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栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

俊介歩行への道(Fujishima_Norio)

2013年05月25日 | 花島・福岡・藤島

 

藤島君から、掲題の投稿がありました。送られてきました文章は縦書きでしたが、ブログの制約により横書きに変更させて頂きました。

     

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『俊介歩行への道』

君、体重何キロある?」と主治医が言った。

個人情報に踏み込む無礼な問いに答える義務はないから、聞こえないふりをした。

彼は冷酷な口調で、「身長・体重を量ってあげて」と傍らの看護婦に命じた。彼女は以前、ウチの自治会で会計を担当してくれたことがあって、事務能力が卓越した女性として高名である。私は観念して彼女の指示に従った。

「17×、8×ですね」と彼女は数学教師の口調で言った。

「太りすぎだね。理想体重は68キロです。ダイエットしてください。血圧も尿酸値も劇的に良くなるよ」と、主治医がサディスティックな笑みをたたえて言った。「このままいくと、死ぬよ」。

この発言は、科学を学んだ人間の口にすべきものではなかろう。誰でも、呱々の声をあげたその時から、死にゆく道を歩む運命にあるのだから……。

私がウォーキングを始めた裏にはこんな事情があったのである。

歩く、となるとまず形態が大切なのは言うまでもない。

このテーマで即座に思い浮かぶのは、ノーマン・メイラーの『ぼく自身のための広告』である。

《スクエアは肩を揺すって熊のように歩く。ヒップスターは尻を振って猫のように歩く》と彼は書いていた。68年、世界中の学生が反体制運動に決起したが、その時代の空気を吸った人間としては《猫のように》歩きたい。しかし、猫の歩き方は若者の筋肉を持っていなければ腰痛を引き起こし、《デブは腹を突き出してフォアグラ鵞鳥のように歩く》仕儀となる。

次に思い浮かんだウォーキング・モデルは中村俊介だった。

『後鳥羽伝説殺人事件』に始まる内田康夫の代表作“浅見光彦シリーズ”の映像化で、かつて主役の浅見光彦を演じた役者である。身長185・バスト97・ウエスト75・ヒップ96・足27―ど恰好が良いということを改めて教えてくれる。水が流れるようという体型であるらしい。

役者の優劣は立ち姿で決まる、というのが私の持論である。試みに、何もしないで立っているだけの演技を要求されたら諸兄はどうするか。腕組みをしたり、後ろ手に構えたり、ポケットに手を入れたりと余計な動作を取り込むに違いない。

中村俊介は、自然体で立っているだけで美しい稀有の役者である。腕も背筋も、重力に逆らわずそのまま立つことが、これほに、風がそよぐように、ただ立っていることで、かれはぴたりと画面にはまってしまうのだ。

彼の歩き方が、また美しい。

その立ち姿同様、凛然悠揚、気品あふれる自然な手足の運びで、「浅見光彦」を演じた他の俳優、辰巳琢郎・沢村一樹・速水もこみち・榎木孝明らと一線を画す。

私なりの解釈では―ゆったりと、着地は踵から、つま先で地面を蹴る、靴底を引きずることはタブー、目に見えない直線を踏む形で進行する―といったところで、決してデブにとって難しい歩行法ではない。

近所を「俊介歩行」で歩く訓練をしていたら、やたらに通りすがりの女性に声をかけられる。「会長さん、(私は自治会長なのである)お元気そうですね」。おそらく、美しい歩行法が注目されたに違いない、と自信を持った。

そこで、歩行距離を延ばして、5キロほど離れた隣町の酒屋まで遠征してみた。『長兵衛』という酒が安く手に入るからである。

購入した一升瓶を下げて歩いていると、視界の片隅を自転車に乗った警察官が横切った。酒屋の近所に派出所がある。そこに所属する地域課の警官だろう。

などと考えていたら、その警官が私の進路を妨げるように自転車を止めた。私は、防犯協会の理事であり、青パト乗務許可証さえ持っている。不審尋問されるいわれはない。

「会長さん、今日はこんなところまでいらしたんですか」。声をかけてきたのは、我が町内の駐在さん(巡査部長)であった。「……さんこそ、担当でないところまで来るの? それにしても何で俺だって分かったの?」

「だって、会長の歩き方、特徴あるんだもん。最近、どうかしたんですか?」

称賛の言葉には、謙遜の無言の微笑みを返したのはいうまでもない。

帰宅して、家人に今日の出来事を自信満々報告したら、「前から忠告しようと思っていたけど、最近、あなたの歩き方は西田敏行にそっくりよ。だらしない歩き方が目立つから、駐在さんの目に留まったのよ。もっとまともに歩いたら」と、冷たく突き放された。

「西田、はないだろう。もう一声!」と哀願したら「そうね、スギちゃんかな」。

「ワイルドだろう!」で流行語大賞を受賞したお笑いタレントと同列の評価を得る栄に浴したのである。

「俊介歩行」完成への道は険しい。


銅版画について(Fukuoka_Kazuyuki))

2012年09月16日 | 花島・福岡・藤島

 10年前から趣味で銅版画を制作している。木版画を制作した経験がある人は多いと思うが、銅版画についてはなじみの薄い人もいると思われるので簡単に説明しておきたい。木版画は木の板を彫って版をつくる。絵の黒くなるところを残し、白くするところを彫刻刀で彫る凸版画である。

銅版画は銅板を彫って版をつくるが絵の黒くなるところを彫って溝を作る。この溝にインクを詰め紙をのせプレス機で圧着する凹版画である。この溝を彫る方法として様々な技法があるが大きく分けて二通りに分けられる。一つはいろいろな道具を使って銅板を彫る直接技法、もう一つは薬品で銅板を腐食して作画する間接技法である。なおよく耳にする「エッチング」はこの間接技法の一つであって銅版画全体を意味する言葉ではない。私が採用している技法は直接技法の一つであるメゾチントである。

メゾチントは最初にベルソーという工具を使って銅板全面に無数の小さな穴とまくれをつくる。これで銅板の表面はサンドペーパーのようなざらざらの粗面となりこのままインクを詰めて刷るとビロードの質感のある黒い面が得られる。この粗面を工具を使って削ったりつぶしたりして諧調をつくっていく。このようにメゾチントは大変手間のかかる技法なのでこの技法で版画を制作している人はそう多くないが「ビロードのような黒」の魅力には抗しがたく私はこの技法一本にしぼっている。メゾチントの作家として有名な人に長谷川潔、浜口陽三があげられる。長谷川潔の作品は横浜美術館が多くの作品をもっており目にする機会も多い。浜口陽三の作品は東京・箱崎にミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションがありいつでも多くの作品を鑑賞することができる。

  なぜ銅版画を始めたのか。直接のきっかけは両親の介護である。十数年まえ両親が同時に「要介護」状態になってしまった。両親の家は隣であったが私と妻二人で介護をしなければならなくなったのである。同期の方々のなかには同じようなことを経験した方あるいは経験中の方がいらっしゃると思うがとにかくストレスがたまる。このままだと私達がどうかなってしまいそうに感じたので妻と相談し週一回交代で家を離れる「休日」をつくることにしたのである。前々から銅版画に興味を持っていたのでいろいろ調べたところ多摩美術大学が生涯学習講座を開いておりそのなかに「銅版画基礎講座」をみつけたのである。一年間基礎講座で様々な銅版画技法のさわりを一通り勉強し、メゾチントが最も性に会っていることを確認した。二年目からは大学の工房に週一回通って制作している。

一般的にサラリーマンの場合、仕事を通じて本当の自分を表現する機会はあまりない。またあったとしても限られた期間にすぎず、まして外の人に伝える機会はさらに少ない。定年となり人生の最終段階をむかえつつあるとき、今まで美しいと思ったイメージのコレクションを作ってみたいと思うようになった。そしてこのコレクションは銅版画で表現するのが一番適していると思ったのである。このコレクションが結果として「伝えたい自分」を表すことになるような気がする。いつまでも印象に残っている美しいイメージはなぜそうなのか、本当の理由はなにかもう一度考え直しながら銅版画を制作するのは本当に楽しい。ただ制作しても未熟さ故表現しきれていない場合も多いが。このコレクションがどのくらいたまるか予想がつかないができるだけ長く制作を続けていきたいと思っている。

  銅版画を制作していてよかったと感じたことが最近あった。会社員時代転勤で大阪で5年半過ごした。20年以上前のことであるが多くの同僚はもとより社外の人たちと印象に残る様々な経験をすることができた。この方々と大阪での「同窓会」のようなことができないか考えた。運よく昔の同僚で墨絵を描いている人がいたので7月に大阪で「二人展」を開いた。全部で約150人の人に来ていただいたがうち約50人は友人・知人でとても楽しい「同窓会」になった。同期の及川盾夫ご夫妻にもお目にかかった。このような会も銅版画があったからこそだと思っている。絵や版画に興味がなくてもそれらを媒介して皆気楽に集まれるような気がするのである。来年か再来年東京で個展をするつもりである。決まったら栄光11会のブログでご案内するつもりであるが皆様にお目にかかれればうれしい。 

         

     


近況報告(Fuzishima_Norio)

2012年07月22日 | 花島・福岡・藤島

 

先日、脳みそのCTを撮った。

「異状ないね」と主治医が言った。「では、いつもの通り、薬出だしとくね」。

「脳出血の痕跡もだいぶ薄くなっていますね」と小生。

「そうだね。すごくきれいになっている。この小さな点が出血したところだね。ほとんど消えかけているよ」

「おかげさまで、ありがとうございます」

「あれっ? 水が溜まっているよ」

彼は慌ただしく過去のCT画像を検証して「何で気付かなかったんだろう。前からこうだったんだね。これは子どものころからあったはずだよ」。たしかに、後頭部の4分の1が水溜りだ。

「……?」

「失礼だが、藤島さん、子どもの頃の成績は?」

そう言われればそうだった。祖母に連れられて、鍼医に通っていた。脳天に鍼を打ち、灸をすえていた。その瞬間のえも言われぬ快感は、未だに時折よみがえって来る。頭の中のもやもやが、瞬時に消滅し、蒼天を上って行く心地だった。

しかし、帰途に着くころには頭の中は渾沌として、意味のない言葉や模様が渦巻いていた。加熱した頭に思考する余裕はなかった。

脳内が人並みに平穏化したのは、小学4年のころだったか。

赤瀬川源平さんが「老人になると初体験の衝撃を味わえる」という意味のことを言っていた。長年の編集者生活の乱行のお陰(?)で、初体験は数限りない。

追浜駅の上にある、かかりつけの「湘南病院」の全科制覇を達成した(産科婦人科を除く)。

痛風、高血圧、狭心症などに関してはもうベテラン。「踵骨棘」という奇病も体験した。

3年前、大晦日に胆石の発作があった。

歩いて湘南病院へ行ったら、若い研修医しかいなかった。小生の病歴を見て「大動脈解離だ」と騒ぎだした。こちらは「胆石だ」と言っているのに聞こうとしない。

動脈にヘンな液体を注入されてCTを撮られた。結果は胆石が胆道に引っかかっていただけだった。

むりやり入院させられた。開けて新年元旦である。寝ぼけてベッドから転げ落ち、点滴が外れて腕から静脈血が噴出した。

初体験の衝撃もなかのものである。

これからやってくる初体験の、それこそ最初で最後のものは、“死”というやつしかない。いつ体験できるか、神のみがごぞんじである。

                  


近況報告(Hanashima_Katsuhiko)

2012年02月12日 | 花島・福岡・藤島

 今年は年初より個人的に大きな試練に立たされました。117日より入院し、脳外科の手術をうけました。入院5日間、爾後の自宅療養をふくめ前後2週間休みました。原因はすべて小生の不覚によるものですが、年末の会社の忘年会の帰りに逗子駅頭で転倒し、目の周りにアザ、唇を多少切りました。これで済んだと思い、11213日と業務で香港に出張した折、かの地で頭痛に見舞われ、身体のバランスがとりにくくなりました。帰国後医者に行ったところ慢性硬膜下血腫と診断された次第です。術後の経過は順調で2週間後には仕事に復帰し、今はもとの多元的生活を再開しております。

さてその多元的生活ですが、仕事・教会活動・政治家応援の三つです。

仕事はPPS(特定規模電気事業者)の現役役員をしています。大学卒業後旧日本興業銀行に入行し、50歳で退職し金融調節を担う短資会社に転じ、10年ほど前、そこからスピンオフする形で丁度自由化が始まった電力業界に新規参入しました。

 

ご案内のとおり昨年の3.11以降電力業界は大揺れの状態で、東電の賠償問題、原子力再稼動問題、再生可能エネルギー導入、現行電力制度そのものの改革論議等、百家争鳴の感がありますが、私たちPPSは供給力確保を最優先に、需要家の関心の高まりのなか着実に経営基盤を固めております。とにかくエネルギーというものは、国民の生活に直結する一方、安全保障、グローバルな地政学的視点も必要で、興味の尽きぬ業界です。

 

 

教会活動もここ10年逗子教会ならびに横浜司教区をベースとして、福音宣教の活性化、教会経済財政基盤の強化等の企画に関与しております。第2次大戦後世界各国の宣教会、修道会が布教地日本を目指して司祭、修道者を派遣し、日本のキリスト教信者は急速に伸長しましたが、ここ30年ほどはほぼ横ばいであり、総人口比で約1%、カトリックのみですと0.5%にも満たない状況です。少子高齢化の波への対策の必要性は、教会とて例外ではありません。もう一つボランティア活動として、仲間と『ぶどうの木in湘南』という団体をつくり、薬物依存症者の回復・社会復帰のために微力をそそいでおります。

 

 

最後に政治家応援の話ですが、現在浅尾慶一郎衆議院議員(みんなの党政調会長)の後援会長を承っております。議員は中・高・大学の後輩であり、職場(旧日本興業銀行)も同じくしました。選挙区も一緒です。政治(家)不信が言われる中で、彼のブレのない正論に大いに期待しております。

 

 

このようにかなり多忙な毎日を過ごしており、プライベートでも写真のように初孫も生まれました(今年7月には二番目も誕生予定)。勿論老いは必ずやって来るわけですが、それまで(頭の怪我に気をつけて)出来るだけ豊かな人生を歩めればと念じております。

 

 

最後にいま気に入っている旧約聖書の言葉を添えて、拙稿を終えたいと存じます。

「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」

                          (ヨブ記第2章)

                         

                             

  

当時6ケ月の孫と(いまは1歳になったそうです。)

 

     

 

     娘夫婦とヨットで