父島
薄汚れたプラスチックの洗面器を手の届く場所におき、板敷の床にうつ伏せになったまま、右や左に転がる身体をつま先で必死に抑えていた。ここは、薄暗い船室の中、頭の下から響いてくる重いエンジン音をかき消すように、船側を叩く波の衝撃音が絶えず耳に届く。千トンに満たない土木業者だけをのせる貨物船『椿丸』は荒波に翻弄されながら、東京の南1000キロにあるという父島を目指して懸命に舵をとり続けていた。当時は、まる二昼夜の船旅で、潜水艦の魚雷攻撃はないが、戦時下の輸送船に近い航海であった。
梅雨時の比較的、海の穏やかな時期を選んだのだが、黒潮の流れを横切るときは揺れを覚悟せよとの予備知識だけを頭に入れ、竹芝桟橋を離れた。まだ気持ちの余裕もあり、機関室からのオイルの匂いが流れ込む小さな食堂での最初の夕飯、あと何回食べるのかと、思いのほかに美味い土方メシを愉しんだのだが、航海中に胃に入れられた固形物はそこまで。それから船酔いがひどく何もくえずに、よだれを垂れ流したまま船底で唸り続けていた。
父島での仕事を思い出すとき、必ずこの船酔いのシーンから脳みそが回りだすが、次のシーンは、透き通った真っ青な海、そこに泳ぐ色とりどりの熱帯魚たち。まるで、天然の水族館。
魚が群れる二見湾の朽ち果てた桟橋には、真っ黒に日焼けした、長い顎ひげを垂らす、まるで戦時中からの敗残兵のような風体の男がこちらに大きく手を振っているのが目に入る。小笠原の村長さんと呼ばれていた土質屋のTさんだ。弊社の先兵として、港近くのバラック小屋に寝泊まりしボーリング作業を続けている。当時、父島は日本に返還されていたが、日本の近代文明は届かず南洋の孤島に近い状況で、魚は豊富だが、缶詰とわずかな野菜で食いつないでいた。
ドラム缶に天水をためたぬるい湯につかり、海風に顔を撫でられつつ、頭上に広がる満天の星空を見上げるとき、島と一体になって夜の世界に浸かっている不思議な感触を味わっていた。
この島で最初に苦労した会社はやがて業界で、力を持つことになるのだ、と若造は後になってわかってくるのだが、この時は、戦時下とあまり変わらない劣悪な環境からのがれ、早く東京に帰りたいものだと考えていた。
村長さんの案内で、父島観光をした。観光と言っても水遊びをして海岸を歩くしかないのだが。赤茶色に錆びついた沈船が海面から見え隠れする小さな入り江には、人っ子一人見当たらず、ザワザワッと静かに打ち寄せる波の音に混じって、緑がかった白砂がキュッ、キュッと足元で鳴いていた。父島で終戦を迎えた父のことを思い浮かべていると、背後の森の木立ちに隠れるように、誰かがそっとこちらを覗いているような不思議な気配を感じた。
最近の現地からの映像を見ると、強い陽射しを浴びて九百人乗りの豪華客船(小笠原丸一万一千トン)が二見湾に入港し、まだ若かりし男が設計した本土復帰第一号の小さな岸壁は、大きく拡張されモダンな埠頭にのみ込まれ、その場所はもはや確認できない。そして、ドラム缶風呂を楽しんだあの懐かしい素朴な景色もどこかにいってしまった。