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栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

【訃報】小島四朗君

2025年03月30日 | ◆お知らせ・行事案内
11期の皆様

小島四朗君が本日(3月29日)亡くなりました。
先ほど奥様から電話連絡がありました。
告別式は家族葬で行うとのことです。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
-----------------
イレブン会の常連だった小島君が参加されなくなり
気になって3ケ月程前に電話をしたところ「元気だよ~」との返事で
安心していたのですが。
奥様の話では、以前から腎臓が悪く「元気だよ~」は
本人が気を使ってそのように話したのでは・・・と言っていました。
---------------
このところ次々と仲間が欠けていきます。
何故こんなに続くのでしょうか!
悲しい限りです。
訃報を聞くたびに元気だった頃の姿が
心に浮かんできて胸が痛みます。
----------------
皆様、体に留意して
いつまでも元気で明るく楽しく生きて行きましょう。
----------------
     (奥山)========小島四朗君 追悼メール====================
お知らせいただき有難う御座いました。
最も強い身体の持ち主がなんと。。。。。。残念です。
体に気をつけて。。と言えない年なのでしょうか?
想い出がこみ上げてきます。                   (T・K)
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植栗弥神父の黙想会(藤が丘教会)

2025年03月18日 | 大久保(清)

植栗弥神父の黙想会(藤が丘教会)

卒業アルバムに記されていた植栗君の文章を見ている。

『愛は寛容で、情熱く、愛は妬まず、誇らず、たかぶらない、非礼をせず、自分の利を求めて、憤らず、人からの不義を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐えしのぶ、愛はいつまでも絶えることはない。 (コリント前書・・・13章) 私の一番憧れる世界。だが、遠く、高い』

(神さまは素晴らしいことをなさる)

卒業までに同期が十人以上も受洗するほど学園内の宣教活動が盛んな時代から早くも60数年、藤が丘教会で四旬節の黙想会が行われることになった。当教会在籍のOB信徒は6名、主任神父は17期の鵜飼氏、 そして、黙想会の指導神父は植木君。田浦の海辺の教室で机を並べていた同期生だが、彼は成績優秀なÅオナス組の熱心な信者、こちらは不信人な劣等生。今日はピンとキリとの久しぶりのご対面である。

彼が卒業時に語られた『コリント前書の13章』を頭の隅に浮かべながら、神妙に聖堂の席に着いたが、やはり、聖書の一節。(ヨハネ10章7~18)から黙想会が始まった。イエスは言われた

『はっきり言っておく、わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。‥‥・・・わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である』

植栗神父が二度読み終わると、その中から、心にひびく二句をメモ用紙に書きとり、その句への解釈に取り掛かる、心の階段を手探りしながら降りてゆく。己を知り神との出会いを体験する、『サダナ』と言う独特な祈り方である。しばしの瞑想のあと、神父様が次への瞑想の階段のドアを押し開けるヒントを短く述べる。また、しばしの沈黙の世界。神父様の講話に耳を傾ける従来の黙想会になれている信徒たちは、一瞬戸惑いながらも、静かに瞑想の世界に浸り続ける。神父様に導かれるままの心地よい時間は聖堂に集まった信徒たちの密度の濃い祈りとなっていった。

八十路の不信人ものに、植木神父様、わざわざ藤が丘までありがとうございました。

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小寺君の思い出 (Kiyokuni Okubo)

2025年03月05日 | 大久保(清)

 小寺君の思いで

小寺君との付き合いは、田浦ではなく、札幌の下宿屋から始まった。はるばる津軽海峡を渡った友は、鈴木莊一、小寺重隆,大久保清邦の三人。見知らぬ、初めての北国で、情報を交換し合いながら零下の冬を乗り切って行った。当時のNHKの大河ドラマは 『忠臣蔵』 二人して、四畳半の下宿の小さなテレビの前で、彼が持ってきてくれた菓子をかじりながら見入っていた。それから、数十年、音信不通が続いていたが、イレブン会のブログの中で、彼が再会を希望することを知り、交信が始まった。

彼は、十年前に開始された『きよちゃんのエッセイ』に、毎回、感想文を送ってくれた。時には、手持ちの関連資料を添えたコメントを付けて。、最終投稿の 『落下』についてもコメントをくれたのだが、このメールをもらう前、いつものように、近況報告が流れてきていた。

『妻が亡くなりました。葬儀をすませ、遺品整理やら、四十九日の法要準備で忙しく、かえって気がまぎれます』 奥様の訃報は突然の知らせゆえ、慌ててお悔やみの文面を整えたのだが、その訃報の二週間後、またメールが届いた。

『血痰があり、肺に影が見つかったので、急遽、検査入院します、申し訳ないが、エッセイの返信、三週間ほど休みます』 北大の農学部を卒業し、大手製薬会社に入社、特許部門の責任者の重職を務めあげた男は、おそらく、己の予後不良に気が付いていたはずだが、淡々と、メールを送り続けてくれた。

奥様をなくされた後で、かなり落ち込んでいたにもかかわらず、検査入院を終えて帰宅してからの一報である。見かけは、いつもの、元気なメール。

『朝食は讃岐うどん、電子レンジでチン,簡単で、結構うまい!』

生真面目で、ユーモアがあり、決して泣き言を言わない男からのメール。讃岐うどんを冷蔵庫から出して、解凍して、おつゆと一緒にのどに流し込む、それが精一杯の朝食だっただろう。空元気の、この一文がいまだに胸の底から消えない。

最後の、最後のメールは、『病院に戻ります、エッセイの送付はその間中止しておいてください』  

まだ実感はない。退院しましたとの、いつものメールはもうとどかない。十年間以上にわたり、鈍才の日本語を読み続け、加筆修正してから再送付するたびに、前文との違いを指摘してくれた専属の編集長、最終作まで本当にありがとうございました。

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【訃報】小寺重隆さん

2025年02月28日 | ◆お知らせ・行事案内
田村君から小寺重隆さん逝去の訃報連絡がありました。謹んでご冥福をお祈りいたします。---------------------
小寺重隆さんが、肺がんで2月初め横浜労災病院に入院され療養されていましたが、2月16日同病院でご逝去され
ました。
昨年4月11日に奥様が亡くなられて、おひとりの生活の中でしたが昨年9月16日には吉川晋平さんが開催してくれ
た妙蓮寺栄光会で一緒に飲んだのが最後になりました。
葬儀は栄光卒業の弟様お二人(15期生と17期生)が喪主をつとめられ、2月25, 26日妙蓮寺第二斎場で営まれまし
た。故人の強い遺志で、近親者と11期の妙蓮寺栄光会(吉川、松信、島村、依田、田村)でお見送りを致しました
。
小寺重隆さんのご冥福をお祈りいたします。
幹事 太田様 奥山様 栄光学園同窓会へのご連絡を頂ければありがたく宜しくお願い申し上げます。
田村====================-
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イレブン会(2025/2/11)の写真

2025年02月18日 | ◆行事報告

 イレブン会(2025/2/11)の写真

(1)日時:2025/2/11 14:00 ~ 16:00

(2)場所:なか一

(3)出席者:太田・大河原・大久保(武)・吉川(威)・佐久間・重山・鈴木(穎)・田島・田中(泉)・田村・鳥居・中里・中村(和)・中山・水野・花川・藤高・水野・山口(力)・吉川(晋)

(4)撮影:鳥居

 

 

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【訃報】松井哲士君

2025年01月25日 | ◆お知らせ・行事案内
11期の皆様
松井哲士君:2025年1月22日(水)逝去の
逝去の連絡が長女の斎藤絵美さんからありました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
============- 松井哲夫君への追悼メール===========
お知らせ有難うございます。
松井哲士君の訃報に接し、様々な思い出が蘇ります。
彼はNEC、私は富士通でお互い、競合会社の所属でしたが、
現役時代、しばしば情報交換していました。
またイレブン会で「栄光学園の諸先輩、同期の秀才達を見るにつけても、人間の能力は、所詮ハードウエアで決まってしまう。
ハードが優秀でなければ、優秀なソフトも稼働しない」
と言ったところ、「そのようなことは、口にするな」と窘められた記憶があります。
残念です。ご冥福をお祈りいたします。
  
    合掌 米澤
=========================
連絡、拝受いたしました。
残念ですが了解しました。
明日の通夜の参列予定です。
太田
=====================
皆様
びっくりしました。
松井哲士君は先の昨年11月イレブン会までほぼ毎回参加し、先日も調子は良くないが皆と会えるのを楽しみに来
ていると言われていました。
体調は良くなくともこんなに早いとは、ご冥福を心からお祈りいたします。
松井君の突然の訃報を受け驚いています。
寡黙な哲学者の風貌を持ち、我々の話をいつも静かに聞いていてくれました。落ち着いた人柄に暖かさを感じて
いました。
心からご冥福をお祈りします。
中村(和)
===========================--
松井哲士君の思い出  
松井君の急逝を聞いて驚いてます。
11期の集まりに毎回のように参加している写真を見てましたが、
水野君に聞くと最近元気がないようだというので、不安に思ってました。

松井君とは中一からの付き合いで、部活動のない日の放課後は軟式テニスボールを投げては打ち合って夕方まで
遊んでいました。
感性が似通っていたのでとても仲の良い友人でした。
中一の夏休みの国語の宿題に、本を読んで感想文を書くのがありましたが、松井君が幸田露伴の「5重塔」を選
んでくれました。
この読書のおかげで、古文も苦労なく読めるようになりました。

就職先が同じ会社になったので、本社に行くと必ず松井君の職場により、雑談しました。彼の弟の久さんは山岳
部の後輩で15期サブリーダーでしたが、早稲田の探検部のボート川下りで1969年に亡くなられたことを、彼から
聞き、深い悲しみを抱いたことを思い出します。

英語のTOEICが驚くべき高得点で、頭の構造が違うなあと驚いたことも思い出します。頼りがいのある友人でし
た。

合掌  小川(正)
==========================
同期の皆様
そうですか。松井君も旅立ってしまいましたね。イレブンフォーラムやイレブン会でご一緒していました。名前のとおり哲人の風貌と受け答えがまだ記憶に残っています。ご冥福をお祈りします。合掌。

P.S. 80才を迎えれば誰でもあちらに呼ばれるときが近づいたと思わなければなりません。一昔前は日本人も寿命は50才そこそこでした。古人曰く命長ければ恥多しと
も。心して日々を過ごしたいものです。
牧野
========================
ご連絡ありがとうございます。
松井哲士さんの突然の訃報にただただ驚いています。

11月11日のイレブン会では私の隣の席でした。食欲がなくて困っていると言っていましたが、こんなに早く亡くなるとは!
私が20年来服用している健康補助食品AHCCを紹介しようとしていた矢先でした。ご冥福をお祈りいたします。
相澤
======================
お知らせありがとうございます。
 われわれも遂にそんな年齢になりましたね。
 明日は我が身と、クビを洗って待っていなければならないと痛感します。
 松井君のご冥福を心からお祈り致します。
☆ 田中 (石)
=====================
松井さんの訃報ご連絡ありがとうございました。
松井さんにはフォーラム11でNECの懇親会場を利用させてもらっただけでなく、特許権や英語クラブの話をしてもらいました。
静かで寡黙ながら芯のある方でした。鎌倉のお宅が私の次男宅のすぐ近くなので会いたいと思っていましたが、急逝されたことは残念です。
ご冥福をお祈りします。
花川
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
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後藤典彦君ありがとう

2024年12月19日 | 灰野・畑田・花川

 後藤典彦君ありがとう

後藤君、ゴッツアンとうとうあなたも逝ってしまいましたね。あなたがレビー小体型認知症にかかってからもう

何年にもなりますが、パーキンソン症候にも悩まされずいぶん辛い思いをされていたことと思います。

なかなかお見舞いにも行けず、声が聴ければと時折お電話した際もだんだん声が小さくなっていることに気付き

ました。年賀状の文字も小さく弱弱しくなってきたことが気になっていました。でもよく頑張りましたね。

私がゴッツアンの家にお世話になったきっかけは、父親の退職、浦和への引っ越しでした。浦和から1時間半か

けて通学していた私を見ていた君は、半年たったころ戸塚の家に下宿するよう招いてくれました。高校2年の半

ばから半年の君の家の離れ家での二人の生活はまさに青春のドラマでした。同級生というより兄と弟でしょうか

。母屋の裏の坂の上はまさに僕たちの秘密基地のようでした。様々な思い出が尽きません。

高校3年で浦和高校へ転向した後も、君は僕を栄光学園の卒業アルバムに新聞部長時代の遠藤先生とのツーショ

ットでしっかり載せてくれました。また、栄光学園の今も続くOBセミナーを11期生から始め講師に呼んでくれた

のもゴッツアンでした。大学卒業後もゴッツアンがいてくれたおかげで同窓会メンバーにもなり、11期の同期生

との交流も続きました。鈴木規夫、花島克彦君と一緒に始めた「フォーラム11」にも参加してくれましたね。栄

光学園同窓会長として同窓会50年史を発行した君は誰よりも学園を愛し、同窓生を大切にしていました。

高校生の時から長老のような雰囲気を持った君は、地元の自治会長として長年勤めておられましたね。ゆったり

とした語り口と世間を横から眺める姿勢は独特でした。チェロも楽しんでおられましたね。私が本郷台に家を建

てたときは大工道具箱をプレゼントしてくれて気遣ってくれました。本郷台を離れてから交信の機会は減りまし

たが、10年前には同窓会11期常任委員として一緒に委員会に出席していましたね。

21年11月に軽井沢へ転居してからは、年賀状と電話のやり取りだけになってしましましたので奥様からお電話を

いただいたときは、ああとうとうゴッツアンも逝ってしまった…

と声も出ませんでした。ゴッツアンのやさしさと気遣いにいつも感謝でした。

ゴッツアン どうか安らかにお休みください。

 

2024年12月9日

 

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後藤君の思い出 (Kiyokuni Okubo)

2024年12月19日 | 大久保(清)

 後藤君の思い出

最近、訃報が届くことが多くなった。同期の集まりに参加しない無精者は名前を知らされてもすぐに顔が思い浮かばず、十一期卒業記念アルバムを開き、あ~、00君か~、と、学園時代の面影を辿りながら、その永遠の不在を胸のうちで確認する。

だが、部活動を共にした仲間はなぜか懐かしく、すぐに、あの皮肉たっぷりに一言返してくる大きな顔が浮かんできた。汗をかきかきサッカーボールをけり合っていたシーンも蘇ってきた。バックスはただ遠くまで蹴れる男の役回りになっていた単純な時代、後藤君はライトバック、こちらはレフトバックで、いつも勢いよく相手陣内にボールを蹴り返していた。それから、数十年間、ご無沙汰がつづいたが、ある時、戸塚の「鳥が丘」と言う場所で彼と偶然、再会した。

三十代の後半、新居を探していた。一戸建ての売り出し広告を片手に、敷地内の物件をひとつずつ、眺め歩いていた時だった。どこかで見たことがある、髭を生やした太めの男が、セールスマンらしき男と道路際で談笑していた。どうも、後藤君に似ているが・・・。気になり近づいて顔を確認したが、後藤君である。

「お前も家を探しているのか?」

思わず顔を覗き込むようにして二人の間に割り込んでいく。

「土地を売ったの」とあっけらかんとした声が返ってきた。そばで、セールスマンらしき男が愛想笑いを浮かべて、こう付け加えた。

「こちらは地主さまで、弊社が建売を担当させていただいております」

こちらの事情を彼に知らせるや、小野哲章も買ったぞ…、何だ、お前も買うのか・・・、と、数十年のブランクを吹き飛ばすように、バックス同士の顔に変わった。

結果から言えば、売り手に販売権が移行しており、地主はもう手が出せない段階なため、抽選番号にもハズレ、購入できなかった。

(大金持ちの家系だとは薄々知らされていたのだが、これは、これで終わった)

それから、数十年、藤が丘教会で問題が発生し、教会委員会の運営組織に関して、アドバイスをもらうべく、電話を入れたことがあった。

「教会委員で頑張っているのね、それはいいことだ、たまには教会に恩返ししないと」と、言い終えて、こう付け加えてきた。

「俺に訊いてもいい答えは出ないよ、前半で3点は取られるだろうよ、宮坂くんがいい、彼なら、しっかりと守備を固めてくれるから」

と、昔経験した、学校対抗の練習試合の大敗を思いだしたようだ、宮坂君は確か、センターハーフだったと記憶している。

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【訃報】後藤典彦さん

2024年12月16日 | ◆お知らせ・行事案内
11期の皆様

師走の中半のこの時期に、また悲しいご連絡です。
後藤典彦様(ゴッツァン)の奥様から、
先ほど電話を頂きました。
12月5日に肺炎で亡くなられたとのことです。
一式は、身内で済ませれたとのことでした。
ご冥福をお祈り致しますとともに、
深くお悔やみを申し上げます。

11期常任委員 太田元夫==============後藤典彦君 追悼メール==========

後藤様の訃報拝受しております。後藤典彦様のご冥福をお祈り申し上げます。 (Y・T)

-------------

後藤氏の訃報受け取りました。寂しい限りです。

同窓会その他会合で大変お世話になりました・

心よりご冥福をお祈り申し上げます。  (K・H)

----------------

太田様

ご連絡ありがとうございます。

彼は同窓会等の幹事を長期に引き受けて頂き大変有り難うございました。

ここにご冥福をお祈り申し上げます。   (K・T)

----------------

残念な知らせです

短い間でしたが後藤君と一緒にサッカーをしていました。

キーパーの壮一が亡くなり、サイドウイングの富治が逝き

今度は、ライトバックの後藤です。

思いだすメンバーは

センターホワード(江渕)、ライトインナー(葉山)、レフトインナー(多田)ライ

トウイング(富治)レフトウイング(?)

センターハーフ(宮坂)、ライトハーフ(吉川)レフトハーフ(田島)、ライトバッ

ク(後藤)、レフトバック(大久保)キーパー(鈴木)

懐かしくなり一枚書きました。   (K・O)

-------------------

太田さん、皆様

後藤さんの訃報のお知らせありがとうございました。このところ大分長くお目にかかっていませんでしたが残念

です。彼には同窓会でたいへんお世話になりました。ご冥福をお祈りします。 (H・M)

------------------

ご連絡ありがとうございます。

ますます寂しくなりますね。ご冥福をお祈りします。 (M・W)

------------------

後藤さんの訃報を悲しく受け止めています。

とにかく面倒見のいいひとで、在学中も同窓会でも長いことお世話になりました。

長いこと消息を伺わなかったので、体調を崩しておられたのでしょうか。

心よりご冥福をお祈りします。     (Y・I)

----------------

後藤君の訃報に接し色々なことを思い出しています。 彼とはブラバンでも一緒でしたし、戸塚にあった彼の家

にも何度も遊びに行ったなあ、、、などなど。ふと卒業アルバムを取り出して見ると彼がその編集委員長だったことも分かりました。 更にページを繰っていくと12年前の平成24年3月に中華街の聘珍楼で行われたイレブン会の集合写真が挟まっていました。 ここにも65人の同級生が写っていて今年亡くなったゴッツァンやペコちゃんも元気に写っています、、、、。 聘珍楼での集合写真をPDFで添付しましたけれど、元気な皆さんも思い出してご覧になってください。 

改めて今年亡くなった山口君、佐藤君、後藤君のご冥福を心からお祈りします。 (M・M)

-------------------------------------

太田さん

後藤典彦さんの訃報をありがとうございます。
彼の家は拙宅から徒歩で5分くらい、一番近くの同期生です。私が住んでいる鳥が丘分譲地では、彼は地権者で
私は分譲地購入者。分譲地ができた当時建築協定委員を務め、半永久的な協定を作っていただいたお陰で良好な
住環境が保たれています。
最も近くの同期生にもかかわらずここ数年訪ねなかったことを後悔しています。3年ほど前に電話で話した時に
は、大変元気な声で安心しておりましたが。
本日午後4時半ころに花束を持って弔問し、彼の遺骨の前でご冥福をお祈りしました。利子夫人から後藤君の思
い出と院内感染した肺炎に苦しんで亡くなられた様子をうかがいました。
戒名は浄土真宗「釋慈典」。彼は栄光在学中にカトリックの洗礼を受け、私が高3の12月に受洗した折には祝い
の席を率先して設営してくれたことを思い出しました。
6年前に撮影された遺影を後においとましました。  (M・A)

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【訃報】山口隆雄さん

2024年12月16日 | ◆お知らせ・行事案内
同期の皆様
またまた残念なご連絡です。
同期の山口隆雄様が11月26日に逝去されました。
心からご冥福をお祈り致します。

栄光学園同窓会11期常任委員 太田元夫=============山口隆雄君追悼メール=============

太田様

ご連絡ありがとうございます。山口隆雄様のご冥福をお祈り致します。だんだん淋しくなります。

       (Y・T)

---------------------

太田様

訃報のお知らせ有難うございます。御成小学校、栄光受験進学塾の同士です。

最近杖を使い始めたので、山口隆雄も年を取ったなと感じていたところです。

ご冥福をお祈りいたします。    合掌

        (K・Y)        

---------------------

山口隆雄さんが逝去された由、哀悼に耐えません。我々も皆、人生の終い方を改めて想い巡らすときに来ている

ということですね。 (H・M)

--------------------

同期の皆様

 花びらをひろげ疲れしおとろへに

    牡丹重たく萼をはなるる   ーー木下利玄ーー

私が元の会社を退職関連の際、住友人としてお骨折り頂いたこともあり、悲しくも残念、の一言です

 ご冥福を祈ります (R・N)

----------------------

山口隆雄さんの訃報のご連絡をありがとうございます。

山口さんがタイ、マレーシアに長期滞在しておられた時に、家内ともどもで海外長期滞在のノウハウを聞いたこ

とを思い出します。最近イレブン会を欠席していたので、具合が悪いのかと心配しておりました。

11期で38人目の訃報だと思います。ご冥福をお祈り申し上げます。

--------------------

山口隆雄君逝去の報に接し、悲しみに堪えません。

御成小学校1年生から大学(私が一年遅れましたが)までずーっと一緒、特に小学校3年まで同じ組でよく一緒に

遊びました。もう40年近く前でしょうか、「お前のような仕事にはこれが絶対必要だ」と勧められてVISAカードをゲット、今日も財布の中に。

手に取るたびにペコちゃんを思い出します。冥福をお祈りします。 (Y・I)

---------------------

山口さんから、数年前の横浜のホテルでのイレブン会の帰り際に、何故か急に「リンパ性悪種肉腫になってしま

った」と告げられました。きっと小生の大学3年の時に父がに同病で亡くなったのを記憶されて居られて居たの

かも知れません。お応えに困りましたが、「当時はマイトマイシンCという抗癌剤しかなくて1年の余命でしたが

、今は医療が進歩して5年以上は大丈夫だそう」とお応えした覚えがあります。励ましになったか否かは不明で

すが、こんな会話が出来た間柄の友人でした。ご冥福をお祈りいたします。  (T・S)

 

 

 
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【訃報】佐藤公一さん

2024年12月16日 | ◆お知らせ・行事案内
同期の皆様
栄光学園同窓会のHPのEACONに本日付で載りましたが、
ご覧になって居られない方が多いかと思いますので、
改めてご連絡差し上げます。

同期の佐藤公一様が昨年2月26日に逝去されました。
奥様から同窓会事務局へ連絡があったそうです。
心からご冥福をお祈り致します。   11期常任委員 太田元夫=======佐藤公一君への追悼メール====

佐藤様は鎌倉の病院の後、上大岡で在宅治療を行なって居られたと聞きました。

医師として、最後までお勤めされたのでしょう。御冥福をお祈りします。

               (T・S)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 太田様 お知らせ有難うございます。

> 御成小学校で、確か山口隆夫氏と同じクラス、しかも同じ塾(小川塾)に通っていました。

> 栄光受験のときの光景を思い出します。 ご冥福をお祈りいたします。 >

-----------------                  (K・Y)

太田さん、11期の皆さん

佐藤公一君の逝去の報に接し、心からお悔やみ申し上げます。佐藤君とは幼稚園から一緒で、よくお宅にお邪魔して遊んでいました。ある夏近所の仲間と日暮れまで由比ガ浜で遊んでいて、暗くなっても帰ってこないことで親たちが騒ぎ出し、こっぴどく叱られたことが思い出されます。

鎌倉駅の近くにあった佐藤病院は今では「大樹会ふれあい鎌倉ホスピタル」に代わっています。

そうそう子供心にもおぼえていますが佐藤君には美しいお姉さまがいて、キッコーマンの茂木友三郎氏と結婚され、数十年後海外の国際会議でご夫婦と同席したことがありました。凛々しい佐藤君の白衣姿が目に焼き付いています。               

                          (Y・I)

----------------------

 
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きよちゃんのエッセイは(190:転落)にて終了いたします。

2024年12月07日 | 大久保(清)

きよちゃんのエッセイのイレブン会ブログへの掲載は「190回:転落」にて終了いたします。

長い間の投稿及び拝読有難うございました。

なお、きよちゃんのエッセイは「青葉台便り」として続いています。拝読希望者は大久保清邦さんのところに

直接依頼してください。

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きよちゃんのエッセイ (190)”転落”(Okubo_Kiyokuni)

2024年12月07日 | 大久保(清)

 転落

もう60年以上前の出来事ゆえ、記憶がかなりおぼろだが、話の切り出しはこうだ。

なんだか変だぞ、と、ふらつく頭で立ち上がる。どうしたわけか、グッショリと濡れたズボンの足もとに小さな波がヒタヒタと寄せてくる。なぜ、ここに自分がいるのだろうか、と、まるで眠りから覚めた心地であたりをうかがう。コンクリの階段の上にたまった赤い血の跡をとらえた、反射的に、鈍い痛みを感じはじめていた顎のあたりをなでてみる、その掌が真っ赤に染まった。海に目を向けると、階段からかなり離れた位置に自転車のハンドルらしきものが水面から顔を出している。このあたりで、ようやく、現状を理解し始めた。自分は海に落ちたのだ。

その日は、いつもの登校時間のかなり前に、購入したばかりのサイクリング自転車に乗り、校門を抜け、校舎に向けて1kmにも及ぶ海に面した長い舗装道路を、ペダルをこいできたのだが・・・・、記憶が戻った場所はボートを接岸させるために岸壁の一部をえぐって設けた船員用の昇降階段。落差は3.4メートルほど。落とし穴のような階段の存在を見落としたのだ、とぼんやりと、頭が動き出す。

(今、思い返してみると。運よくと言うか、運悪くというか、この朝の通学時間は干潮時刻に重なっていた。満潮であれば、海にダイブして怪我をしなかったかもしれないが、逆に、自転車と一緒にもつれ、パニックのあまり、おぼれてしまった可能性もあった)

 

あの時は、もう、無我夢中だっただろう、と、若かりし自分を想像する。顎から滲みだす血を掌で押さえつつ、もう一方の手でフジツボがへばりつく階段に手をかけて、水に浸かった運動靴が滑らないように必死に道路の上まで這い昇った。しばらく、弱い海風にさらされたまま通学仲間の出現を期待して、ただ茫然と立ち尽くしていたのだろう。登校時間にはまだ間があるな、と思いつつ、校門の方を眺めている目が、こちらに近づいてくる一台の自動車とらえた。車に向かって懸命に手を振るなか、目の前でタクシーのような車は止まった。運転手が飛び出してくるなり、後部座席から松葉杖をついた学生も慌てて降りてきた。こちらの様子に気が付いた運転手は車に戻るや、止血すべく、ボロ布を手渡してくれる。

 

(今になって考えると、いつもの自転車通学の仲間に発見されるまでかなりの時間があり、それから救急車を呼び、病院に運ばれるとすれば、出血もあり・・・・・

このタクシーの登場は幸運としか言いようがない)

松葉杖の仲間は、自分はここから歩くので、と、一人で歩きだしたのか、彼を校舎まで送り届けてから、タクシーがこちらを乗せて田浦共済会病院に向かったのか定かでない、ともかく無事に病院についた。

病室のベッドに寝かされたまま、若い先生が顎のあたりをいじり始めた。針で傷口を縫うものとばかり思っていたのだが、なにやら、クリップのような器具で、傷口を挿まれている感触だった。処置をしながら、先生が問診を始めた。

『頭を打ってない?』

『どこか痛むところはない?』

他に色々聞かれたはずだが、記憶はない。覚えていることは、しばらくしてから警察官がベッドの傍に現れて、尋問口調で語りかけた。

『車にぶつけられたり、誰かに突き落とされたりしてないですよね~』

そのうちに、誰かが知らせたのだろう、心配顔のおやじとお袋が後ろからのぞき込んできた。その間、輸血をしていたのか、していないのか、そのまま帰らされたのか判然としない。それから、どのように自転車を海から引き上げたのか、タクシー代を誰が払ったのか??・・・、すべて記憶の彼方の出来事。

今になっても、顎の古傷をさすりながら何度も思い返すことがある。それは出血していた傷の位置。海へのダイビングの最中にも、ハンドルを握りしめていたのだろう。そのままの姿勢で自転車が階段の下に打ちつけられ、顔がハンドルのブレーキにぶつかったと推察されるが、鋭く尖ったブレーキの先が、あと1センチ下であったらば、おそらく喉をついていたはずだ。もしかしたら、目をついていたかもしれない。ホチキスで傷口を抑えただけの処置で終わったことは、奇跡のような気もする。

最後に、同じダイビング体験をされた旧校舎のお仲間がおられるかもしれない。皆様ご健在だろうか、なんだか懐かしい。

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きよちゃんのエッセイ (189)””ラクエンタ・プレファボーレ”(Okubo_Kiyokuni)

2024年11月11日 | 大久保(清)

 ラクエンタ・プレファボーレ

 題名は、『領収書をください』というスペイン語、メキシコに滞在したときに、最初に覚えたとても大切な言葉である。これがないと、帰国後に会社で精算処理ができない。

 メキシコ・シティーは標高2200mの高地にあるため、思いのほかに涼しく過ごしやすいのだが、空気中の酸素濃度がうすく、自動車のエンジンが不完全燃焼を起こし、硫黄分の多い排気ガスが町全体を覆っていた。この空気を毎日吸っていた結果、調査団員は鼻が詰まり、蓄膿症を患ったような症状に悩まされていた。この呼吸障害から逃げ出すようにして、毎月、一週間ほど、太平洋岸の港湾調査に繰り出していくのだが、海辺の太陽の照り返しに耐えきれれず、涼しさに慣れたからだはすぐにクールダウンさせてくれる場所に戻りたがる。 新鮮な海の空気を胸いっぱいに吸いこみ、鼻の通りはよくなるのだが・・、人間は、目先の辛さを逃れることばかり考える、本当にわがままな生き物である。

メキシコ・シティーに戻るや、消耗した体力を回復すべく、決まって訪れる場所があった。それはホテルから歩いて5分ほどの距離にある焼肉屋さん。テーブルに着くなり、“セルベッサ” “セルベッサ”と数少ない手持ちのスペイン語を全員が連呼する。冷えたグラスに冷たいビールを注ぎこみ、ひとしきり喉をゴクゴク鳴らしながら飲み続け、満足げなため息の音がつづく。喉を潤し終わると、全員の会話が途絶え、ただひたすら、いつもの店自慢の上質のカルビの焼きあがるのも待ちかねるようにして、柔らかなサンチュで包みこみ、シャクシャクと、肉を噛みしだく音のみが聞こえる。

聞きなれないスペイン語の洪水でおぼれそうになった耳に、店の主人の韓国訛りの日本語がなんとも心地よく、焼き肉を咀嚼する音の響きに同調し、気持ちに安らぎを与える醤油の匂いが和音の調べとなり、胃も腸もオリーブオイルから解放され、日本人本来のリズムで収縮運動を開始する。味噌汁に白飯、そして、たっぷりの生野菜は体内の血を生き返らせ、疲労気味の脳みそを芯から蘇生させてくれた。

久しぶりの日本情緒たっぷりの食事を堪能し終えた中年男たちは、膨れた腹をさすりながら『ラクエンタ・プレファボーレ』と大合唱したところで、目鼻に染みる排気ガスの臭さもしばし忘れて大満足でホテルに戻っていった。

半年にも及ぶ滞在を振り返ってみても、仕事の思い出は跡形もなく、喉元に残った味覚だけが、なぜか、鮮明に再現されてゆく。酒が弱い男は、テキーラをストレートで飲めずに、もっぱらマルガリータで酔いを楽しんでいたが、今、思えば、ビールがことのほか旨かった場所であった気もする。

“セルベッサ、セルベッサ”、といつも怒鳴っていたのだが、あれは、何ビールだったろうか、気になりだしたが、とんと、記憶がない。

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きよちゃんのエッセイ (188)”チョコレート”(Okubo_Kiyokuni)

2024年10月04日 | 大久保(清)

 チョコレート 

チョコレート屋さんが我が家の前にオープンした。名前は『レオ二ダス』 ベルギー王室ご用達の有名ブランドである。照明を浴びた陳列台の上でキラキラ輝くチョコレートの群れを眺めているうちに、なぜか、半世紀前に訪れたブリュッセルの街並みが、ふわっと、まぶたの裏に浮かび上がってきた。 

まだだ駆け出しの港湾技術者であったころ、アフリカの港湾調査に向かう途中、ベルギーに一泊したことがあった。当時は。なんの疑問も抱かずに、アフリカとの乗り継ぎ便が豊富ゆえ、ブリュッセルをベースとする「サベナ航空」を利用した、と思いこんでいたのだが、今、振り返ってみると、畑違いのダムの専門家である副社長が団長を引き受けてくれた際、おそらく、アフリカまで若造のおもりをして、なにか楽しみでも見つけないと、やっていけないわ~、との想いから、かねて気になっていたブリュッセルにある「ワーテルローの古戦場」の見学を思いついたのではないだろうか。副社長は、陸軍士官学校の卒業である。

リベリアの現場では専門が違うゆえ、180センチの上背を丸めるようにして、かしこまって、ただ、うなずいてばかりいたのだが、ワーテルローにやって来るや顔つきが変わった。生き返ったように目が輝き、胸を張り、背筋がまっすぐに伸びている。

1815年、ウエリントン公の率いるイギリス、オランダ連合軍にナポレオン軍が大敗した現場と言われる、目の前に広がるなだらかな丘陵地を見わたしていた副社長は、刻々変わる両軍の陣容が再現された見学者用の模型パラマの前に立つと、まるでナポレオンになったような鋭い眼差しで、観てごらん、ここで、新たに参戦してきたプロイセン軍と衝突したのだ、と、指を突き出しながら解説を始めた。

ワーテルローでの講義も終了し、当番兵の役目からも解放された男は安堵感に浸りつつ、あの「小便小僧」の像の前で何度も立ち止まり挨拶をしながら、映画のような街並みを映画の主人公になった気分で歩いていた。「森永や明治」の板チョコしか知らない田舎者にとって、気品のある姿で、魅惑的な香りに包まれた「生チョコ」はとても美味しかったのだが、やがて、紙袋の中で溶けはじめた。一粒ずつ取り出しては必死に口に運び入れていくうちにベトベトになってしまった

指先をただひたすら舐め続けていた・・・、その感触までも、住宅街に現れたチョコレート屋さんが蘇らせてくれたようだ。ブリュッセルと青葉台、この偶然の出会いに感謝。

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