栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

Smartプロジェクト(その2)(Suzuki_Taketo)

2018年11月25日 | 鈴木(武)・関口・高野

  Smartプロジェクト(その2)

 1-2:現地の政情、経済情勢

フィリピンには台風、火山等の自然災害に加え、貧困問題が有ります。 実際にはマルコスの独裁政権時代に、これに反発して勢力を増した共産軍、また南部ミンダナオを中心に活動するイスラム反乱軍、これに加え東シナ海に広く接しているため麻薬汚染等問題が山積しています。しかしながら、ラモス大統領の治世でようやく政情が安定し、経済成長期待される状況となっていました。

成長の基となる海外投資を招く上で、種々の検討がされ、その中で通信基盤の不備が障害になっているとされ、ラモス大統領は海外の通信会社からの資本・技術導入を条件に、利益の得易いサービスである国際通信と移動通信の事業免許を新規に発行する事とし、その際、普及の進まなかった固定通信の敷設義務を負わせるという仕組みをオーソライズしていました。 敷設義務は国際通信の免許には30万回線、移動通信には40万回線とされ、両サービスの免許を取得する場合は70万回線となります。なお、フィリピンでは市内料金は原則無料で、これを見直しする動きもありましたが、政治的に実現されませんでした。従って、国際通信と移動通信から固定市内会社にアクセスチャージの仕組みで金が流れる仕組みとなっていました。固定回線はフィリピンの国土を5分割し、夫々に割り当てされますが、既設の電話会社とオーバーラップする形であり、また敷設義務を果した上はエリアを拡大する事も出来るとされ、実質的には全土で自由競争でした。

  Smart社もこの仕組みに則り、完全商用ベースでありながら免許条件としての70万回線の固定網構築(1回線あたり20万円としても1千5百億円規模)の義務を負っており、我々はその義務を事業として果す役割で、87億円の資金と共に19954月に赴任する事となりました。 なお、赴任の直前には117日の阪神淡路大地震への対応で地元に明るい人材を送り込んで指揮をとったり、現地の計算センターが破壊されたのを横浜の空きビルで代替手段を講じたりの多忙を極め、更に320日には打合せの為海外プロジェクト事務所の有った麹町から日比谷電々ビルに向う途中、日比谷公園の換気塔から酷い臭いを感じて咳き込み、数日咳が止まらなかった事等、日本も多難であった事が忘れられません。オームによる地下鉄サリン事件だったのです。

 Smart創立者は中近東でのコンサルで金を貯めたエンジニアのF氏と、銀行員からスピンオフしたB氏です。この二人は設備資金を節減する為、中古、即ち撤去品を活用し、既に時代遅れと思われたアナログ網の展開を開始していました。したがって、専門家や金融界筋からは無謀なプロジェクトと見做されていた様でした。 

 

 

  赴任直前に日本の通信機メーカと建設会社に御挨拶に上がった数日後、某メーカへ就職したNTTの先輩の訪問を受け、『我が社はフィリピンで、既に現地キャリアと独占契約で機器を納入している。その関係で、Smartの仕事は出来ない。Smartの経営が困難になってNTTに助けを求められると、当社として救援せざるを得ないが、独占契約との矛盾を生じて多大の損害を生じる。したがって、決してNTTの助けを求めないでくれ』と告げられ、赴任前に引導を渡された感じでした。 他の通信機メーカ各社も同様で、支援の約束は得られませんでした。 なお、赴任にあたって既にNTTの顧問となっていた藤原氏(仮名)に御挨拶に行った際、米国での思い出話しの後、事業をやるなら最低3年は行って来いとのお言葉を頂きました。

 

  機器購入とその建設工事を含めたターンキー契約の入札は、1ドル70円台を記録した円高の中、実質的に日本メーカの参加は得られず、欧米の数社の中からEricsson社とAlcatel社に絞ることとなり、更にAlcatel社が補充機器の単価を明らかに出来なかった事から、前者に落札しました。尚、日本はミスター円として知られている榊原財務官時代で、95年の秋には超円高を修正する方向となりました。なお、通信事業は設備をUS$で購入して債務化し、現地通貨で収入を得る構造ですから、国内政治問題からも大きな動きを見せる現地通貨ペソのボラティリティへの対応は頭の痛い問題でした。バランスをとるには、高くつく為替変動保険によるか、外貨収入を得る手段や事業が必要でした。

 

                                 < その3 >に続く

 

 

 

 

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Smartプロジェクト=NTT初の民営国際ビジネス(その1)(Suzuki_Taketo)

2018年11月22日 | 鈴木(武)・関口・高野

  Smartプロジェクト(その1)

鈴木(武)君から彼が手掛けたNTT初の民営国際ビジネス(Smartプロジェクト)の投稿がありました。膨大な原稿ですので複数回に分けて掲載させていただきます。また原文では実際携わった人が実名で記載されています。鈴木君からは「実名をそのまま掲載しても構わない。」との了解を得ていますが、私(奥山)が勝手に仮名とさせていただきました。

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Smartプロジェクト=初の完全民営国際ビジネス

1-1:プロジェクト開始に至る日本の背景

 藤野総裁(仮名)は1988年末までの在任中、小生に何度も電電公社は早く海外に進出なくてはならない、そのためには日本の資産が高い評価を受けている今の内に海外の資産を充実すべきと言われていました。これを受けて、NTTAmericaとしては、NJでのコンピュータセンタ(IDC)の開発等の不動産投資、ボストンでのベンチャキャピタル投資、鉄道を利用した回線アグリゲータ、社宅購入等も試みました。しかしながら、NTTの規模からすれば微々たるものです。要するに、ODAやJAICAによる海外協力やNTTインターナショナルでの事業経験は積んで来たものの、NTT本体の事業はNTT法によって国内に限られており、自ずと限界が有りました。

 1990年台初め、自民党の故橋田虎太郎(仮名)が幹事長当時、外遊中に世界で進む通信の自由化と通信会社の買収劇を見て、『NTTの一支店規模のKDDでは国際競争上無理がある。NTTが国際通信市場へ進出すべき』と声が掛かったそうです。日本国内での外資規制が無くなり、ケーブル&ワイヤレス等が派手な日本進出を果たしており、逆に日本からの海外展開がない現状を憂いたと言う事と理解します。

 NTTが海外で事業を行うにはNTTを国内に縛っている電電公社法の改正が必要で、橋田氏からのお声掛かりは渡りに船だったと言えます。しかしながら、国会での論議には実績が必要とされ、タイのTT&T (BOT=タイ通信公社の基で通信設備建設を請負って、一定期間その運営をする事で費用を購い、その後は公社の資産とする) に続き、インドネシアでサリムグループと組んでインドネシアで同様のBOTを浅井(仮名)関連企業本部長の命で勝山氏(仮名)等が企画していました。

 ところが、スハルト時代に政府機関とのビジネスでインドネシア最大の財閥に成長したサリムグループが、それ以上の巨大化を恐れた同政府が難色を示し、断念せざるを得なくなりました。財閥の当主たるアンソニー・サリムからその代替のプロジェクトとして、別途、香港で田川氏(仮名)らが検討していた、フィリピンで移動通信等の事業免許を得たばかりのSmart社を勧められ、これにサリムグループと共同で出資、経営参加することとなりました。 

 このSmart社はテレビ放送事業を目指してDoy Vea氏とDave Fernando両氏が設立したベンチャです。通信事業は放送に較べて巨大な資金が必要で、資金要請をサリムグループの香港子会社としてのFirst Pacificに要請しました。結果的にその傘下のフィリピン現地法人のMetro Pacificの子会社の位置付けになります。従って、BOTの様な政府のバックアップや、プロジェクト終了に至るストーリーが無い、NTTとして100%民間ベンチャへの初めての投資といえます。

 企通本が法営本へ改組して暫くしたタイミングで、浅井氏や鈴本氏(仮名)等先輩からフィリピンへ行ってくれないかとお話しがありました。

米国時代から懇意にして頂いた山田会長(仮名)にも相談しましたが、『本来NTTが出資するようなプロジェクトではないと思う。だが、NTT法の国際事業への制約を外すための実績作りが必要。最短半年で国会を通るので、それまではその会社をもたせて欲しい。』と背景を詳しく御説明頂き、説得されました。 

経緯を熟知している勝山・田川両氏に加え、フィリピンを中心にJAICA専門家等として技術協力の経験を持つ方々計13名で赴任しました。

実際に国際事業禁止の制約が取れるのには2年を要したのですが、小生は実業に携る事で、フィリピンに1995年から9年間以上も赴任している事となりました。

同プロジェクトは歴史のあるPLDTを買収する事で3年後からはSmart/PLDTプロジェクトに発展し、一時は市場価値でNTTの10%にも達し、現在も継続しているプロジェクトです。

   -----(その2)に続く----

 

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きよちゃんのエッセイ (100)”初老”(Okubo_Kiyokuni)

2018年11月19日 | 大久保(清)

 初老

 初老という字を辞書で引くと、昔は四十歳の異称であったと書いてある。

いつまでを昔と言うか分からないが、戦前までの平均寿命が五十歳に満たなかったことを考えると、人生最後の十年を迎え始めた時期をさしていたのだろうか。

 だが、初老と言われてから、ご老人の尊称であるご隠居さまが許される穏やかな時間はさほど長くはなく、体力の衰えと共にご臨終をむかえた。老人の在位はことのほかはかないものであったようだ。ところが、近年、平均寿命は延び続け、この在位期間が著しく延長されてきた。

現在の女性の平均寿命は八十七歳、男性は八十一歳といわれる。人生の終末が五十歳から、三十年以上も延びてしまったわけで、中年と老人に挟まれる初老がらみの期間が大幅に広がってきたことはたしかである。

 昔は、老人、初老、中年と言えば、年齢に見合う容貌や風体がおおよそ想像できたものだった。ところが、昨今、その輪郭がボヤケ、若作りの老人も多い。肉体年齢だけを見れば、昔の老人より今の老人は十歳ほど若いらしい、つまり、六十歳の若さを保つ七十歳が増え、七十歳もどきの八十歳が多くなってきたらしい。一方、精神面に目を向けると、年相応の風格のある老人は少なくなり、今の年齢に八掛けすると、昔の実年齢に近いそうだ。簡単に言えば、今の八十歳は七十歳の体力はあるが、ようやく昔の六十歳半ば程度の老熟度に達したにすぎないということだ。精神年齢と実年齢のバランスが崩れた結果、中年と老人の間にある初老の年齢層がずれてきた。

ここで、あえて、今の初老の相場を探ってみると、いくつになるのであろうか。

 最近発売の辞典では、中年は四十代から五十代をさしているようだ。初老年齢はNHKのアンケードによれば、平均して五十七歳、丸めて六十歳が初老の入り口ということらしい。既に、戦前の四十歳と比べ、初老年齢の開始は二十歳ほど遅れてきているが、これは、あくまでも現在の老人の意識であり、寿命が延びれば、近い将来、初老への自覚年齢はさらに遅くなるかもしれない。

お役所からの書類では、六十五歳から七十四歳までが前期高齢者、七十五歳以上が後期高齢者と区分されてきたが、最近、医学会が年齢別の呼び名をまた変更するとの記事が載っていた。七十五歳以上が高齢者、六十五歳から七十四歳までは准高齢者と言うことになるらしい。高齢者の年齢重心が後ろへと移動してゆく。ここでいう準高齢者が初老にあたるのかもしれない。

 初老とは中年を過ぎたが、まだ老人と呼ぶのは早いかもしれないよ、と人生の峠の上で一服しながら、まだ少し余裕を持ちつつ過去を振り返り、周りからの尊敬と優しさが込められた言葉であっだが、『老人』の定義もあいまいになりつつある昨今、夢のあった初老という言葉は、もはや賞味期限が切れかけている気もする。

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栄光イレブン会(2018/11/11)写真報告

2018年11月13日 | ◆行事報告

 栄光イレブン会(2018年11月11日)

1.日時:2018年11月11日(日) 16:00 ~ 18:00

2.場所:横浜駅西口 「 なか一 」

3.出席者:石島・太田・奥山・川原・小島・重山・鈴木(武)・田中(石)・露無・鳥居・中山・長谷川(和)・藤高・山口(隆)・山口(力)・柚木・吉川・米沢 (18名)

4.(1)露無君がわざわざ静岡から出てきてくれました。

  (2)久しぶりに柚木君・吉川君の出席がありました。

5.次回は、2019年2月11日(月)建国記念日

  祝日です。大勢の方の出席をお待ちしています。

 

 

 

 

   

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きよちゃんのエッセイ (99)”クライペダの散歩(2)”(Okubo_Kiyokuni)

2018年11月06日 | 大久保(清)

 クライペダの散歩 (2)

もう売れてしまったかもしれない、と、あせる気持ちを抑えつつ、まだ軒下に雪が残る裏道を歩いている。半年前の夏の出張で見つけた一枚のリトグラフである。

 バルト海の港町にもなれてきた初夏の日曜日、朝の散歩の範囲を広げ、旧市街地の石畳の小路を足の向くまま突き進んでいくと、円形の小さな広場の前に出てきた。その殺風景な空間を囲むように歴史の匂いを感じさせるくすんだ白壁の建物が連なっているが、それが商店なのか住居なのか外からは区別がつかない。通りに面した小さなガラス窓から中を覗き込む。通りからの強い陽射しも届かずに、薄暗い壁際の棚には食器や骨とう品らしきものがいくつか並んでいる。

 ドアをきしませながら、ゆっくりと足を踏み入れてゆくが、陳列品は思いのほか少ない。めぼしいものが見当たらないまま、気落ちした気分で奥に進むと正面の壁に絵画らしきものが目に入った。30cm、60cmほどの横に細長い額縁の中に、深みのあるワイン色と茶色がかったクリーム色を基調とした濃淡で色付けしたリトグラフが納まっている。

首都ヴィリ二ウスにある中世の建造物、教会、尖塔が立ち並び、それらを跨ぐように、ローブをまとった男たちが足の長い竹馬を乗り回し、鳩や小鳥たちがその間を楽しそうに飛びかうとても夢のあるファンタチックな構図である。

古い作品なのだろうか、紙色が幾らかあせているが、絵を引き立てる額は、細い金縁と木の皮をモザイク状に織り込んだ木目込み、さらに金縁と何重にも縁取りがなされ、単調な一枚の版画に重厚感を与えていた。

ほかの店も覗きたいし、また、冬に戻ってくるからと、その場では購入せずに店を出てきた。予想より値段が高く、飛びつくほどの衝撃的なインパクトがなかったかもしれない。だが、一風変わった、観る者を妙な気分にさせる、なんとなく気になる作品だった。

それからリトアニアにしばらく滞在するうちに、少しずつ国の姿が見えてきた。大国に囲まれた複雑な歴史を背負い、日本人の平板な理解の及ばないメランコリックな精神性を持ち合わせている人たちである。その特異性のためか、自殺者の割合は世界一。だが、豊かな森や湖に囲まれて、夢を追うどこか子供のような面も持っている気もする。

あの絵は、リトアニアの歴史、その国民性の影をうまく映しだしているのではないだろうか。あれから美術店を何軒も覗いてみたが、あの気になる絵に勝るものは現れなかった。

無事に再会を果たし、日本まで運ばれたリトグラフ。相変わらず、おとぎ話のような、そしてメランコリックな、不思議な雰囲気を我が家にふりまいている。

 

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