栄光イレブン会

栄光学園11期卒業生の親睦・連絡・活動記録

ブログ開設:2011年8月23日

原発について(Torii_Nobuyuki)

2012年11月27日 | 角田・露無・鳥居

月に100Km程度のランニングを楽しんで体力維持をはかりスリムな体形(?)を維持していると自負しています。やっと寒くなって少し走りやすくなってきました。今回ブログ掲載の依頼に昨年の東日本大震災以降問題になっている「原発」について少しまとめてみました。

  在職中、原発関連工事を何件か担当しました。とりわけ青森県六ヶ所村の廃棄物貯蔵施設では、再処理されたガラス固化体を自動搬送する遠隔装置を設計しましたが、耐震強度への対応は当然のことながら、万一の場合の救援装置を別に設備するなど異常時の対応は十分にされていると思っていました。

昨年の東日本大震災における東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、原子力技術への信頼が揺らいでいます。そこから原子力に対するパッシングが強くなり、日本政府も2030年代には原発ゼロを目指すと最近表明しました。「原子力怖い」の世界になっています。日本は地震国であり、今回の大震災のように大津波の危険もあります。その中での原子力発電所は多くの危険をはらんでおり、脱原子力でエネルギ問題が処理できればそれに越したことはないと思います。

  福島原発の事故で大量の放射能が飛散し、汚染による健康被害が懸念されています。露無さんのバイオによる体内除染処理はすばらしいと思います。ところが、放射線は自然界に飛び交っており、私たちは普段から宇宙や大地から自然放射線を受けています。日本では1.5mSv/年(ミリシーベルト/年)、世界平均では2.4mSv/年ほど自然被曝しているのです。ブラジルでは10mSv/年の所もあります。医療でも胃のバリウム検査で0.6mSv、CTスキャンでは7mSv、日本人は平均的に4.0mSv/年医療被曝していると見られます。

 一方国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に基づき一般の人々は1mSv/年、放射線に従事する作業者は50mSv/年が被曝規制値とされています。これは先の自然被曝と医療被曝分を除くという条件です。除かれた自然被曝等の被曝量より一般の人々への規制値が厳しくなっていますが、この規制値は放射線の健康への影響限界に対してどれ程の尤度があるのでしょう。

 この被曝規制は放射能を浴びると発癌等の健康被害リスクが高まるということから来ています。広島、長崎への原爆後の詳細追跡調査結果から200mSv以上被曝した場合は、はっきりと癌のリスクの上昇が確認されました。また、100mSv~200mSvではわずかに癌で死亡するリスクが増えていました。その割合は1Sv当たり5%ほど癌で死亡する確率が上がるというものです。しかし100mSv以下では癌のリスクが上昇する証拠は全く見つかっていません。しかし100mSv以下 0mSv までこの割合で癌のリスクが存在すると仮定して、全ての人々への放射線防護の観点から先ほどの規制は設定されています。

また大変重要なのはこの広島と長崎の原爆のデータは一度に放射線を浴びた場合だということです。人間の体には自己修復機能があるので、同じ放射線量だったら一度に浴びるよりもゆっくり浴びた方が危険度は当然下がります。たとえば4Svを一気に被曝すれば1~2ヶ月で半数の人が死ぬと言われますが、白血病には2Svを2回当てて治療するそうです。放射線に対する耐力には個人差があります。特に、放射線に敏感な乳幼児、子供、妊婦などは当然不必要な放射線被ばくは避けるべきです。その意味で先の1mSv/年は余裕を持った安全規制と言えます。

それにつけても気になるのは「放射線怖い」の報道から出た風評被害が東北各県に出ていることです。0.12μSv/H(マイクロシーベルト/時間)の環境で1年間生活して先の規制値の1mSvの被曝になります。東京成田~ニューヨーク間を往復すると0.19mSvの被曝を受けると言われておりますので、その間7~8μSv/Hの環境で25~26時間居たことになります。国際線搭乗員の方々は多くの被曝を受けますのでガイドラインで5mSv/年を上限として管理されているようです。(女性の場合は一般と同じ1mSv/年)

ところで、私たちは放射線被曝しなくても25~30%の人は癌で死亡すると言われます。そして、タバコを吸う人は癌で死ぬ確率が男性だと2倍程度、女性だと1.6倍程度上昇します。交通事故や、車の排ガス、肥満、運動不足など、低線量の被曝よりもはるかに危険なものに、我々は取り囲まれています。このような危険度に比較して、先の1Sv当たり5%ほど癌で死亡するリスクが上昇する割合で計算すると、100mSv余分な被ばくをすると癌になる確率が0.05%増加することになり、先の25~30%に足されるわけです。これが問題にならないリスクであることは明らかでしょう。不必要な放射線被曝は避けるべきですが、目に見えないことからあまりにも神経質になっていると思います。

  次に、発電の代償としての廃棄物問題があります。核燃料サイクルの下流には、二つの流れがあります。原子炉で燃やしたあとの使用済燃料をそのまま放射性廃棄物として廃棄するか、再処理をするかです。使用済燃料の中には、燃料としてまだ使えるウランの燃え残りと、新しく生まれたプルトニウムが含まれています。このプルトニウムとウランを高レベルの放射性廃棄物から分けて取り出すのが再処理です。世界的には再処理をせず使用済燃料をそのまま高レベルの放射性廃棄物として廃棄するのが主流ですが、日本は再処理を行う方を選択しています。これはプルトニウムが増殖する夢の原子炉と言われる「高速増殖炉」を切り札として採用した結果と思われますが、プルトニウムはMOX燃料(プルトニウム入りウラン燃料)として軽水炉でのプルサーマル計画でも使用します。高速増殖炉は取扱が難しく危険が大きいため各国はあきらめ、日本でも事故続きでまだ暗礁に乗り上げています。地震国の日本では特に難しいと思います。

六ヶ所・核燃料サイクル施設で再処理及び貯蔵を行うことになっていますが、これも事故トラブル続きで遅れています。それ以上に先の原発ゼロを目指せば再処理でプルトニウムを取り出す必要もなく再処理工場は貯蔵施設としての役割を果たすしかありません。

原子力発電は、従来から事故のリスクは非常に小さいと考えられ原子炉の炉心が損傷するような重大事故が日本で発生するのは100万年に1回もないと言われて来ました。そのように絶対ないと言っても良いほどないと思われていた重大事故が今回起きてしまったのです。原子力技術への信頼が揺らいでいます。今回の事故の原因は東京電力が利益重視から津波対策に目を向けていなかったことすなわち人災と考えられますが、再度発生する可能性があると思われそうです。ただ、原子力関連の技術者は重大事故発生の危険は、今回の事故の反省から十分な対策をとれば、先の見解と同様にまれであると主張しています。

 とはいってもやはり、脱原発に舵を切ることは正しい選択と考えます。ただし、自然エネルギ等の代替エネルギはまだ不十分ですので、今回政府が言うように2030年代に原発ゼロと言うのは社会に与える影響が大きく、今後は低エネルギ消費の方向に進みながら節度を持って徐々に減らしてゆく方策が適当と考えます。

              

     

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【訃報】石井 健 君

2012年11月23日 | ◆お知らせ・行事案内

◆◇◆

水野信義君から、【石井 健君の訃報連絡】が入りましたのでお知らせ致します。

オ-ダメードしたかのようにピッタリとした制服を着で、かっこよく歩いていたスマートな石井 健君の姿が心に浮かんできます。    ご冥福をお祈りいたします。  (合掌)

◆◇◆

奥山殿

                         水野
  石井健が17日になくなりました。家族葬という
 ことで、鈴木荘一、川原、私の三人が参列しました。
 穏やか死に顔でした。
 皆さんに報告できたらと思います。

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多木和夫写真展「2012/11/27(火) ~ 12/8(土)」 ご案内

2012年11月20日 | ◆お知らせ・行事案内

多木和夫君の写真展が以下により開催されますのでご案内致します。

    多木和夫写真展  

  「New York City 1957」

会場:ギャラりー イー・エム 西麻布

  http://www.takeuchi-studio.jp/gallery_em/schedule.html

  (1) 表記URLをクリックすると多木和夫写真展の見出しが

  (2) Flyer PDFをクリックすると詳細な案内が   表示されます。 

会期:2012年11月27日(火) ~ 12月8日(土)  

時間:12:00 ~ 18:00 (日曜日・月曜日休館 入場無料)

住所:東京都港区西麻布4-17-10 

電話:03-3407-5075

 <作品内容>

Eisenhower大統領の1950年代のアメリカは最良の時代と言わfれています。その56年から2年半父の勤務先の転任で家族アメリカで過ごしました。そのNew Yorkを当時のKodachrome(Iso IO)で撮ったものです。(一部父が撮影)この表現力、保存性には定評がある当フィルムですが、それをモノトーンで再現することによりこのフィルムの表現力に迫ってきました。

カラーポジフィルムからのスキャニングから銀塩印画紙へのプリント等一連の作業をDGSM技法の開発者,永嶋勝美氏にお願いしました。氏の開発力もあわせてご鑑賞ください。

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近況報告(Hatada_Masao))

2012年11月13日 | 灰野・畑田・花川

平成16年に定年退職して以来8年間、東京の2箇所の博物館で週2回、来館者応対のボランティア活動をしてきました。上野の国立科学博物館と台場の日本科学未来館です。それ以外は借りている約40坪の畑と自宅の庭の手入れをするというのが私の日常です。これだけでも結構忙しく退屈する暇はないのが面白いところです。

  先日奥山さんから栄光イレブン会の記事の依頼がありました。大変申し訳ないことに正直なところそれまではイレブン会のHPはあまり読んでいなかったのですが、これを機会にバックナンバーを全て読ませてもらいました。びっくりしました。皆さんがなんと豊かな人生を歩んでこられたかに圧倒される思いでした。そこで平々凡々たる私の人生を振り返り一体何を書けばよいのか大いに悩みましたが試案の末、最も思い出深いプロジェクトを取り上げることにしました。

 私は昭和42年に上智大学理工学部を卒業し40年に設立されたばかりのコンピュータ・ソフトウエア会社に就職しました。実は大学院の試験に失敗し、就職先を探すことになったときにはこの会社の他に2社しか残っていなかったという状況で、あまり気の進む就職ではなかったのです。しかし、当時ようやく世に出始めたコンピュータのソフトウエア開発が仕事で、タコ部屋的な忙しさながら結構知的刺激のある職場でした。それでも3年も経つと生意気にも大体のことは解ったような気になり、仕事に変化を求めるようになります。栄光時代から英語に興味のあった私は、海外との関わりがある仕事をしたいと日頃思っており、もし機会がないならば転職もあり得ると友人に漏らしていました。

  そんなある日同期入社の営業の友人が「お前近々フロリダに行くことになるぞ」と声をかけてきたのが発端で、それから1カ月後には米国フロリダへ出張することになります。業務は種子島から打ち上げるロケットの飛行安全に関するソフトウエアシステムの技術導入の準備会議です。当時米国では、今は姿を消したパンアメリカン航空会社(PAA)の一部門がその分野のノウハウを保有し、ロケット打ち上げ時の飛行安全システムの運用も担当していました。そのノウハウを日本でも習得すべきというのが当時の宇宙開発事業団(NASDA)現在の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の意向でした。

  当時日本は液体燃料を利用する大型のロケット開発に着手し始めたところで、ロケットが安全に飛行することを保障する手立ても同時に確立しておく必要にせまられていました。ロケットの飛行を監視するNASDAの飛行管制官は、このシステムの表示するデータを見てロケットが異常飛行をして人命や財産に被害が及ぶことが予想される場合には、ロケットを自爆させる指令電波を発するか否かを判断するのです。現在までのところ指令により破壊したことは2回しかなく、日本のロケットの成功率の高さを示しています。(米国もロシアもロケット開発の初期には何十回も破壊しています。)

 このシステムは日本国がロケットの打ち上げの安全に責任を持つことを内外に示すためのものでもあります。通常の正常な打ち上げの際はロケットの飛行状況を関係者に提供することが主たる任務となっています。コンピュータの発達に伴いこのシステムは変貌を遂げ、現在の機能は当時とは様変わりしていますがその任務は今でも変わりません。

 出張命令を受け、飛行機も初めての私は喜び勇んで多少の緊張とともに、NASDA、三菱商事、NECの関係者と我が社から2名の総勢7名で羽田からDC10でフロリダに旅立ちます。昭和48年のことで、我が社からは初の海外出張でした。旅慣れない私は新調の背広とネクタイ姿で機上の人となりし、「気をつけないと」と思っていたのにネクタイにコーヒーのミルクを垂らしてしまい、がっかりしたものです。

  会議は順調に運び、合間に前年にオープンしたばかりのディズニーワールドを見物したり、米航空宇宙局(NASA)の関連施設を見学したりしました。今後の業務スケジュール調整などをして、2週間近くの予定の半分で目的を果たすことができました。日程に余裕ができたこともあり、折角海外に出たのだからとのNASDAの勧めで、ラスベガスでのグランドキャニオン観光、ハワイ観光などを楽しみ何とも優雅な出張となりました。途中での観光などそれ以降の出張ではあり得ないことです。NASAの見学にしても我々と同じ施設の見学が翌年にはNASDAの職員にさえ許可されなくなったなど、本当におおらかな出張でした。

 間もなくPAAからプログラマーが10名ほど来日し、東京品川のNECの三田工場内でNECのコンピュータを利用してのシステム開発が始まります。このコンピュータはPAAには馴染みのないものなので、我が社から数名の人間がサポートし、私はオペレーティングシステム側からのサポートを担当することになりました。

  開発開始直後のある日のこと。昼食に一人のプログラマーを誘うと、これが僕の昼飯だと言って、半分にしたキャベツを見せます。彼は菜食主義者でこれに塩をかけて食べるのだと言います。そういう人たちがいることは話には聞いていたのですが、お目にかかるのは初めてなのでびっくりしました。それからしばらくしたある日、一人のプログラマーが青い顔をして助けを求めてきます。プログラムを一部修正したところそれまで正常に動いていたのが全く駄目になったというのです。調べてみればたった1文字のミスが原因だと直ぐに判りましたが、彼にしてみれば大助かりだったようで、大変喜ばれました。PAAは業務開始直後は日本人のサポートなどいらないと思っていたようですが、色々な場面を経て我が社を頼りにするようになり、両者は急速に信頼度を増していきました。

  NASDAは、飛行安全システムを種子島からの打ち上げという条件で日本のコンピュータ上で動くようにすることだけではなく、このシステムのノウハウを日本に導入することも大きな目的としていました。それも大メーカーではなく小さいながらも新しい会社を育てることも意図していたようです。初めはPAAもシステム開発に専念するためノーハウを伝授するような余裕はなく、日本側の教育は種子島で実施することになっていました。我々サポート部隊は彼らが廃棄したプログラムリストをゴミ箱から拾って仕事の合間に勉強したりしていました。PAAによる教育の受け皿となるチームを編成するため我が社は間もなく10数名の新人を採用します。そしてその内の10名が私に任されました。それまでは高々数名の陣容でプロジェクトを担当していた私にとってはこれがかなりのストレスになったようで、一日数本程度であったタバコの量が20本へとかなりのヘビースモーカーになってしまいました。(タバコは昭和61年に止めそれ以来26年間1本も吸っていません。)

 昭和49年にはいよいよ種子島での作業が始まります。今でこそ種子島を知らない日本人は珍しいと思いますが友人は皆、私がとんでもない僻地に左遷されるかのように思ったようです。人は住んでいるのか、道路はあるのか、車の運転を間違えて海に落ちないように気をつけてなどと、とんでもない心配をしてくれたものです。初めての種子島は私にとっては別天地でした。当初の宿舎はつまべに荘という国民宿舎で、歩いて1分で海に入れるという、海が大好きな私にとってはたまらない環境でした。あまり開発が進んでいなかったこの島はNASDAがロケット発射場を建設することで、特に島の南の方で道路が整備されたりホテルが建ったりして急速に変わっていきます。関連の土木工事や警備などを請け負う会社も設立され、訪れる人も増加し島は潤っていきます。

 私は種子島に赴任することなく、1回1カ月くらいの出張を3年間で約20回繰り返しました。今は懐かしいYS11が鹿児島から種子島への足でした。種子島に通うようになった昭和49年の夏に見合いをし、翌年の2月に結婚しました。結婚しても半分以上は種子島出張で家に居ない方が多く、妻には寂しい思いをさせていました。罪滅ぼしにその夏妻と種子島見学のための小旅行をしたのがつい先日のようです。 種子島では日本へのノウハウ提供の集中教育が実施されました。NASDAの職員と我が社の社員だけを対象にした教育です。二次元行列式といった数学の基礎からの講義に始まり、すべての内容の終了時には卒業証書が授与されるという趣向で、こうした米国流のやり方は新鮮に感じました。

  飛行安全システムの開発もロケットの開発と並行して順調に進み昭和50年9月には日本初の大型液体燃料ロケットN-1号機が打ち上げられました。噴射ガスによる焦げ跡も生々しい発射台の近くに祝賀会の準備をし、搭載してあった人工衛星ETS-1の電波が受信されて、NASDAの初めての人工衛星が地球を一周してきたことが確認されてから皆で乾杯したのは、忘れ難い思い出です。

 PAAから導入した飛行安全システムは完全に日本に根付いただけではなく日本独自の発展を遂げました。打ち上げ準備として実施する飛行安全関連作業の中にはコンピュータを使用することができずに人手によらざるを得ない部分もあり、米国にはその作業を専門にしている技術者もいましたが、後に我々はそれを自動化することに成功しました。驚いPAAは、プログラムアルゴリズムの文書全てとプログラムリストを持ち帰りました。PAAが帰国してからは飛行安全システムに関する技術交流はありませんのでお互いのシステムはかなり異なった成長を遂げているものと想像されます。

 その後40年近くにわたりこのシステムは発展を続けて社業の重要な柱の一つとなっており、NASDAの当初の期待に十分応えることができていると思います。

              

       

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「話せばわかる。」ほんとに?  (Miyata_Yoshiaki)

2012年11月06日 | 宮坂(研)・宮田・三輪

 最近は囲碁に熱中するあまり、他のことは手につかない状況です。ブログ投稿を気楽に引き受けたのですが、なかなか着手できないでおりました。しかし、時間がどんどん経ちますので、中国と関係した時代に得た知識を基に、尖閣諸島に関する話題をやや独断的に届けることにいたしました。 

 領土問題は、話し合いで解決困難な国際問題の一つです。過去の領土問題は大方武力により国境線が確定しております。武力で実効支配され、泣き寝入りする場合も武力解決の範疇に入るでしょう。

  さて、尖閣問題ですが、中国の失地回復政策と海洋権益確保政策に絡んで、中国は核心的利益と位置づけております。尖閣諸島は中国の第一列島線(1920年を達成目標とする中国海軍の制海権確保境界)内にあるため、付近の海洋資源の存在と相まって、中国の領有権主張は強烈です。この背景には、ウイグル、チベット、南沙での成功経験があります。領土問題では、「寸を譲れば尺をとられる」という外交常識があります。中国の失地回復政策は清朝時代の最大版図を回復しようとするもので、朝貢国はこの版図内と見なしています。清朝時代、琉球王国は薩摩藩の支配下にありましたが、中国貿易を行うため朝貢をしておりましたので、中国は沖縄の主権は中国に属すると考えております。従って、尖閣領有を中国に譲ることは、沖縄の島を次に狙われる可能性を高くすることに他なりません。この観点から、日本は尖閣諸島の領有権を絶対に譲ってはならないのです。

  尖閣諸島の問題を外交で解決すべきとの識者の意見をよく耳にします。「話せばわかる」というわけですが、外交は常に軍事力を背景に行われるものです。交渉の舞台で武力行使をするぞと脅すことは少ないでしょうが、暗黙の了解として武力行使が背景にあるのです。尖閣問題でも、中国は軍事力の行使を示唆しております。南沙問題では、漁民が領有権を主張したい島にまず上陸し、漁民の保護を目的に中国海軍が進出し、構築物を建設して実効支配の実をあげておりました。尖閣諸島で中国海軍が出てくれば、海上自衛隊の出番となり、海上自衛隊は中国海軍を撃退できるでしょうが、忘れてはならいのが海上自衛隊の活動範囲が領海に限られることです。すなわち、局地戦での勝利はあっても中国海軍を屈服させることはできないのです。ここに日米安全保障条約、言い換えれば米軍の反撃能力の重要性が浮かび上がるのです。まさか、中国が対米衝突のリスクを冒してまで軍事力を行使するとは思えないからです。

   脇道にそれますが、日本の識者は品格ある国家が好きらしいのです。「国家の品格」(内容からいうと「日本人の品格」とすべきでしょう)というベストセラーがありましたが、外交には品格は不要です。国際世論を味方につけるため相応の理論武装は必要ですが、国益の追求はえげつないのが世界の常識です。国家は「善良な市民」と考えるより「やくざ」と考える方が分かりやすいのです。この点、多くの識者が誤解しているようです。まさに平和ぼけの具体例だと思います。 

 尖閣問題を考える上で、中国人の道徳観が日本や欧米のそれと異なりますので紹介いたします。高校で論語を勉強させられましたが、教えられた解釈は普遍的な道徳観であったように記憶しております。ところが、中国における論語(儒教)は身内(血縁に限定されません)への道徳なのです。これは大変驚きで、外の人間は騙しても罪と感じないのです。むしろ騙される方が悪いと考えるようです。客家と呼ばれる人たちの結束の強さは、このような道徳観の裏返しだとも考えられます。また、中国が白樺ガス田の共同開発を了解ながらも、単独で開発を継続し、操業を開始したのもうなずけます。さらに、棚上げした尖閣問題でも、近海の測量を行い、国連に海図を添えて領海申請したのも、この道徳観のなせる技かと思います。ただし、中国人が全員悪人と主張しているわけではありません。くれぐれも誤解のないようにお願いいたします。

  尖閣問題は日本か中国かが領有権を主張しなくなるまで続くと考えるのが妥当です。日本は尖閣諸島を実効支配しているのですから相当に強い立場にあります。この例は韓による竹島の実効支配に見ることができます。しかし、日本の法体系は外交問題の武力解決を前提としておりませんので、きわめて脆弱といわざるを得ません。たとえば中国が日本に宣戦布告した場合、日本には対応すべがないのが現状です。中国政府に示威活動を諦めさせるためには、尖閣諸島の実効支配を強化することが重要です。必要な施設を作り、警察官や海上保安官等の必要期間を常駐させる必要があります。中国は当然反発するでしょうが、これを恐れて「土下座外交」と揶揄されるようではいけません。中国の反発は日本にとっての好機なのです。

  理由は、このような日本の行動が中国政府の弱点を間接的に突くことになるからです。ところで、中国政府の弱点は、①中国人民の経済格差に対する不満、②人民解放軍の発言力の増大、③国際世論の中国批判、にあるといわれます。中国政府が反発し、反日デモを組織すれば、中国人民の不満に火をつけ反政府デモに発展する可能性があります。また、人民解放軍からは強硬発言が続くことになり、中国政府はこの沈静化に苦労することになるでしょう。これらは、中国の過剰な反日教育に起因しますので、その結果に責任をとらされるのは中国政府なのです。

  中国政府の対抗策として子供じみた嫌がらせがあります。経済的な対日制裁は、短期的に日本に打撃を与えますが、中国も返り血を浴びることになりますので、いずれ継続を諦めるでしょう。レアアースの対日禁輸の例でもわかるように、このような経済制裁は世界の中国評価を落とすことになります。また、中華思想(中国は世界の中心でその頂点にあるとする思想)と正史史観(自己の正当性を都合の悪い事実を隠匿してまで主張する歴史観)に基づき、中国政府は高圧的で独善的な領有権の正当性を主張するでしょう。このような主張に対しては国際法等の国際基準に照らした反論が必要でしょう。同時に世界世論を味方につけるため意見広告等の広報を強化することが重要でしょう。

  「話せばわかる」、「問答無用」。1932年の5・15事件の犬養毅首相と海軍青年将校との有名な会話ですが、今は日本政府と中国政府の尖閣諸島を巡るやりとりの構図となっております。この問題に関しては「話せばわかる」という幻想を捨てることが肝要です。また、日本が攻撃しなければあいても攻撃せず、平和が保たれるという幻想を捨てることも重要です。前述の脆弱性を改善するため、海上警備と安全保障上の法体系を整備・強化し、いかなる侵略にも対応可能な体制を整えるのが急務です。日本が普通の国家になる、これが日本の方針であってほしいと思います。

  最後に、中国とは是々非々の関係を築く必要があります。対立するところは臆することなく対立し、それ以外では友好的な関係を模索することに尽きるのではないでしょうか

                          2012/10/19 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 奥山 巌です。

宮田君の場所を借りて、尖閣諸島に関して学生時代の友人が送ってきましたユーチューブの動画を掲載させて頂きます。

分かり易い英語(in English)で、
尖閣諸島の帰属について、証拠に基づき明確に述べています。
国際的にも、国内に向けても、極めて参考になると思われます。

是非、下記URLへアクセス下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=sK0dPy8L4OU

別の記事です。
http://youtu.be/taqsm7L9Q1I

 

 

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