フキノトウ
冷たい雨の日が続き、なんの前触れもなく急に暖かくなった二月の中旬。その日を待ちかねていたように、枯葉や雑草に埋もれていたフキノトウが一斉に顏を見せ始める。川の土手道や畑の脇にしゃがみこみ、可愛らしいフキノトウを摘み取ると、指先からあの独特のほろ苦い香りが匂ってくる。この刺激的な香りは毎日が日曜日の老人にとって、カレンダーのようなもの。今年も春が来たことを、また一年が始まったことをぼけた脳みそにしっかりと刻み込んでくれる。毎年、いくらかずれがあるようだが、そんなことは日々の暮らしに何ら影響はない。ミニ・タケノコのように、湿り気を帯びてきた地面から花茎が現れると、みるみるうちに膨らみを増し、包み込んでいた葉が大きく広がり、中から、小さな手毬のような花芽が顔を出す。この時期までに収穫すると、においが潤沢、花芽や葉も柔らかく、食するには申し分ないが、採取する時期を逸すると、ただの雑草になる。
秘密というほどのものではないが、フキノトウの隠れ家は大よその目安をつけている。鶴見川に一か所、恩田川に二か所、街中に一か所、今年の見回りは、まず、鶴見川沿の畑の脇の斜面にした。そこは雑草でおおわれ、散歩中の犬たちが気持ちよく放尿する、一見、ゴミ捨て場のような所であるので、おそらく、畑の持ち主以外にはフキノトウの存在が知られていないはずだ。斜面に目をこらし、一つ発見すれば、芋ずる式に、あそこにも、ここにもと、伸ばした手が雑草の中を這いまわる。急斜面にふんばっていた足腰をやすめるべく、土手道まで降りるたびに、膨らんだビニール袋は刺激的な香りで満ちてくる。
今日は恩田川に足を運んでゆく。途中、道路際に顏を出すフキノトウを発見した。その先に目をやると、道路に沿って細い排水溝が走り、その向こうに広がる畑にとりつく急斜面はフキノトウであふれていた。今まで見落としていた場所だ。怖さを忘れさせほどの大量のフキノトウにからだが反応した。道路の斜面に腹ばいになったまま排水溝まで体を滑らせ、側溝に足が付くと、今度は畑の斜面側に体を倒し、左手で体を支えながら、右手の届く範囲のフキノトウをむしり採る、採り終わると、蟹の横這いで進み、また、むしり、そして、カニの横這い。突然、背後から、犬の散歩中のお婆ちゃんの大きな声が飛んできた。
「危ないよ、気を付けてくださいよ、おじいさん、あんまり無理しないでね~」あいよ、わかった、気を付ける、と言いながらも、ビニール袋に詰めてゆく手が止まらない。耳の傍で、よくやった、と家人の声が聞こえてきたような気がした。これはスーパーではかなり値の張るものなのだ。