祖母の小包
想いでは歳とともに少しずつ薄れていくが、食べ物の記憶はいつまでも消えないものだ。祖母との食べ物の想いではたくさんあるが、これは、いつも郵便小包で送られてきた。
海の向こうの雪国で勉学に励んでいた頃、たまっていた洗濯物も干し終わり、行くとこもなくぼんやりとラジオを聴いている休日、薄茶色の厚紙に包まれた書留小包が届く。小包の表にはしっかりとした毛筆でこちらの宛先が書かれ、その字を見ると懐かしい皺だらけの祖母の顔が目の中に浮かんできた。
包み紐をほどく手ももどかしく、夢中で包装紙を解くと、のり、お茶などの贈答品を入れる化粧缶が現れる。蓋を開けると、ぷーんと、甘い匂いが漂う。甘納豆、麦こがし、かりんとう、五家宝、金平糖・・・どれも駄菓子の類であるが、みんな大好物だ。
雪の降りしきる津軽海峡を渡るとき、船の甲板から雪のかけらが蒼黒い海面に溶け込む様を見ていると、本州を離れ、最果ての地にきたな、との思いはあったが、祖母も北海道は未開発地との情報もあり、甘い菓子などはなく、厳しい土地で一人寂しく生活していると思っていたのだろう。
石油ストーブにあたり、水蒸気で曇る窓ガラス越しに、寒々とした雪景色を眺めつつ、甘い香りを鼻いっぱいに吸い込み、少しずつ摘まんでいくと、一人住まいの祖母の居間のぬくもりが、味気ない下宿部屋にゆっくりと満ちてきた。
お菓子便は、社会人になっても続いた。南の国ニューギニアでの一年にも及ぶ現場生活をしていたとき、始めての横文字の宛名書きだろう、一文字ずつ、アルファベットの大文字が万年筆で何度もなぞる様に綴られていた。輸送中にぶつけられ角がつぶれ、少し凹んだ缶の包み紙の上には、切手が帯のように貼られていた。切手代は菓子代をはるかに越えていたはずだ。
先の戦争で多くの兵士がジャングルの中で飢えとマラリアで死んでいる。明治の生まれの祖母のニューギニアでのイメージは、戦時中の記録映画の世界とだぶらせていたのではないだろうか。小包は慰問袋の気持が込められていた気もする。必ず、一枚の手紙が添えられ、季節のたよりが書かれていた。
南国の真っ青な空を眺めつつ、飢えの苦しみもなく、宿舎の庭で椰子の葉をゆらす風の音を聞きながら懐かしい甘みを咀嚼していると、灼熱の太陽にのみこまれ、なぜか、北国で体感した微妙な風味は伝わらなかった。だが、祖母の思いを必死に運んできたいびつになった缶を見ていると、擦りきれた赤茶の小包が、とても頼もしく、いじらしく思えてきたことを今も鮮明に覚えている。