栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

北帰行(Odera_Shigetaka)

2012年07月29日 | 小寺

  6月29日、羽田から新千歳へ飛び、札幌へ向かった。北海道大学農学部農芸化学科昭和42年卒の同期会に出席するためである。同期は男性ばかりの36名で、6名が既にあの世へ旅立っており、2名が危ない。幹事からのメールによると、今回の卒後45周年同期会に女房同伴3名を加えて25名が出席するという。21名は北海道人のいう「内地」からの参加者であり、私と女房もそれに該当する。

 5年前の6月にも札幌での同期会に出席した。この5年間、安部、福田、麻生、鳩山、菅、野田と首相交代し、最低の首相の下で日米関係を壊し、最悪の首相の下で福島第一原発の爆発、放射性物質拡散という人災を引き起こした。核処理工場を原子力発電所と言い換え、根拠のない安全神話を作り上げ、交付金をばらまいて全国に58基も設置してしまったが、炉の廃棄・解体、核燃料廃棄物の処理は困難と言われる。ユダヤ系科学者ロバート・オッペンハイマー達が開いてしまったパンドラの箱は閉じられないままである。

5年前と個人的に異なることは、6月13日に港北小学校卒後55年の会でも述べたが、会社勤務(杏林製薬知的財産部)を64歳誕生日に辞めたこと、2年半前にタバコを止めたことである。高血圧・高脂血症・高尿酸値は変化ない。 札幌へ向かうJRの車窓から景色を見ていると、なぜか小林旭の北帰行を懐かしく思いだした。昭和38年3月末、上野発の夜行列車で青森へ向かったとき、窓は夜露に濡れていた。真夜中の青函連絡船で函館へ渡り、特急大空で札幌に着いたとき、既にホームシックになっていた。なんで東京工業大学を受験せずに北海道大学へ行くことを選んだのか。

栄光の高三の旅行で北海道へ行き、大学構内のクラーク像やポプラ並木を見て、再度訪れたいなと思ったのは確かだ。しかし、それだけではなかったような気もする。心が傷ついた男は北へ向かう(女性は南?)というが、その当時に別に心は傷ついていなかった。でも、なんだったのだろう。とにかく一人暮らしをしてみたかった。

 インターネットで北帰行を検索したことがある。昭和36年のヒットだが、その原曲は昭和16年に旅順高校を放校された宇田博氏が作詞・作曲し、歌声喫茶などで歌い継がれてきたものという。二木紘三のうた物語(http://duarbo.air-nifty.com)というサイトで原曲の歌詞も分かった。

宇田氏は飲酒し、女の子とデートしたのを教官に見つかって、高校生にあるまじきということで放校されたとのこと。私にはそのような経験はない。 JR特急は札幌駅に近づいてきた。札幌の人口は昭和38年に約70万人、卒業時でも約90万人であったが、現在では約193万人に達している。高層建築がどんどん増えて、北海道庁のレンガ舎、時計台がビルの谷間に埋没している。大通り公園のテレビ塔は電波送信を既に止めている。札幌駅の北側に広大な土地を占有している北海道大学は札幌の都市開発に邪魔だと言う人まで現れているらしい。札幌イコール北大は昭和の話という。

 札幌駅から宿泊ホテルまで徒歩5分、チェックインし、着替えて外出。

                                     

                                                       北海道庁にて

北海道庁から北大植物園へ行き、北大農学振興会の園遊会に顔を出した後、サッポロビール園へ向かい、同期会に出席した。学生時代は農学部の中庭でジンギスカン・パーティをよく開いた。今回は屋内でのジンギスカンであったが、マトンの肉質改良、鍋の改造などによって煙は殆ど立たず、ここでも様変わりを感じた。今は昔である。同期の皆が学生時代と変わらず意気軒昂であったのが嬉しかった。次回の幹事を引き受けてしまい、卒後50年をまた札幌でやろうと提案したが、オリンピックだって4年だ、もっと頻繁にやろうよという声が多く、「古希の祝い」を2年半後くらいに入れようかなと思う。

                   

                      富良野のチーズ工房にて

 ところで、来年は栄光学園を卒業して50年になるのだなあ。栄光同期で北海道大学へ進んだ大久保清邦君と鈴木荘一君は工学部を卒業した。大久保君は日本工営で、鈴木君は日立プラントで活躍と聞いていたが、大学卒業以来、会っていない。元気にしているかな。再会したいものである。

      以上 奥山君からの依頼を受け、雑感を記した。乱文を容赦されたい。 

                          

 

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近況報告(Fuzishima_Norio)

2012年07月22日 | 花島・福岡・藤島

 

先日、脳みそのCTを撮った。

「異状ないね」と主治医が言った。「では、いつもの通り、薬出だしとくね」。

「脳出血の痕跡もだいぶ薄くなっていますね」と小生。

「そうだね。すごくきれいになっている。この小さな点が出血したところだね。ほとんど消えかけているよ」

「おかげさまで、ありがとうございます」

「あれっ? 水が溜まっているよ」

彼は慌ただしく過去のCT画像を検証して「何で気付かなかったんだろう。前からこうだったんだね。これは子どものころからあったはずだよ」。たしかに、後頭部の4分の1が水溜りだ。

「……?」

「失礼だが、藤島さん、子どもの頃の成績は?」

そう言われればそうだった。祖母に連れられて、鍼医に通っていた。脳天に鍼を打ち、灸をすえていた。その瞬間のえも言われぬ快感は、未だに時折よみがえって来る。頭の中のもやもやが、瞬時に消滅し、蒼天を上って行く心地だった。

しかし、帰途に着くころには頭の中は渾沌として、意味のない言葉や模様が渦巻いていた。加熱した頭に思考する余裕はなかった。

脳内が人並みに平穏化したのは、小学4年のころだったか。

赤瀬川源平さんが「老人になると初体験の衝撃を味わえる」という意味のことを言っていた。長年の編集者生活の乱行のお陰(?)で、初体験は数限りない。

追浜駅の上にある、かかりつけの「湘南病院」の全科制覇を達成した(産科婦人科を除く)。

痛風、高血圧、狭心症などに関してはもうベテラン。「踵骨棘」という奇病も体験した。

3年前、大晦日に胆石の発作があった。

歩いて湘南病院へ行ったら、若い研修医しかいなかった。小生の病歴を見て「大動脈解離だ」と騒ぎだした。こちらは「胆石だ」と言っているのに聞こうとしない。

動脈にヘンな液体を注入されてCTを撮られた。結果は胆石が胆道に引っかかっていただけだった。

むりやり入院させられた。開けて新年元旦である。寝ぼけてベッドから転げ落ち、点滴が外れて腕から静脈血が噴出した。

初体験の衝撃もなかのものである。

これからやってくる初体験の、それこそ最初で最後のものは、“死”というやつしかない。いつ体験できるか、神のみがごぞんじである。

                  

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コンサートの案内を申し上げます。(Tanaka_Iwaki)

2012年07月16日 | ◆お知らせ・行事案内

栄光メサイアソサイエティでは、次のとおり計画しています。

日 時:2012.11.24(土)13:30開場、14:00開演

場 所:鎌倉芸術館 大ホール(定員約2,000人)

曲 目:ブルックナー作曲 ミサ曲第3番、    同      詩篇150番

   入場券:2,000円/枚(全自由席)

 「栄光メサイアソサイエティ」とは、栄光の卒業生、卒業生・在校生の父母兄弟姉妹、友人等約80名で構成している混声合唱団の名称です。原則として月に2回、日曜日に大船の学園小講堂で練習しています。

 管弦楽には、一部栄光のOBや、その家族もいますが、多くはプロを招聘していますし、声楽のソリストもプロを招聘していますので、聴き応えのある本格的な演奏をお楽しみいただけると自負しています。

 当日は3連休のド真ん中にあたりますが、ご来場いただければ嬉しく存じます。入場券は未だできておりませんが、鎌倉芸術館で販売するほか、私にお申し付けいただければ、取り次ぎ致します。 

なお、例年12月に聖堂で開催している「メサイア」の演奏会は、この演奏会との時期的な関係から、12月には行わず、来年3月頃になる予定ですので併せてご案内致します。

                              (田中*石城)

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俳句を始めました。(Ota_Motoo)

2012年07月11日 | 太田

  定年退職して以来テニス三昧の生活を送ってきたが、ここに来て、少しは文学的なこともやっってみたいと思い、2年ほど前から俳句を始めている。しかし、今回突然俳句をやろうと思ったわけではない。十数年前にソウルに駐在していた時に駐在員仲間からソウルの句会に誘われ、その時は逃げまくっていた。このソウル句会のメンバーが帰国してから東京で「まだん」(韓国語で庭とか何かを行う場所という意味)という名の句会を始めており、私が帰国してからも、今度はこちらの句会へ誘われていた経緯がある。

 また、定年退職を機に奥の細道を歩いた際、あちこちの友人から、奥の細道を歩くのだから、途中で俳句を詠むのだろうと言われた。最初はとてもその器ではないと考えていたが、あまりあちこちで同じことを言われるため、奥の細道を歩く途中から、俳句擬きのものを作り始めた。ところが見よう見まねでは話にならないことを痛切に感じるようになり、近所の句会に誘われたのを機に、句会に入ってみることにした。いざ始めて見ると、奥が深いことを少しづつ理解してきて、現在は、近所の句会とソウルの句会を含め全部で5つの句会に参加して、俳句を学びながら楽しんでいる。

 先日の11期の集いの際、中村智三君が俳句をやっておられることを知った。他にも誰かやっておられるかもしれないと思い、奥山君から11期ブログへの投稿依頼があったのを期に、俳句を始めたここ2年間のことを書いてみようと思い、最近参加した吟行のことを紹介する次第である。俳句の世界の入口をご理解頂き、面白そうだからひとつ俺も俳句を始めてみようかと言う方が出てこられたら、望外の幸せである。

 俳句を始めるに当って、まず、俳句の入門書を数冊読んで、「まだん」に参加した。「まだん」はソウルの駐在員仲間の句会という会の性格上、男性が殆どの句会である。しかし、それ以外の句会は女性が多い。年齢的には還暦以後の方が殆どである。

 句会では、先生から、初心者は、まず575の定型句を作ること、写生に始まり写生に終ると言うことを忘れるな、季語は一つだけにし、季重なり、季違いは避けることなどを教わる。そのため、まず歳時記を読むことから始めるが、新しいことを始めるときの常で、俳句の世界特有のしきたりがあり、これを覚えなければならない。自然を詠むことが多いため、草花の名前を知らないと不自由であるが、この名前を漢字で書くことが多く、この読み方が難しい。これらのことを一つづつ覚えていき、最初は「太田さん、それ、俳句ですか?」などと言われてもそれにめげずにこつこつと俳句作りを続け、外出の際はポケットに歳時記と俳句手帳を忍ばせるのが習慣になっている。 

 最近は、ほぼ毎週ある室内での句会の他に、吟行に出かける機会が毎月あるので、吟行の様子を紹介したい。

 5月27日にソウル仲間の「まだん」の吟行があり、今回の場所は三渓園であった。今まで三渓園は何度か訪れたことがあるが、吟行で訪れたのは今回が初めてである。句材を求めて園内を散策し、できた句を持ち寄って句会がもたれる訳である。

        

              三溪園の句会にて(1)

 その日のスケジュールは、10時に園内散策を開始し、途中適当に昼飯を各自済ませ、1時までに5句を詠んで句会場として予約してある園内の「月華殿」に集合し、1時半までに5句を提出し、1時半から5時まで句会がもたれる。句会では、幹事が参加者の句を紹介し(披講という)、参加者の評価を受けるというものである。

       

            三溪園の句会にて(2)

 今回の吟行の参加者は16名であった。今回の句会の進行は次のとおりである。まず、各自詠んだ5句を短冊に1句ずつ書いて提出し、提出された句が誰が詠んだ句か分からないようにするため、提出された短冊を参加者が分担して清記し直した上で全員に回覧し、参会者がその中から気に入った5句を選び、その結果を集計し、得票の多い順に投票者が何故その句を選んだか、どんな点が良かったかなどの意見を述べ合うわけである。また、投票しなかった参会者は、何故投票しなかったかを述べることもできる。参会者の意見が出揃ったところで、その句を詠んだ本人が名乗り、ここで初めて誰の詠んだ句かが分かるようになっている。 この句会の進め方は決して画一的なものではなく、句会によって、いろいろなやり方があるようである。    

                 

         三溪園の句会にて(3)

 次に、6月7日に行われた「花暦」という句会の吟行を紹介する。今回の会場は、フウテンの寅さんで世に知られる葛飾柴又の帝釈天とその周辺で、句会場は帝釈天の隣の山本亭であった。当日は、10時に柴又駅に集合し、12時過ぎまで帝釈天とその周辺の江戸川縁で3句詠み、13時半から16時半まで句会というものである。

         

            柴又・帝釈天の句会にて(1)

 この「花暦」という吟行専門の句会はメンバーは40名ほどで、そのうち女性が36名であるが、毎月行われる吟行に参加する人数は、20名ほどである。

        

                柴又・帝釈天の句会にて(2)

 梅雨入り直前ではあったが幸い天気に恵まれ、帝釈天では帝釈堂の有名な彫刻や、帝釈堂裏の大客殿にある日本一の大南天の床柱、𨗉渓園といわれる庭園などを拝観した後、江戸川縁に出て矢切の渡しの一丁櫓の手漕ぎ舟を眺め、山本亭では庭園を見物した後、句会に入る。参加者が3句ずつ短冊に書いて提出した句を参会者が手分けして清記し、披講された後、その結果を見ながら先生が参加者の提出した句を講評するというものであった。

         

                 柴又・帝釈天の句会にて

 このような吟行が毎月あり、その都度、幹事が懸命に考えて選んだ場所で句作に励むわけである。このような場所でじっくりと句材を探しながら散策すると、行ったことのある場所であっても思わぬ発見があったりすることもある。

 俳句を始めてからまだ2年であるが、自然に対する見方が以前よりも細かくなったと感じるようになった。 俳句の諸先輩の話をうかがうと、定年後に始める俳句の世界は60代は種まき、70代で芽が出始めて、80代でようやく蕾ができてくるという誠に気の長い話で、気長に取り組む必要がありそうである。

       句会の様子は、太田君のブログ「駒沢便り」に掲載してあります。

          http://komadayori.exblog.jp/

     

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近況報告(Matsunobu_Hiroshi)

2012年07月05日 | 増山・松信・水野

奥山さん等のご尽力により、11期のホームページが立派に運営されていることにまずはお礼を申し上げます。

 近況報告をということで吉川晋平さんから耳打ちされた時は、ハイハイと軽い乗りで引き受けたのですが、近況報告といっても誰も興味をもってくれないしなー、などと気が進まず、原稿が遅れてしまいまずはお詫び申し上げます。 しょうがないので卒業以来のことを簡単に綴ってみます。

  吉野さんの算数が全く分からず、成績不良で高校に進めないかも知れないと親が呼び出しを食らった割には、たいしたことはないけど順調に過ごして来ました。浪人もせず慶応、朝日新聞社に入り、丁度27年半勤務しておりました。灰野さんと一緒で朝日の営業職の試験を受けたわけですが、当時夢見た有楽町の本社の玄関をくぐることなく西部本社の販売部に配属されました。西部とは大阪・関西と思っていたのですがなんと九州。縁もゆかりもない土地で、勤務は結局11年にわたり、カミサンも子供二人も九州産ということになりました。

 33歳、バブルの真っ最中に東京へ転勤。一緒に『朝風3号』に乗って西部に渡った営業の仲間は結局九州で定年を迎えたので、まずはラッキーだったのでしょう。東京の着地は宣伝部。当時有楽町から築地に本社が移転をし、鉛を使った製作工程からCPによる製作への大転換の時で、部ごと消滅という部門が出てきたわけですが、大量に出現した社内失業者(失礼)の受け皿として、仕事を作る仕事といった今では考えられない業務も経験しました。でも時はバブル。面白い企画を立てスポンサーを探せば過分な協賛金を得ることも出来、若さもあって毎晩遅くまで働き、飲んで遊んで、今振り返れば一番面白かった時代かも知れません。

  国際営業部を作るから初代部長になれとか甘言に誘われてふたを開ければ英字新聞のドメスティック販売部長とか、アエラ発行室のメンバーになったのはいいけど、仕事は発行までにウン万人の固定読者を作れとか、まあ、人並みに色々経験をさせられました。灰野さんも書いていましたが、バブルの頃は新聞配達をする学生なぞ払底し、中国に20回くらいは就学生の募集にも行って来ました。 念願かなってやっと宣伝部長になって半年、有隣堂の社長をしていた父が脳溢血で倒れ、仕方なしに朝日を退社し、給料の安い有隣堂に移って来ました。

 1994年、ちょうど50歳。既にバブルは崩壊し、それまで販売額が伸びていた出版物の売り上げが初めてマイナスに転じた記念すべき年となります。以来現在に至るまで出版物の販売額は毎年減り続け、書店の数も当時の半分以下にまで減ってしまい、銀行によれば、『出版業界は不況業種』とまで言われるようになってしまいました。 

現在68歳。このような状況下でまだ働いているわけです。アマゾンの台頭、電子書籍の急速な普及、事務用品等B2B用品のEC化、お役所に税収が不足しているがためのリバースオークション等購買方式の変更などなど、地方の一小売店としては対処できかねるような難題ばかりが毎日押し寄せています。

 幸い、結構な多角経営のせいか、従来の枠の中や業界の中では生き残れているのかなーとも思いますが、ホント生き残り競争とはよく言ったものだと思います。デジタルなんぞ分からない小生は『紙の本は決してなくならない』などと業界の呻きに合わせたことを言ってはおりますが、果たして明日はどうなることやら。

 足腰の立つうちにリタイアーしたいものです。

              

            

 

 

 

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