判断できるから、会社で言うと短期的に収益が上がるとか、自分のメリットが無いことを、すぐに判断することをするかもしれない。 でも、自分はいいものを追求して、一歩先は損かもしれないけど、長い目で見れば得するものをコツコツと積み上げることが好きなんだ。 そうあの頃の掃除のようにね。 ケンタッキー・フライド・チキンの社長。 誰もが輝かしい経歴と思うかもしれないけど、実は1店舗目を作ったときは、苦労の連続だったんだよね。」

1店舗目をオープンしても売れない。 2店舗目も売れない。 でも、大河原さんは信じていました。 「売上は悪い。 ただ、このフライド・チキンは本当においしい。 絶対に成功する」と。

当時から優秀な人材には恵まれていたので、その人たちと日夜考え、中長期的な目線で店舗運営を効率化し、ようやく4店舗目から芽が出始めて、そこからあの掃除のようにコツコツと店舗拡大を繰り返していったのだそうです。


“あの”カーネル・サンダース氏と

今では全国区のケンタッキー・フライド・チキンですが、これまで山あり谷ありの経営だったとのこと。

「顧客目線で『安全でおいしいフライド・チキン』の提供をしていても、株主総会では『経営目線でコストカットを考えると、輸入の鶏を使ったほうが良いのでは?』と厳しい指摘も多かった。 短期的な目線でコストカットだけを考えると、そうだったのかもしれない。 ただ、自分は国産の新鮮な鶏でいかにおいしいフライド・チキンをお客様に食べていただくか。 それしかないと考えていた。」

会社にお金があると、派手なことをやりたくなる。 ただ、ケンタッキー・フライド・チキンは派手なイベントや広告プロモーションを敢えてやりませんでした。 一歩ずつ、一歩ずつ。 大幅な利益を上げるビジネス・モデルではなくても、顧客のことを考え、信じ、着実にやっていく。 そんな大河原さんの経営方針が、店舗数を拡大していったのでしょう。

「経営をするのも、自分自身も含めて、一番大切にしているものは「人」である。 苦難を乗り切ったのも、自分の周りの人のおかげ。 乗り切った後に、喜びを分かち合ったのも、自分の周りの人。」

今では、ケンタッキー・フライド・チキンを退職されて、別の会社におられるが、今の会社でも傍で支えてくれている人は、実はケンタッキー・フライド・チキン時代の人たちだそうです。

「栄光の卒業生にも、「人」を大事にして、周りにいる方への感謝の気持ちを忘れずにいてほしい。 人生の中で苦難は必ずあるものだし、その苦難を乗り切るためには、必ず自分のことを信じて、また自分も信じられる「人」である。

栄光学園のアイデンティティは、時代や世代を越えても、脈々と受け継がれている」

栄光学園で学んだ、助け合える精神こそが、今の日本経済の不況を乗り切れるキッカケになるのではないでしょうか。




大河原氏とインタビュアー米田(44期)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする