Smartプロジェクト(その2)
1-2:現地の政情、経済情勢
Smartプロジェクト(その2)
1-2:現地の政情、経済情勢
Smartプロジェクト(その1)
鈴木(武)君から彼が手掛けたNTT初の民営国際ビジネス(Smartプロジェクト)の投稿がありました。膨大な原稿ですので複数回に分けて掲載させていただきます。また原文では実際携わった人が実名で記載されています。鈴木君からは「実名をそのまま掲載しても構わない。」との了解を得ていますが、私(奥山)が勝手に仮名とさせていただきました。
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Smartプロジェクト=初の完全民営国際ビジネス
初老
初老という字を辞書で引くと、昔は四十歳の異称であったと書いてある。
いつまでを昔と言うか分からないが、戦前までの平均寿命が五十歳に満たなかったことを考えると、人生最後の十年を迎え始めた時期をさしていたのだろうか。
だが、初老と言われてから、ご老人の尊称であるご隠居さまが許される穏やかな時間はさほど長くはなく、体力の衰えと共にご臨終をむかえた。老人の在位はことのほかはかないものであったようだ。ところが、近年、平均寿命は延び続け、この在位期間が著しく延長されてきた。
現在の女性の平均寿命は八十七歳、男性は八十一歳といわれる。人生の終末が五十歳から、三十年以上も延びてしまったわけで、中年と老人に挟まれる初老がらみの期間が大幅に広がってきたことはたしかである。
昔は、老人、初老、中年と言えば、年齢に見合う容貌や風体がおおよそ想像できたものだった。ところが、昨今、その輪郭がボヤケ、若作りの老人も多い。肉体年齢だけを見れば、昔の老人より今の老人は十歳ほど若いらしい、つまり、六十歳の若さを保つ七十歳が増え、七十歳もどきの八十歳が多くなってきたらしい。一方、精神面に目を向けると、年相応の風格のある老人は少なくなり、今の年齢に八掛けすると、昔の実年齢に近いそうだ。簡単に言えば、今の八十歳は七十歳の体力はあるが、ようやく昔の六十歳半ば程度の老熟度に達したにすぎないということだ。精神年齢と実年齢のバランスが崩れた結果、中年と老人の間にある初老の年齢層がずれてきた。
ここで、あえて、今の初老の相場を探ってみると、いくつになるのであろうか。
最近発売の辞典では、中年は四十代から五十代をさしているようだ。初老年齢はNHKのアンケードによれば、平均して五十七歳、丸めて六十歳が初老の入り口ということらしい。既に、戦前の四十歳と比べ、初老年齢の開始は二十歳ほど遅れてきているが、これは、あくまでも現在の老人の意識であり、寿命が延びれば、近い将来、初老への自覚年齢はさらに遅くなるかもしれない。
お役所からの書類では、六十五歳から七十四歳までが前期高齢者、七十五歳以上が後期高齢者と区分されてきたが、最近、医学会が年齢別の呼び名をまた変更するとの記事が載っていた。七十五歳以上が高齢者、六十五歳から七十四歳までは准高齢者と言うことになるらしい。高齢者の年齢重心が後ろへと移動してゆく。ここでいう準高齢者が初老にあたるのかもしれない。
初老とは中年を過ぎたが、まだ老人と呼ぶのは早いかもしれないよ、と人生の峠の上で一服しながら、まだ少し余裕を持ちつつ過去を振り返り、周りからの尊敬と優しさが込められた言葉であっだが、『老人』の定義もあいまいになりつつある昨今、夢のあった初老という言葉は、もはや賞味期限が切れかけている気もする。
栄光イレブン会(2018年11月11日)
1.日時:2018年11月11日(日) 16:00 ~ 18:00
2.場所:横浜駅西口 「 なか一 」
3.出席者:石島・太田・奥山・川原・小島・重山・鈴木(武)・田中(石)・露無・鳥居・中山・長谷川(和)・藤高・山口(隆)・山口(力)・柚木・吉川・米沢 (18名)
4.(1)露無君がわざわざ静岡から出てきてくれました。
(2)久しぶりに柚木君・吉川君の出席がありました。
5.次回は、2019年2月11日(月)建国記念日
祝日です。大勢の方の出席をお待ちしています。
クライペダの散歩 (2)
もう売れてしまったかもしれない、と、あせる気持ちを抑えつつ、まだ軒下に雪が残る裏道を歩いている。半年前の夏の出張で見つけた一枚のリトグラフである。
バルト海の港町にもなれてきた初夏の日曜日、朝の散歩の範囲を広げ、旧市街地の石畳の小路を足の向くまま突き進んでいくと、円形の小さな広場の前に出てきた。その殺風景な空間を囲むように歴史の匂いを感じさせるくすんだ白壁の建物が連なっているが、それが商店なのか住居なのか外からは区別がつかない。通りに面した小さなガラス窓から中を覗き込む。通りからの強い陽射しも届かずに、薄暗い壁際の棚には食器や骨とう品らしきものがいくつか並んでいる。
ドアをきしませながら、ゆっくりと足を踏み入れてゆくが、陳列品は思いのほか少ない。めぼしいものが見当たらないまま、気落ちした気分で奥に進むと正面の壁に絵画らしきものが目に入った。30cm、60cmほどの横に細長い額縁の中に、深みのあるワイン色と茶色がかったクリーム色を基調とした濃淡で色付けしたリトグラフが納まっている。
首都ヴィリ二ウスにある中世の建造物、教会、尖塔が立ち並び、それらを跨ぐように、ローブをまとった男たちが足の長い竹馬を乗り回し、鳩や小鳥たちがその間を楽しそうに飛びかうとても夢のあるファンタチックな構図である。
古い作品なのだろうか、紙色が幾らかあせているが、絵を引き立てる額は、細い金縁と木の皮をモザイク状に織り込んだ木目込み、さらに金縁と何重にも縁取りがなされ、単調な一枚の版画に重厚感を与えていた。
ほかの店も覗きたいし、また、冬に戻ってくるからと、その場では購入せずに店を出てきた。予想より値段が高く、飛びつくほどの衝撃的なインパクトがなかったかもしれない。だが、一風変わった、観る者を妙な気分にさせる、なんとなく気になる作品だった。
それからリトアニアにしばらく滞在するうちに、少しずつ国の姿が見えてきた。大国に囲まれた複雑な歴史を背負い、日本人の平板な理解の及ばないメランコリックな精神性を持ち合わせている人たちである。その特異性のためか、自殺者の割合は世界一。だが、豊かな森や湖に囲まれて、夢を追うどこか子供のような面も持っている気もする。
あの絵は、リトアニアの歴史、その国民性の影をうまく映しだしているのではないだろうか。あれから美術店を何軒も覗いてみたが、あの気になる絵に勝るものは現れなかった。
無事に再会を果たし、日本まで運ばれたリトグラフ。相変わらず、おとぎ話のような、そしてメランコリックな、不思議な雰囲気を我が家にふりまいている。