6月29日、羽田から新千歳へ飛び、札幌へ向かった。北海道大学農学部農芸化学科昭和42年卒の同期会に出席するためである。同期は男性ばかりの36名で、6名が既にあの世へ旅立っており、2名が危ない。幹事からのメールによると、今回の卒後45周年同期会に女房同伴3名を加えて25名が出席するという。21名は北海道人のいう「内地」からの参加者であり、私と女房もそれに該当する。
5年前の6月にも札幌での同期会に出席した。この5年間、安部、福田、麻生、鳩山、菅、野田と首相交代し、最低の首相の下で日米関係を壊し、最悪の首相の下で福島第一原発の爆発、放射性物質拡散という人災を引き起こした。核処理工場を原子力発電所と言い換え、根拠のない安全神話を作り上げ、交付金をばらまいて全国に58基も設置してしまったが、炉の廃棄・解体、核燃料廃棄物の処理は困難と言われる。ユダヤ系科学者ロバート・オッペンハイマー達が開いてしまったパンドラの箱は閉じられないままである。
5年前と個人的に異なることは、6月13日に港北小学校卒後55年の会でも述べたが、会社勤務(杏林製薬知的財産部)を64歳誕生日に辞めたこと、2年半前にタバコを止めたことである。高血圧・高脂血症・高尿酸値は変化ない。 札幌へ向かうJRの車窓から景色を見ていると、なぜか小林旭の北帰行を懐かしく思いだした。昭和38年3月末、上野発の夜行列車で青森へ向かったとき、窓は夜露に濡れていた。真夜中の青函連絡船で函館へ渡り、特急大空で札幌に着いたとき、既にホームシックになっていた。なんで東京工業大学を受験せずに北海道大学へ行くことを選んだのか。
栄光の高三の旅行で北海道へ行き、大学構内のクラーク像やポプラ並木を見て、再度訪れたいなと思ったのは確かだ。しかし、それだけではなかったような気もする。心が傷ついた男は北へ向かう(女性は南?)というが、その当時に別に心は傷ついていなかった。でも、なんだったのだろう。とにかく一人暮らしをしてみたかった。
インターネットで北帰行を検索したことがある。昭和36年のヒットだが、その原曲は昭和16年に旅順高校を放校された宇田博氏が作詞・作曲し、歌声喫茶などで歌い継がれてきたものという。二木紘三のうた物語(http://duarbo.air-nifty.com)というサイトで原曲の歌詞も分かった。
宇田氏は飲酒し、女の子とデートしたのを教官に見つかって、高校生にあるまじきということで放校されたとのこと。私にはそのような経験はない。 JR特急は札幌駅に近づいてきた。札幌の人口は昭和38年に約70万人、卒業時でも約90万人であったが、現在では約193万人に達している。高層建築がどんどん増えて、北海道庁のレンガ舎、時計台がビルの谷間に埋没している。大通り公園のテレビ塔は電波送信を既に止めている。札幌駅の北側に広大な土地を占有している北海道大学は札幌の都市開発に邪魔だと言う人まで現れているらしい。札幌イコール北大は昭和の話という。
札幌駅から宿泊ホテルまで徒歩5分、チェックインし、着替えて外出。
北海道庁にて
北海道庁から北大植物園へ行き、北大農学振興会の園遊会に顔を出した後、サッポロビール園へ向かい、同期会に出席した。学生時代は農学部の中庭でジンギスカン・パーティをよく開いた。今回は屋内でのジンギスカンであったが、マトンの肉質改良、鍋の改造などによって煙は殆ど立たず、ここでも様変わりを感じた。今は昔である。同期の皆が学生時代と変わらず意気軒昂であったのが嬉しかった。次回の幹事を引き受けてしまい、卒後50年をまた札幌でやろうと提案したが、オリンピックだって4年だ、もっと頻繁にやろうよという声が多く、「古希の祝い」を2年半後くらいに入れようかなと思う。
富良野のチーズ工房にて
ところで、来年は栄光学園を卒業して50年になるのだなあ。栄光同期で北海道大学へ進んだ大久保清邦君と鈴木荘一君は工学部を卒業した。大久保君は日本工営で、鈴木君は日立プラントで活躍と聞いていたが、大学卒業以来、会っていない。元気にしているかな。再会したいものである。
以上 奥山君からの依頼を受け、雑感を記した。乱文を容赦されたい。